第25話 真紀にとっての決着
「……と言うわけだ。感想は?」
それに真紀は僅かに顔を顰めながら、質問で返した。
「因みにお伺いしますが、上層部は以前からこの事実を掴んでいたわけですよね?」
「ああ。幾ら本人が、事を荒立てたくはないと言っても、社員にちょっかいを出した馬鹿を放置するつもりはなかったから、私が指示を出して信用調査部門に調べさせた。だが君は一連の記憶を払拭するべく、日々邁進していると杉本部長から聞いていたのでね。神経を逆撫でする様な真似は、したくは無いと判断してお蔵入りにしていたんだが。何か言いたい事があるかな?」
「いえ……、もう本当にどうでも良い事ですので」
藤宮の代わりに、実務を取り仕切っている金田が説明を加えてきたが、真紀は特に文句を口にしたりはしなかった。それを受けて、藤宮が真紀に告げる。
「そうか。それではご苦労だった。戻って構わない」
「はい、失礼します」
そして彼女がおとなしく引き下がってから、真紀の直属の上司でもある杉本が、些か納得しかねる顔つきで問いを発した。
「ところで社長。奴がブローチと慰謝料をこちらに渡したら、本当にその証拠は北郷サイドに渡すおつもりですか?」
「そのつもりだが。何か問題でも?」
あっさり肯定した藤宮に、杉元ははっきりと不満顔になったが、ここで何やら考え込みながら小野塚が口を開いた。
「確か……、以前別件の調査をしていた時、北郷議員の関与が明らかになった事例がありましたね。先程の証拠の文書より、そちらの方が公になったら拙いかと思いますが」
「それは、これの事ですか?」
そこですかさず寺島がファイルから抜き出して差し出してきた書類を見て、過去にそれを見た記憶があった小野塚は、本気で呆れた。
「……これが今、ここですかさず出てくると言う事は、さっきのネタをあっさり渡して北郷サイドを安心させておいて、ほとぼりが冷めた頃にこちらを公にするつもりですか?」
「こちらで暴露しても、一円にもならないな」
「と仰いますと?」
小野塚が問いを重ねると、藤宮は薄笑いを浮かべながら今後の方針を口にした。
「そうだな……。議員の夫人と息子の不倫スキャンダルが一段落して、再婚相手と華々しく披露宴を挙げた直後に、どこからかリークされるとか。追及を受けた北郷議員が失職や辞職すれば、議席が一つ空く。そこを虎視眈々と狙っている筋に持ち込めば、十分金になるだろう?」
「与党内の敵対派閥や、野党の対立候補陣営とかですか?」
思わず杉本が口を挟むと、藤宮は平然と頷いた。
「そういう所だったら、ちょっと値が張っても買うだろうな。北郷はこれまで何度も上に担ぐ相手を変えてしぶとく政界を渡り歩き、狐面の蝙蝠と陰口を叩かれていている、大して人望が無い奴だ。忌々しく思っている人間は、幾らでもいるだろう」
「確かにそうですね。絞り取れるだけ搾り取るおつもりですか」
思わず杉本が同意しながら呆れていると、藤宮がさらりと妻の事を口にする。
「美子もテレビの画面に奴の顔が映った途端、不愉快そうにチャンネルを変えていたからな」
それを聞いた面々は、思わず無言で互いの顔を見合わせ、金田がその場全員を代表して、笑いを堪える表情で問いかけた。
「……結局、社長の《奥様至上主義》が最大の理由ですか?」
「何か文句があるのか?」
「いえ、夫婦仲が宜しくて、大変結構かと存じます」
そこで苦笑いしながら全員が社長室から出て行き、一人残された室内で、早速藤宮は溜まっていた書類の決済に取りかかった。
「健介! どこに居やがる!?」
「田辺さん? 一体どうしました?」
「あいつは部屋だな!?」
「はい、健介さんならそうですが……。田辺さん!?」
事務所の大部屋に髪を振り乱して突入するなり叫んだ田辺に、重原は目を丸くしたが、彼は険しい表情で室内を見回し、すぐに飛び出して行った。そして何事かと重原が慌てて後を追う中、田辺は健介と宗則の仕事部屋に入るなり、絶叫する。
「健介! 貴様、桜査警公社に探りを入れる様な真似をして、何喧嘩売ってやがるんだ!」
「田辺さん!?」
「げっ!? 何でいきなりここに!?」
ノックもせずに押し入った彼の姿と、常にはありえない乱暴な物言いに、室内にいた二人は顔色を変えたが、宗則の手元にある組み立て中の物を認めた田辺も、更なる怒りで顔をどす黒く染めた。
「やっぱり爆弾騒ぎは、貴様らの仕業だったのか! お前がろくでもない事をしやがったせいで、先生の議員生命は風前の灯火なんだぞ!! 分かってんのか!?」
「田辺さん、いきなり何の話ですか?」
自分に組み付きながら恫喝してくる田辺に、健介は困惑したが、そこで重原達事務所スタッフが、全員室内に入ってきた。
「田辺さん! 一体どういう……、城島さん? 何ですか、それは?」
「え? ええと……、これは……」
重原から疑念と非難の視線を浴びて、もはや言い逃れもできずに宗則が固まる中、田辺が健介に向かって吠えた。
「さっさとブローチを出しやがれ!! てめえが隠し持ってるのは、分かってんだ!!」
「ブローチって、何の事だか」
「しらばっくれんな!! このパールのブローチの事だ!」
「…………」
「ちっ! このグズ野郎が!」
渡された画像を田辺がポケットから取り出して突きつけると、健介は目を見開いて口を噤んだ。それを見て盛大に舌打ちした田辺が、背後にいるスタッフ達に向き直り、ブローチの画像を見せながら言い付ける。
「お前達! こいつがこれを持っている筈だ。家捜ししてでも探し出せ! 一時間以内に見つけた奴には、現金で百万支払ってやる!」
「百万ですって!」
「本当ですか!?」
「本当だ! ここのマンションの鍵は、管理人が保管してるから、後で家捜しに行くぞ! まずはこの部屋だ、徹底的に探せ!」
「はい!」
田辺の宣言にスタッフ達は色めき立ち、忽ち目の色を変えて室内を物色し始めた。
「じゃあ、まず机を探すぞ!」
「ここの鍵はどうします?」
「叩き壊せ!」
「分かりました!」
忽ち室内は引き出しと言う引き出しを開け、ファイルや保管用の箱を片っ端から引っ掻き回す無法地帯と化したが、それを壁際から呆気に取られた表情で眺めていた宗則は、同様に呆然として隣に佇んでいる健介に囁いた。
「おい、健介。これは一体何事だ?」
「俺にも全然分からん」
「それに、あの写真のブローチって、例のあれだよな?」
「……ああ。確かにそうだが、どうして田辺さんがあれを探すんだ?」
「それはともかく、あれは今どこにしまってあるんだ? 部屋か?」
「それは……」
怪訝な顔の宗則に尋ねられた健介が、言葉を濁しながら無意識に右手でジャケットの左側を軽く押さえた。すると少し前から注意深く健介達の様子を窺っていた中田が目を血走らせ、雄叫びを上げながら健介に組み付く。
「そぉこだぁあぁぁ――っ!!」
「うわっ! 中田さん、何を」
「ブローチゲ――ット! 田辺さん、これですよねっ!!」
健介が驚いている間に中田は右手で彼のジャケットの襟を掴んで手前に引き寄せ、左手を勢い良くその空間に突っ込んだと思ったら、内ポケットに入れていたブローチを探り出し、素早くそれを取り出した。
彼女がそれを掲げながら重原に駆け寄ると、彼は一気に顔色を明るくして気前良く叫ぶ。
「これだ! 良くやった、今百万をくれてやる!」
「やったー! 臨時ボーナスゲーット!」
中田が万歳し、周囲から舌打ちと溜め息が漏れる中、呆然としていて反応が遅れた健介が、慌てて田辺に詰め寄った。
「田辺さん! それは俺のです! 返して下さい!」
「五月蝿い! 盗人猛々しいとはこの事だ! 貴様のせいで、どれだけ迷惑を被ったと思ってる! おい! 俺が事務所を出るまで、こいつをしっかり押さえておけ! じゃまさせるなよ? いいな!?」
「は、はい!」
「ですが田辺さん!」
「すみません、健介さん。少しおとなしくしていて下さい!」
「離せ! 田辺、どういう事だ!」
健介が伸ばした手を振り払い、田辺が鬼神の形相で命じた為、男性スタッフ達はこぞって健介に取り付き、彼の動きを押さえた。その間に田辺は中田を引き連れて部屋を移動し、金庫を開けて彼女にまず百万を現金で渡してから紙袋を用意させ、それに百万の束を無造作に五つ詰め込んで、慌ただしく事務所を後にした。
「菅沼君。受付から連絡で、田辺氏が戻って来たそうだ」
内線で連絡を受けた杉本が、自分の机で書類を作成していた真紀に声をかけると、彼女は時計で時刻を確認してから、感心した様に感想を述べた。
「……想像していたより、随分早かったですね。戻って来るまで三時間かからなかったとは」
「それだけ必死だって事だろう?」
「秘書って言うのも、大変な職業ですね……」
苦笑いした杉本に、真紀が遠い目をしているうちに、廊下からバタバタと慌ただしく駆け込んでくる足音が聞こえてきた。そしてすぐに必死の形相の田辺が現れ、彼女の前で土下座する。
「おっ、お嬢様! お約束の品をお持ちしました! どうかご確認の上、お納め下さいませ!」
日中の事であり、防犯警備部門の者は殆どが出払っていたが、事務処理などで残っている者は何事かと全員席を立ち、真紀の机の周りに集まって来た。そんな微妙な空気の中、恭しくハンカチに包まれたブローチを差し出され、真紀の顔が微妙に引き攣る。
「えっと……、確かに以前盗られたブローチに、間違いありませんね」
ハンカチを開いた真紀がそう認めると、田辺は顔色を明るくしながら紙袋から札束を五つ取り出し、縦に積み重ねて彼女に差し出す。
「それではこちらが、お嬢様への慰謝料五百万になりますので! これでお嬢様個人としては、手打ちにして頂けますね!?」
「……はい。文句の付けようはありませんので」
「ありがとうございます!」
周囲から驚愕の視線が突き刺さる中、真紀は取り敢えずブローチをポケットにしまい、札束を受け取る。そして了承の返事をすると、田辺は今度は杉本の机に駆け寄り、勢い良く頭を下げた。
「それでは公社の方には改めて請求金額を全額五日以内に振り込みますし、奥様とあの穀潰しどもに関しても指示通りにいたしますので、何卒よしなに!」
脂汗を流しながらの田辺の訴えに、杉本は傍目には穏やかな笑みを浮かべながら応じる。
「分かっております。そちらがお約束を違えない限り、我々も約束を履行いたします。振り込みが確認でき次第、例の書類は北郷議員宛てで郵送しますので、お好きに処分なさって下さい。これからも長くお付き合いしていくであろう北郷氏のお心を煩わせる事は、我々の本意ではありませんので」
そんな嘘八百を並べ立てた杉本だったが、田辺はすっかり安堵して嬉々として叫んだ。
「よろしくお願いします!」
「ああ、それから例の穀潰しとその仲間を、引き取って下さい。地下駐車場から車に乗せて、そちらの希望の場所まで運ばせますから」
「了解しました! それでは地下でお待ちしています!」
「よろしく」
再び駆け出して行く田辺を杉本が薄笑いで見送っていると、真紀を取り巻いていた同僚達が唖然としながら、彼女の手の中の大金を指差しつつ尋ねてきた。
「おい、菅沼……。お前、一体何をやったんだ?」
「この札束は何事だ?」
「私は特に何も……、何かしたのは上の方々ですから。と言うか部長。これ、本当に私が貰って良いんですか?」
一応お伺いを立てた真紀だったが、杉本は笑って即答した。
「社長がお前への慰謝料だと、はっきり言っていただろう? 副社長も認めているし、勿論構わん」
「そうですか……」
もう苦笑するしかない真紀だったが、周囲の者達も、また上層部がえげつない事をやったのだろうと納得し、口々に軽口を叩き始めた。
「しかし、これだけ金を貢がせたんだから、これからは菅沼の事を間違っても『カモ女』とか『貢ぎ女のミツ子ちゃん』とは言えないんじゃないか?」
「そうだな。『貢がせ女』とは言えるかもしれんが」
「じゃあどのみち、『ミツ子ちゃん』は変わりなしか?」
「違いない」
「笑い事じゃありませんよ……」
そこで豪快に笑い出した同僚達に、真紀は盛大に溜め息を吐いた。そして笑いが収まってから、一人が何気なく真紀に尋ねる。
「ところでそれ、どうするつもりだ?」
「せっかくだから友達を誘って、中国で食べ歩きでもしてきましょうかね……」
反射的にそう真紀が口にすると、杉本も鷹揚に頷く。
「そうだな。菅沼の有給休暇は溜まっているし、この機会にまとめて消化しても構わないぞ?」
「おう、役得だな」
「羨ましいぞ」
口々にそんな事を言いながら同僚達は自分の席に戻り、真紀も元通り椅子に座り直してから、机に積み上げられた札束を見ながら考え込んだ。
(さて……、これの使い道、本当にどうしようかな?)
そしてその日の夜、真紀は友人の一人に電話をかけた。
「もしもし、美実さん。今、少し話し込んでも大丈夫?」
「大丈夫よ。真紀さん、どうかしたの?」
「来月か再来月の話になるんだけど、二週間位中国に行けないかなって思って」
「え? いきなりどうしたの?」
唐突な話にさすがに美実が戸惑うと、真紀が苦笑気味に話し始めた。
「実は仕事に関わる事で、かなりの臨時収入を受け取っちゃって。部長からも有給休暇が溜まっているから、二週間位休んでも良いと言われたから、中国南部を観光しながら食べ歩きしてこようかと思ったの」
「あら、良いわね。それに理解がある職場なのね」
「理解があると言うよりは、非常識って言った方が近いと思うけど……」
「え? 今何か言った?」
「ううん、何でも」
思わずボソッと呟いた台詞は、美実には良く聞き取れなかったらしく問い返してきたが、真紀は笑って誤魔化して話を続けた。
「それで一人で行くのも何だし、誰か誘って行こうかなと思っても、普通に会社勤めをしている人間だと、急に二週間も連続して休めないでしょう?」
「それは確かにそうよね」
「軍資金はたっぷりあるから、美実さんの旅行代金も私が全額負担するから、一緒に行ってくれないかなと思って電話してみたの」
それを聞いた美実は、溜め息を吐いて感心した様に言ってくる。
「豪勢な話ねぇ……。確かに私は自由業だから行こうと思えば行けるけど、淳志と淳実がいるし、どうしようかしら?」
相手の事情は良く分かっていた為、勿論真紀は性急に答えを求めたりはしなかった。
「うん、美実さんには子供がいるしね。駄目だったら無理はしないで」
「でも一応、姉に旅行中に子供の面倒を見て貰えるかどうか、聞くだけ聞いてみるわ。子供を産んでから、そんなにゆっくり旅行なんかしていなかったし、それ以上に全額タダって言うのが、とっても魅力的だもの」
笑って言葉を返してきた美実に、真紀も楽しげに応じる。
「それなら返事は急がないから、考えてみて貰える?」
「そうね。少し時間を貰うわ」
「それじゃあ、用件はこれだけなの。急にとんでもない話を持ち出してごめんなさい」
「大丈夫よ。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
互いに笑って通話を終わらせた真紀は、時間を無駄にせず次の行動に移った。
「さて、誰と行く事になっても、事前調査はしっかりしておかないとね」
そして鼻歌混じりにパソコンで現地情報の収集を始めた真紀は、健介を初めとする北郷事務所関係者の事など、既に綺麗さっぱり忘れ去っていた。
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