第15話 人生最大の汚点

「そもそもの発端は道場主の一人娘の母に、サラリーマンの父が一目惚れした事なの」

「なんかそれだけで分かっちゃった。母方のお祖父さんに結婚を反対されたわけだ。きっとお祖父さんは、自分の跡を継げるお婿さんが欲しかったのね?」

 思わず口を挟んでしまった美実だったが、真紀は気を悪くしたりはせず、溜め息を吐いて同意した。


「お祖父ちゃんの気持ちも分かるんだけどね……。当時、凄い揉めたみたい。それですったもんだの末、祖父と父との間で妥協案が成立したわけ」

「『妥協案』? どんな?」

「『産まれた子供には全員柔道を習わせてそれなりの腕前にして、道場の跡取りにするべく菅沼家に養子に出す』って言う内容」

 そう言った真紀が肩を竦めてみせたのを見て、美実ははっきりとした渋面になった。


「……何を考えてるの、真紀さんのお父さんもお祖父さんも。子供の人生を勝手に決めるなんて、下手すると人権侵害よ?」

「でも私達四人全員柔道は好きだったし、本当に偶然だったんだけど、実家の最寄り駅から二つ目の駅の所に、祖父の弟弟子の人が道場を開いていたから、そこに通っていたの」

「四人兄弟? 今時珍しいわね」

 素で驚いた表情になった美実だったが、真紀は淡々と話を続けた。


「実は、子供の数も結婚を認める際の条件の一つに入っていて、『柔道をやらせても、首尾良くものになるかどうか分からない。最低三人は作れ』と言われたんですって」

「娘夫婦の家族計画まで口を挟むって、どう考えてもやりすぎだと思うわ」

 溜め息を吐いて美実が額を押さえると、真紀が小さく苦笑した。


「それで結局、一番上の兄はそこそこ上達したけど、師範レベルにまでは到達しなかったから、今は実家で両親と同居してサラリーマンをやって、趣味で柔道を続けてるわ」

「それじゃあお祖父さんとの約束は、他のお兄さんが?」

「そう。二番目の兄が底なしの柔道馬鹿に育っちゃって。高校入学と同時に祖父の家に下宿しちゃって、柔道三昧。体育大学入学時には祖父の養子になって『菅沼』姓になって、もう師範になって弟子を取ってるわ。三番目の兄も『佐藤なんて埋没する姓より、菅沼の方が祖父さんのネームバリューもあるしカッコいいよな』とか言って、祖父の道場や通っていた道場が何人も人材を輩出していた桜査警公社入社と同時に祖父の養子になって、父がかなりいじけていたっけ」

 それを聞いた美実は、当時の真紀の父親の心境を想像してみたのか、苦笑を深めながら確認を入れた。


「それなら、一応良かったと言うべきなんでしょうね。そうすると元々の姓が『佐藤』で、母方の家の姓が『菅沼』なのね? だけどどうして真紀さんまで養子になったの? 二番目と三番目ののお兄さんが養子になって、お祖父さんは満足したのよね?」

 すると忽ち真紀は笑みを消し、低い声で凄んできた。


「美実さん……。これから話す事は、私の人生における最大の汚点なの。一回しか言わないから、聞き返したりしないでね?」

「ええと……、それなら聞かないから、もう話さなくても良いわよ?」

「やっぱり一度は聞いて欲しいから、この機会に話す事にするわ」

「そうですか……」

 言うんじゃ無かったと密かに美実が後悔する中、真紀が真顔で語り始めた。


「私が大学に入る前に二番目の兄が祖父の養子になったから、ある意味、私はかなり自由にさせて貰っていたの。だけど基本的に身体を動かすのが好きだし、趣味の食べ歩きをする為に稼ぎの良い所に就職しようとすると、桜査警公社は魅力的だったわけ」

「……うん。業務内容の危険度と非日常性に目を瞑れば、かなり好待遇の職場でしょうね」

「だけど正直に勤務先や勤務内容を口にすると、友達に引かれるの。在学中に正直に内定先を口にしたら、当時付き合っていた彼氏からは別れを切り出され、友人の何人かとは音信不通になり……」

「ええと……、うん、双方の気持ちは分かるわね……」

 若干暗い表情になった相手に、取り敢えず美実が無難な台詞を返すと、真紀はすぐに気を取り直した様にバッグの中から名刺ホルダーを取り出し、そこから一枚の名刺を抜き出しながら話を続けた。


「だから入社してから、先輩に相談と言うかその手の類の愚痴を零したら、『うちにはダミー会社があって、社員全員そこに籍があるから、使いたかったらそこの名刺を使え。問い合わせがあってもちゃんと対応してくれるから』と説明を受けたの。それがこれなんだけど」

 それを受け取った美実は、感心した様に目を落としながら、素朴な疑問を口にした。


「うわ、本当……。『神林総合システムズ 総務部第四課 佐藤真紀』か。でもどうしてダミーの籍があるの?」

「うちって、VIPの警護についたり、訳ありの相手の調査をしたりするじゃない? だから警護対象のスケジュールを探ったり、調査の進捗状況を探る為に、人が近付いてくる場合があるの」

「その用心の為に?」

「ええ。桜査警公社の人間だと知った上で近付いて来たのなら、神林総合システムズの名前を聞いたら、大抵は変な顔をするでしょう? あるいはその時普通に流しても、会社の方に問い合わせたり社員に接触を図るとか」

 そこまで聞いた美実は、納得した様に頷いた。


「なるほど。それで自分の本当の職場の事を口にして良いかどうか、見極めるのね?」

「そう。神林総合システムズから、誰からどこからどんな探りが入ったかは、すぐさま公社に連絡が入る事になっているし」

「それなら真紀さんは、初対面の人にはそれを出して説明しているのね?」

「そう。ええと、随分話が逸れちゃったけど、どこまで話したかしら?」

「その……、どうして名字が佐藤から菅沼に変わったか、辺りから? この名刺は佐藤だから、入社時は佐藤姓だったのよね?」

 一瞬戸惑ってから美実が話を戻すと、真紀は微妙に頬を引き攣らせながら話し出した。


「入社して半年位経った頃、防犯警備部門の先輩に『これも社会勉強の一つだから』と言われて、ホストクラブに連れて行かれたの」

「ホストクラブに?」

「そこで、一人のホストと意気投合しちゃって……」

 そこで不自然に口を閉ざした真紀を見て、美実は顔つきを険しくしながら問い質した。


「え? まさか真紀さん、その人に大金を貢いじゃったとか!? 大丈夫だったの!?」

「それは大丈夫。研修が終わったばかりの新人に重要な仕事が回ってくる筈も無くて、各種手当てもまだ貰えなくて溜め込んでいなくて。その頃は、普通のOLと手取りは大差無かったもの。プライベートでも同僚と顔を合わせたくなくて、社員寮に入らずにマンションを借りていたから、余計にカツカツだったし」

 それを聞いた美実は、微妙な表情になった。


「それは不幸中の幸いと言うか、何と言うか……。因みにその人には、勤務先の事はどう言っていたの?」

「店で会った時にダミー企業名を出したから、そのまま通していたの。だって大学時代に付き合ってた男が『有段者って何の冗談だ。だからガサツなんだよ』って言って喧嘩して分かれて以来、自分が有段者の事はよほどの事がなければ周囲に言って無かったし、可愛く控え目に見えるように気を配っていたもの」

「要するに、普通のOLを装っていたと言うわけね。でもそのホストさんって、どういう人だったの?」

「なんでも母子家庭で、苦労して国立大の法学部に入ったけど、司法試験に合格できなくて浪人中って言ってて。それで勉強時間を確保しつつ手っ取り早く生活費を稼ぐ為に、ホストをやってるとか言ってたけど」

「あら、結構優秀な人だったのね」

 そこで何気なく美実が口にした台詞に対して、即座に真紀が吐き捨てた。


「はっ! その話を聞いた時点で、既に何回か落ちてましたけどね。一回で司法試験に合格した、美実さんのご主人とは雲泥の差ですよ!」

「でも、司法試験の合格率って低いのよ? 国立大の法学部卒なら司法試験に受からないといけない裁判官や検察官、弁護士とかに拘らなければ、幾らでも働き口はあると思うのに……。余程なりたい職種があったんじゃないかしら?」

「そういえば裁判官になりたいとか何とか、臆面もなくぬかしてたっけ。とんだコソドロ野郎だったけど」

「え? 『コソドロ』って、何?」

 すると真紀は、如何にも腹立たし気に当時の事を語った。


「親元を離れて一人暮らししていたし、なんか食生活が疎かになっていそうだからって、結構部屋に呼んでご飯を食べさせていたの。その流れで付き合い初めてから半年位したら、いつの間にか合鍵を作っていたらしくて留守にしていた時にいきなり部屋を荒らされて。何かあった時の予備の現金十万円強と、祖母の形見の真珠のブローチを盗られたのよ!」

 口に出した事で怒りがぶり返したのか、般若の形相でテーブルを叩きながら叫んだ真紀に、美実は控え目に反論してみた。


「あの、でも……、そのホストの人が盗んだとは限らないんじゃ……」

「それと同時に音信不通になって、店も無断で辞めてて、住んでいたアパートも引き払ってて、ついでにホストクラブに言ってた名前も偽名だったらしく、口にしていた卒業大学の名簿にも該当する人物はいなくて、完全に足取りが掴めなかったんだけど?」

「……うん、それは真っ黒かもね」

 ホスト犯人説を認めざるを得なかった美実はおとなしく頷き、、真紀はテーブルを叩いた拳をプルプルと震わせながら、尚も呻いた。


「そいつ……、『佐藤タケル』って名乗っていて……。『二人とも佐藤って偶然だけど、結婚しても名字が変わらなくて良いから、色々手続きが面倒じゃなくて良いね』とか二人で言ってて……。戻れるものならあの頃に戻って、アホ面晒してホゲホゲしていた、あの頃の自分をたこ殴りしたいっ!!」

「えっと……。真紀さん、まさかそれで『佐藤』から『菅沼』に改姓したとか?」

 それって極端過ぎないかと美実が恐る恐る尋ねてみたが、真紀からは肯定の返事が返ってきた。


「だって美実さん! 公社の皆が酷いんですよ!? 部屋に入れていたホストに盗まれたと、誰かから話が広まったみたいで!」

「まさか、公社の社員の癖に情けないとか言って叱られたの? 真紀さんは被害者なのに酷いわ!」

 思わず同情して声を荒げた美実だったが、真紀は少々違う事を言い出した。


「いえ、そうじゃなくて……。『ホストに貢いだ挙げ句金を盗まれるとは、間抜け過ぎる』と大笑いされ、『いまだかつて、そんな社員はいなかったな。今後の社員研修の実例として取り上げよう』と提案されて、あれから毎年新人研修を終えたばかりの後輩に憐憫の眼差しを向けられ、ついたあだ名が『特防一のカモ女』『貢ぎ女のミツ子ちゃん』よ!? そんな暗黒歴史、綺麗さっぱり葬りたいと思わない!?」

「うん……、新人研修とか、現在進行形で迷惑を被っているっぽいしね。それでお兄さん達と同様にお祖父さんの養子になって、菅沼姓になったんだ……」

「もうあれで佐藤なんて名字に、微塵も未練なんかなくなったしね! 元々、自分が結婚したいがために、子供の将来を売り渡す様な、甲斐性無しの名字だし!」

 憤懣やるかたない様子の真紀を見て、美実は乾いた笑いを漏らした。


「あ、あはは……。そっちに関しても、実は色々物申したい事があったのね……。それでその人は、まだ捕まっていないの?」

「警察に被害届を出さなかったの」

「え? どうして?」

「だって公社と警察との間には色々あるから……。裏で協力している事もあるけど、牽制しあっている方が多いかな?」

 その物言いを聞いた美実は、僅かに首を傾げながら尋ねた。


「そんな所の社員が泥棒に入られたと分かったら、嫌味とか他にも何を言われるか分からないとか?」

「警察では余計な事は言われないと思うけど、社内で『警察の世話になった社内なんて、初めてだな』と、更に笑い飛ばされそうだったから」

「……話を聞いた限りだと、その可能性はありそうね」

 溜め息を吐いて美実が同意すると、彼女に向かって真紀が力強く吠えた。


「だからその後、固く決心したの。ろくでなしに怒りのエネルギーを向けて無駄な労力と時間を浪費する位なら、自分をとことん高める事にその労力と時間を使おうと! そう! 私は公社一のクールビューティー目指して、日々邁進中なのよ!」

「ある意味、もの凄く前向きなのね……。じゃあその佐藤さんの事は、もう恨んだりしていないのね?」

「恨む以前の問題。もう滅多に思い出しもしないし、どんな顔だったかもうろ覚えよ。あんなのを思い出す事に時間を使うなんて、無駄意外の何物でも無いもの」

「徹底してるわね。それで最初の話になるわけね? どうしてだか分からないけど『佐藤』と呼ばれる度に、その事を思い出すから嫌がらせに思えると」

「そうなの。全く腹が立つったら!」

 そこで再び語気強く訴えた真紀の元に、これまで離れていた所で様子を窺っていたハナが、ソファーに飛び乗って近寄って来た。


「うなぁ~ん」

 その声に真紀はすかさず反応し、先程までの怒りはどこへやら、満面の笑みで振り返った。


「ハナ様、来て下さったんですか? ミミ様ならともかく、普段ならなかなかご自分から来て頂けないのに!」

「なぁあぁ~」

「にゃおぅ~ん」

 ハナだけではなく、この間ずっと真紀の膝の上で横たわっていたミミも体を起こし、二匹揃って真紀の腕や胸に顔をすり寄せながら、甘える様に鳴き始めた。それを見た真紀のテンションが、急上昇する。


「お二人とも慰めて下さっているんですか! 感激ですぅ~っ!! 何てレアな、ミミ様ハナ様お二方抱っこ!!」

 そして満面の笑みで両腕で二匹を抱きかかえている真紀を見て、この間黙ってケーキを食べながら母親達の話を聞いていた淳志が、こっそり美実に囁いた。


「ママ。あれ、ハナはキャットフードをさいそくにきたんだよね?」

「『言わぬが花』って言葉があるから、黙っていましょうね?」

「うん。それから『クールビューティー』って言ってたけど、まきさんがそうなの?」

 真顔で首を傾げながら息子に問いかけられた美実は、猫達にデレデレしっぱなしの真紀を横目で見ながら、冷静に言い聞かせた。


「……きっと、お仕事中はキリッとピシッとしてるのよ。今日はお休みだから、ちょっと違うけどね」

「そっか。『クールビューティー』ってことばのいみ、ちがうのかなってかんがえてた」

 そう言って再びケーキを食べ始めた息子から、再び笑み崩れている真紀に視線を戻した美実は、(でも、以前私が付いて貰っていた時も、真紀さんは結構喜怒哀楽がはっきりしていた気がするけど……)と思いながらも、それを口に出したりはしなかった。

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