蝙蝠の翼を背に
囚われの蝙蝠
虚空の宇宙を
それが一時間前で、愛したマーレン・サイビット大佐はもういない。
救助の
そして……彼女の本当の旅が始まる。
U3Fの士官として、ダイバーシティー・ウォーカーのパイロットとして……なにより、戦争を憎む一人の人間としての長い旅路が。
「両手を頭の後ろに! 壁を向け!」
「ったく……こんな子供がアレを。いや、こいつぁ……子供じゃないなあ? へへへ」
ウォーバットを引きずり降ろされたエンテは今、ようやく閉鎖されて空気の戻ってきた
言われるままに無抵抗を示せば、パイロットスーツ越しに男の手が這い回る。
女性的なラインを浮き立たせるスーツの、豊かな起伏が指と手とで陵辱された。嫌悪の身震いに、エンテは唇を噛みしめる。
薄笑いに囲まれる中で、エンテは恥辱に耐えつつ考えた。
この艦は、この者たちはU3Fの正規兵ではない。
その証拠を示す声が、背後を通り過ぎた。
「悪趣味は程々にし
その男の声は、冷たく暗い響きだ。
そう、男の声……酷く
舌打ちと共に保安員の身体検査が終わると、エンテは近くに浮いた自分のヘルメットを引き寄せる。振り返ると……人影が丁度、愛機のコクピットへと吸い込まれるところだった。
回収されたウォーバットは、周囲のソリッドと共にケイジに並んでいる。
先程の男を吸い込み、ウォーバットはツインアイに起動の光を走らせた。
そして、外へと外部スピーカーから声が走る。
『この機体は返してもらうよ、エンテ・ミンテ少尉』
無重力の中を泳いで、彼女は動き出したウォーバットを見上げた。
「それは困ります! その機体がないと、ウォーバットがないと!」
『ないと? 任務の遂行に問題はない筈だが』
「あの人の……大佐の意思を、継げなくなります」
『大佐の……ああ、あの男のことか。マーレン・サイビット大佐』
動き出したウォーバットが、一歩踏み出てエンテを見下ろす。
それは、自分の血潮を繋いで馳せた機体とは思えない。己の分身となって、不当な暴力に対する抑止力を発揮したDSWではなかった。
まるで神か悪魔に魅入られたように、エンテは動けない。
そして、降り注ぐ声が重さを増す。
戦闘配置を終えた艦内に、弱い疑似重力が戻ってくるのと同時だ。
『マーレンは律儀で真面目に過ぎた。あれは、いかん』
「大佐は立派な方でした! この木星圏の平和を
『頻発するテロや暴動、さらにはコロニー間の経済的軋轢に……旧態然とした国家間の紛争、そして戦争。そうしたものへの抑止力として、軍隊の武力は存在する。そういう理念と信念をマーレンは貫いていた』
そう、マーレンは何度も繰り返し、エンテに言ってくれた。
学がないまま貧しく育ったエンテにも、わかりやすく教えてくれた。
U3Fは、そして全ての軍は、抑止力として存在することこそが最も大事だと。何らかの事態が起こり、国と民を不当な暴力が脅かす時……的確に反撃することで、相手へと無言で突きつけるのだ。事を起こせば、双方ただではすまないと。リスクもなく侵略されることを許さぬと、はっきり伝えることが軍隊の存在理由なのだと。
優しくも厳しいマーレンの腕の中で、そんな話を聞くのが好きだった。
だが、ウォーバットの中からそれを否定する声が笑いを呼ぶ。
『フ、フハハ……ハハハハッ! 実に
「貴様ぁ! 大佐を侮辱する気か!」
『エンテ・ミンテ……考えても見給え。平和のために抑止力として存在する軍の、その暴力に対する抑止力は? 平和のための暴力を肯定する、それは愚かしいことだ』
ゆっくりと低重力の中で、エンテはデッキの床に立ってウォーバットを見上げる。
自分を表現するマシーンは今、無慈悲にエンテを見下ろしていた。
『真に平和を求めて望むなら……それは、あのプログラムを世界に解き放つしかない』
「あのプログラム? それは――」
『さもなくば……平和のための戦争などという、おためごかしはやめるのだな。逆に考えるのだ……戦争状態こそが、人類にとって最も普遍的な当たり前の状態ではないかと』
「そんな……そんな、馬鹿なことがあるものか!」
その時だった。
ウォーバットは不意に右手を振り上げ……
鈍い金属音が響くと、厳つい手が悪魔の呪縛を引き剥がす。
謎の男は、悪魔飾りを
ゆっくりと、悪魔像が落ちてくる。
男の不遜な言葉と共に。
『平和のための戦争、抑止力……なるほど、
「偽善っ!? ……たとえそうでも、私は他に
『愚かな。エンテ・ミンテ……世界の
ゴトン、と目の前にゆっくり、悪魔像が落ちた。
自ら悪魔の呪縛を振り切った、黒いDSW……それは、己を守護する悪魔を裏切ることで、己自身が悪魔と化したかのようだ。
ゆっくり、ゆっくりとエンテの前で、虚ろな悪魔が弾んで浮かび、そして沈む。
『お別れだよ、エンテ・ミンテ。ふむ……データを取る手間が
「待て! お前は……お前は何者だっ!」
『スポンサーへの言葉遣いに気をつけることだ。U3Fもインデペンデンス・ステイトも、盤上の駒と駒でしかないのだよ。全ては、大いなる願いのため……あるべき人の姿のため』
左右から先程の保安員たちが、エンテを拘束してくる。
身を
最後に振り向いた時はまだ、捨てられた悪魔像は浮いていた。
その、物言わぬ悪魔飾りがどんどん小さくなってゆく。
エンテ・ミンテ少尉を待っていたのは、軍の極秘装備の無断使用、そして……マーレン・サイビット大佐が指揮する艦での反乱、及び大佐の殺害容疑だった。
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