暗き闇の刀匠
その中で、ひびの入った脚を引きずる生活は……悪くない。
ちょっとした休暇だと思えば、不自由らしい不自由はしなかった。食事は粗末で少ないし、娯楽らしい娯楽はなにもない。ほぼ大半がイスラム教徒だから酒も手に入らなかったが、粗食も手伝って久々の健康的生活を満喫していた。
なにより、ここには一時とは言え平穏があった。
「ったく、なーにが楽しいんだかねえ」
今日も今日とて、手近な場所を探して座り込んだ灰児は、難民たちを見ていた。
目の前の広場では今、子供たちが遊んでいる。ダンタリオンはあのダーインとかいう胡散臭い男が、メンテナンスに持っていってしまったらしい。
そう言えば、この貧相なキャンプの向こうに、数台見慣れぬトレーラーを確認していた。
だが、そんなものへの興味は急激に薄れてゆく。
子供たちは自身を取り巻く情勢も知らずに、歓声をあげてボールを追っていた。汚れたサッカーボールを蹴る、誰もが笑顔である。
自然と頬が緩んだ。
馬鹿臭いとも思ったが、嫌いではない。
いつになくリラックスした気分で、灰児が目を細めていると……
「ヘッ、はしゃぎやがって……オラ、返すぜっ!」
柔らかなスローインで、座ったままボールを放った。
子供たちは灰児の理解できぬ言葉を連鎖させて、ボールをまた追いかけ始めた。
御礼の言葉であることは、聴くまでもなくわかる。
そして、気付けばそんな灰児を
彼女は灰児が気付いたのを知ると、近付いてくる。
「意外ね、灰児。そういう顔」
「るせーよ、灰児って呼ぶなつってんだろ」
「……あ、そう。まあいいわ、灰児」
「おうこら、そんなこと言ってるとブチ犯すぞ? ああ?」
「ふふ、やれるもんならやってみなさいよ。それより……この間の話、もう一度だけ考えてくれないかな?」
酷い口の悪さだが、灰児は笑っている自分が不思議だった。言われるままに微笑む霧沙の美貌にも言葉を奪われる。
だが、決断の答はもう決まっていた。
「この脚でレヴァンテインに乗れるかよ。それに、わりの合わねえ仕事はゴメンだぜ」
「そう、残念だわ」
「まあ、ここ最近は静かなもんだ……あと何日だ? 国連のなんとかってのは」
「三日とちょっとよ。国連総会ね」
「へいへい、それだそれ。すいませんね、学がなくて」
「別に。世界を知らないのはあたしも同じだから」
それだけ言って、霧沙は自分のテントへ行ってしまった。汗ばむ肌をシャツの中に見下ろして、彼女の姿が遠ざかる。
自然と灰児は、片足を引きずりつつも杖をついて歩いた。
声もかけずに、霧沙のテントへ華奢な背中を追う。
中では、今まさに着替えようとしている彼女が振り返った。
「なに? ……着替えるんだけど」
「ああ、構いやしないさ」
「……あんたにも、見せたくないから。出てって」
「そのうち俺にだけ見せたくなる。な? いいだろう?」
自分のシャツから、霧沙は手を離した。
だが、抵抗する素振りをやはり見せない。それで灰児は、完全に調子に乗ってる自分に酔いしれた。
このしけた難民キャンプで、霧沙だけが日々の
ダメ元で、朝露に濡れるようなその花びらへと手を伸ばす、そんな日々は楽しかった。いつも霧沙は拒絶しないから、どこまで大丈夫か探るような遊びがエスカレートする。そしてそれは、いよいよ一線を越えようとしていた。
奥の簡易ベッドへと、霧沙を押し倒す。
そのままギシリと
「……やめて。よして、そんなの無理だから」
「俺ぁこう見えても、女にゃ優しいのさ。だから……いいに決まってる」
「本当に?」
「ああ、嘘は言わねえ」
こういうシチュエーションに持ち込むと、女は黙って目を
だが、霧沙は真っ直ぐ強い眼差しを注いでくる。
その大きな瞳には、恐怖も憐れみもなく、嫌悪の色さえない。
無だ……空虚な無色透明の感情が浮かんでいる。
構わず灰児が、霧沙のシャツを襟元から引き裂いた、その時だった。
「……な、なんだよこりゃ……どうしたって、こんな」
はだけた胸元から、零れるようにふくよかな乳房がまろび出る。重力に負けながらも上向きにとがる、その膨らみ。そして、鍛え抜かれた肉体は程よく引き締まり、くびれた腰の下をまだ隠している。
だが、神の創造物だと言われても納得する美しさを、強烈に裏切る惨状が広がっていた。
無数の古傷、
身動き一つ見せない霧沙の
固まる灰児の下で、静かに声が響く。
「下は、もっと酷い。それでも……するの?」
言葉に詰まった灰児の頬に、手が伸びてくる。肩から下まで脱がされた霧沙の二の腕には、無数の注射針の痕があった。
萎縮しつつも灰児は、震える手で霧沙の手を握る。
「ば、馬鹿野郎……そりゃ、お前、その」
「……ごめんね。あたしはあんたの期待には応えてやれない。物心ついたときからのゲリラ兵で、国際指名手配のテロリスト。それがあたし、霧沙・アレスターの正体よ」
「馬鹿野郎っ! し、知ったこっちゃねえよ! 抱くつってるんだろうが!」
無意識に叫んでいた。
灰児はそのまま、霧沙の手を己の股間へと押し付ける。
無表情だった霧沙が、初めて動揺に頬を赤らめた。
「ちょ、ちょっと、あんた」
「どうだ! どうよ、ええ?」
「どう、って」
「ガッチガチなんだよ! 熱いだろうが! 抱けるつってるんだよ!」
大真面目だったが、霧沙は
灰児があまりに迫真に迫って、そのくせ主張してくることがただのオス犬みたいな性欲だったから。きっと、純粋過ぎるそれを向けられて
初めて灰児は、声を殺して笑う霧沙の、本当の笑顔を見た気がした。
「馬鹿みたい、男ってホント……しょうがないよね。なにそれ?」
「っるせーな、口説いてんだよ!」
「……最悪だけど、ふふ。嫌いじゃないよ」
「だろ? 俺だって、お前の躰なんざ怖くねえ。裸にしたって構わねえんだ」
「あんたみたいな馬鹿、初めて。……でも、ないかな。そういう人に、まだ会えるんだ」
予想外の雰囲気が甘く広がっていったが、既に灰児の脳裏に計算はなかった。打算でダメ元、失敗したってかまわないお遊びの筈が……久々にうずく身体に心が寄り添う。
だが、そんな時間は突然の轟音で切り裂かれる。
爆発の音と同時に、強い風がビリビリとテントを揺らした。
次の瞬間には、下から蹴飛ばされて灰児はベッドからずり落ちる。
「んごっ! お、おい! 今のは――」
「敵が来た! 灰児、ゴメン……あたし、行かなきゃ!」
飛び起きた霧沙は、手近なタオルを引っ掴むや胸に結ぶ。そうして飛び出す光の中に……一人の細い影が立っていた。
それはまるで、契約を迫る悪魔のように笑みを張り付かせている。
「どうもどうも、霧沙さん。ダンタリオン、オーバーホール完了です」
「助かるわ。あんたたちも逃げて。……手伝っては、くれないわよね」
「ええ、慈善事業ではありませんから。それに、
「いいわ、別に。ただ、この人を、灰児を逃してあげて。引き上げるあんたたちの車に乗せてやって」
それだけ言うと、ダーインの手から起動キィを引ったくって霧沙は消えた。
残された灰児は、よたよたと杖を頼りに立ち上がる。
すぐに悲鳴が聴こえて、あのオイルの臭いが駆動音を連れてくる。すぐにわかる、音だけで判断しても、二個中隊規模のレヴァンテインが襲ってきていた。
震える灰児の前で、ダーインはやれやれと溜息を零しつつ
「では、逃げるとしましょうかねえ? ええと、仄暮灰児さん、でしたか。トルコ領内まででしたら……ええ、これはサービスです」
「俺は……また、逃げるのか?」
「はて? お嫌ですか?」
「嫌なもんかよ! トンズラだ、とばっちりは
故国を持たぬクルド人に、逃げ場などない。
そんな難民たちを守って戦う、霧沙は逃げずに戦うつもりだ。
そうした者たちを背に、また灰児は逃げ出すのか? あの時のように……
迷いに苦悩する灰児にとって、逃走への
自分を認めぬ者たちを遠ざけてきた中で、自分が認めた者が遠ざかってゆく。
そして、悪魔の声が甘く
「そういえば……レヴァンテインのパイロットさん、でしたよねえ? 我々ドヴェルグのトレーラーを、護衛なんてどうでしょう? 今なら、とっておきの機体があるんですが」
「……レヴァンテインが、あるのか? いや、だが」
「まあ、なにせ起動テストすらしてない
目の前に、起動キィがぶら下がっている。それを揺らして、ダーインが凍れるような笑顔で目をさらに細めた。
灰児は……絶叫と共に、杖で足のギブスを叩き割った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます