国無き民、クルド人

 仄暮灰児ホノグレハイジは、ようやく自分の置かれた状況を理解した。

 ディロン・インダストリィの新型レヴァンテイン、ラクシャーサのテストチームは自分を残して全滅。一昼夜昏睡こんすいしている間に運ばれたここは、シリアとトルコの国境地帯だ。

 そこには、大勢の民が押し寄せて難民キャンプを作っている。

 この場の人間は皆、だ。


「あーくそっ、どうすっかなあオイ……とりあえず日本に帰るかあ? どうやって?」


 病院に指定されたテントの中へ、クルド人たちが頻繁に出入りしている。

 それを木箱に座って眺めながら、灰児は途方にくれていた。手持ちの現金はほぼゼロだし、そもそも現金が通用する場所にも見えない。カードのたぐいも全部、ここではプラスチックである以上の価値を持たなかった。

 灰児は自慢じゃないが、学がない。

 世界のことはよく知らないが、知らないなりに思い出してみる。

 ――クルド人。

 確か、世界最大の『国家を持たない民族』である。元はこの土地一帯に住む遊牧民だったが、百年以上前に欧州列強が国境線を引いたため、流浪るろうの民となった。帝国主義の時代において、ここは搾取さくしゅされる土地となったのである。

 そうして今も、不気味なほどに真っ直ぐな国境線で分断された地域がある。

 定規で地図にその線を引いた国家も、今は手を引き撤退しているが……勝手に引いた国境線だけが、その周囲で暮らせなくなったクルド人を難民にしているのだった。シリア側からもトルコ側からも、疎まれる存在である。


「クルド人ねえ……さっさと逃げりゃあいいのによ。中東なんかじゃ生き辛いだろうに」


 ぼんやりと人の列を眺めていると、不意に視界に手が差し出された。

 真っ赤な林檎を握る手は、黒い長袖に細さを隠している。

 見上げれば、先程の女が林檎を差し出してくれていた。自分でももう片方の手で、皮ごと林檎をかじっている。意外にワイルドな、美貌を裏切る食べ方。だが、そのミスマッチが自然と灰児の気を引いた。

 彼女は「ん」と灰児に林檎を押し付けると、隣に立ったままで林檎を食べる。

 受け取った林檎は小さく、少し干からびていた。


「なあ、あんた……」

霧沙キリサよ。霧沙・アレスター」

「本名?」

「そう。……ここじゃあたしも、名も無きただの宿無やどなしだから」


 座って渋々、灰児は不味まずい林檎をかじる。腹は減っていたし、小さな林檎一つで満ち足りることもないと知っている。だが、ここがクルド人の難民キャンプと知ったら、贅沢を言えないことは理解していた。

 だが、口さがないのは彼の性分である。


「不味いな、腐ってねえだけマシか?」

「そうね。ここでは全てが不足してるの。飲水だって、薬だって」


 興味なさげに「ふーん」とこぼして、隣の霧沙を見やる。

 丁度、座った灰児の目の高さに、豊かな胸の実りが上を向いていた。大きすぎず小さすぎず、見事な造形美で重力に抗っている。

 すぐに灰児は、その弾力と張り、つやに興味をもっていかれる。

 どんな時でも灰児は男で、雄でいることを忘れない人間だった。

 だが、そんな彼を萎えさせる言葉を、憂いを帯びた目で霧沙は呟く。


「知っての通り、クルド人は行くあてがないの。シリアでは迫害され、トルコでも追放運動が盛んだもの」

「あ、そ」

「……逃げる場所がないのよ。それはあたしも同じだけど、追手は容赦しちゃくれないわ。特に、シリアの旧政府軍残党はね。独裁国家だった頃がまだましと思えるもの……統制を失った軍隊は、テロリストと大差ない」

「そーだねえ、うんうん」


 先程のダーインとかいう男は姿が見えない。霧沙からあの悪魔……ダンタリオンのキーを受け取り行ってしまった。

 自然と灰児は、隣の霧沙の尻を撫でる。

 抵抗する素振りを見せず、霧沙は目を伏せた。

 それをいいことに、細い腰を抱き寄せた。

 状況は最悪だったが、悪いことばかりじゃない。そう思うようにして、灰児はニヤニヤと見上げる。平手の一つもくれればいいのに、霧沙はなすがままに灰児を見下ろすだけだった。

 それで一瞬、灰児も本気をちらつかせる。


「抵抗しないってことは……まんざらでもない?」

「怪我人は殴れないし、殺すのもちょっと……それだけよ」

「おー、怖い。流石は一騎当千のパイロットだねえ」

「……あんたも相当な腕だった。そこいらのゴロツキや軍人崩れとは違う。技術も、センスも」

「あたぼうよ。で? お互いそこらへんの昔話に花ぁ咲かせるかい? ベッドでしっぽりなんて、どうよ」


 だが、霧沙の返答は意外なものだった。

 はずかしめてくる灰児の手を取り、そこに手を重ねて言葉を選んでくる。


「灰児、お願いがあるわ」

「俺の名を? どうして」

「身分証明書を預からせてもらってる。仄暮灰児、24歳。元は軍人ね? 身のこなしや所作の節々が、訓練された人間のものだわ。どうしてテストパイロットなんかを?」

「食ってくためさ。今はな。それと、名前で呼ぶのは勘弁してくれ。で? 頼みってなんだよ」


 霧沙の瞳は、まっすぐ灰児を見詰めてくる。

 奇妙な緊張があって、灰児は心の底まで見据えられてるかのような恐怖を感じた。

 そう、恐怖だ。

 目の前の美女からは、甘やかな女性特有の匂いと共に……死の香りがする。その目は死を見て、耳で聴いてきたのだろう。死の全てを知り、常にその中で生きてきた者特有の、感覚。そしてそれは、少なからず灰児が抱えてきたものとは段違いに色濃い。

 しかし、それを語らず霧沙は簡潔に言い放った。


「この難民キャンプを、あと一週間だけ守りたいの。人手が必要……それも、レヴァンテインを使える人間が」

「一週間? なんだそりゃ」

「ジュネーブの新国連本部で、国連総会が開催されるわ。決議が採択され、この地域への援助が決まる予定なの。少なくとも、今よりもっと援助が届くようになるわ」

「……ほいで? 報酬の話は? 俺は別にいいんだぜ? いわゆる『躰で払うわ』ってやつでもさ」


 こう言えば引き下がる、引き受けなくて済むと思った。

 逃げた。

 だが、霧沙はかたわらの杖を拾って押し付け、灰児の手を引き突然歩き出す。痛い脚を引きずりながら、灰児は渋々引っ張られて歩いた。

 難民たちと難度も擦れ違い、難民キャンプの外れまで五分は歩いただろうか?

 目の前に突然、巨大なフェンスが現れた。

 それは左右に広がり、見えぬ先まで延々と続いている。

 網目の中を行き交うのは空気だけで、それはまさしく壁だった。


「これが、トルコとの国境。この先には、辛うじて平和があるわ。トルコはクルド人の排斥はいせきが激しいけど、国際的な信用もあるから殺したりはしない。でも」

「国境のこっち側、シリアじゃドンパチやられて毎日ザクザク死ぬ、と」

「そうよ。そして、見て」


 霧沙が指差す方向に、歩哨ほしょうが立っている。

 水色の防弾ヘルメットを被り、ボディアーマーを身に着けて小銃を持った、その兵士は……日本人だった。見覚えのある野戦服は、日本の国防軍だ。


「国際平和への貢献、人道的支援のために日本の国防軍が来てる。でも、彼らは金網の向こうに立ってるだけで、なにもしてくれない」

「……難民キャンプが襲われてもか? 目の前でクルド人が殺されても?」

「向こうに流れ弾の一つでもいけば、動いてくれると思うけど。でも、シリアの旧政府軍残党は狡猾こうかつよ。フェンスの近くでは銃火器を使わない。レヴァンテインでき殺して、踏み潰すの」


 灰児の中で、なにかが大きく脈打った。生まれた熱が、今にも着火しそうだった。しかし、それをくすぶるままにもみ消すと、黙って肩をすくめてみせる。

 また、逃げた。

 知らぬ話とばかりに、黙ってフェンスの向こうを見る。

 同じ方向を見詰める霧沙は、その目に強い光をともしている。

 その気高い眼差しが、彼女の美貌を神々しいまでに照らしているのだった。それが欲しいという下卑たことばかり、灰児は考えてしまう。そうしていやらしい男でいれば、目の前の現実からは目を逸らせる気がするのだった。

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