第14話 終局

「あかり様。あかり様。」

 私は目を覚ました。私は電車の中にいた。

「随分深い眠りに落ちていましたね。」

「はい。とても永い眠りについていたような気が。」

 その記憶の殆どは欠落していた。誰か、男の人と一緒に楽しいときを過ごしていたという微かな、漠然とした記憶が残っている。

「さあ、着きましたよ。新しい世界です。」

「新しい世界…。ああ」

「長旅ご苦労様でした。あの距離ですと、お時間も結構立ってらっしゃると思います」

「時間?今は何日?」

「六月一七日でございます。何かご予定でもございましたか。」

「いいや。そう言ったものはない」

「それでは、お行きください。あなたの運命が良きものでありますように。」

頭を下げる駅員を横目に私は駅舎の外に足を踏み出した。

やっぱり変わってない。何も変わっていない。本当に長い夢を見ていただけだったような気がする。いや、何だったのだろうか。空は変わらず青いままだ、街並みだって私が数か月暮らしていたものと一寸たりとも変わらない。ただ、時だけが過ぎた。まあ、まずは家に帰ろう。

「あかり」

久しぶりに彼に逢った気がした。

「つかさ」

「久しぶり。随分と長かったな。あかりの行方を知らない人たちは皆お前を心配していたよ。どうだった?」

「いや、全て消えてしまったみたい。何かの夢を見ていたんだけど」

「ずっと夢を見ていたのか。まあ、身体が元気そうで良かったよ。やっぱり、考えは変わらねえのか」

「うん、変わっていない。でも、変わる気はするんだ」

そう、変わる気がする。

「そう。ならまた明日な」

そういって彼は手を振って帰っていった。

 司は少し変わった気がする。私の知らない間に彼も成長したのかもしれない。私の方は変わったのかな。私は駅まで来た道を辿り、家までたどり着いた。

 暗く静寂の色を帯びたその部屋は私に過去の記憶を連想させた。家に着いた私は、時計に目を通した。携帯の充電は無くなり、時計を見る機会が無かったのだ。ああ、まだ五時か。夏の太陽は、五時になってもまだ、その力を落とさず私たちを灼灼と照らしていた。私は、冷蔵庫に保管してあった〝あるもの〟を確かめた。あった。安楽薬。実際には、英語と数字で書かれた長ったらしい型番があった。そこには、二錠入っていた。眠る前に一錠服薬するだけで、あなたは永遠の眠りを手に入れることが出来る。ご使用はできるだけお限りください。と書かれていた。ネット市場で手に入れた。そこには、二錠のカプセル錠剤と一枚の薄っぺらい紙以外には何もなかった。届いた物の説明も殆どないに等しかった。こんなに簡単に手に入るものなのかと疑問にも思ってしまった。私は、それをポケットの中にほうりこんだ。「はあ」私はベッドに寝転がり、今までのことを回想しようとした。でも、そこには過去の記憶しかなかった。やっぱり私は、何も変わらなかったのかもしれない。そのまま私は、死んだように眠り耽った。夢なんてものは一切見なかった。日をまたぎ、彼女が眠っている間に釈然と時は過ぎていき六月十八日を迎えた。彼女はその身体をそらせ、目を薄く開き時間を確認する。AM9:00と簡素なデジタル時計は無機質に時間を告げる。無慈悲も時間は過ぎていく。そうして、私はシャワーを浴び、服を着替えた。白いワンピースに、薄手のカーデガンを羽織る。夏の夜は、時に寒気をも催す時がある。その空間はときに肌寒く、風音もなく、吐息も聞こえない、空を流れる雲のように静かなその時間は不気味ともいえる。その静けさから、私の身体は自然とベッドに崩れ落ちそうになった。私はコーヒーをわかし、ベッドに座った。本当に静かな夜だった。私はコーヒーを飲む。もう、そろそろ彼が来る頃かもしれない。

 暫くすると、小さなノックの音が聞こえた。私は、玄関のドアを開けた。

「インターホン鳴らしてたぜ。早く出て来いよ」彼はそういった。

「インターホン壊れてるから。気づかなった」

「防犯対策が出来てねえよ。何かあったらどうすんだよ」

彼は飽きれたような口調で喋った。

「準備はできたか」

「うん。出来てる」

 私たちは、学校の裏手にある浦山へと歩き始めた。

 見上げた夏の空は雲一つなかった。今日のこの日は、星が流れるためにあった日のように感じる。それは、何千何万年も前から決まっていたようにも感じる。彼は、私の手を引いて歩いた。わたしはその彼の手に引かれるように歩いていった。まるで、昔に戻ったようだ。私はか弱い女の子だった。もう、思い出したくもない子どもの頃の日々。年齢的にも、身体的にも、精神的にも、正真正銘の子どもだった。もしかしたら、今でも子どもなのかもしれない。それは、分からない。どこに行くにも、彼の手を握っていた。なぜか周りが怖かった。あの頃から私は何もかもを怖がっていた。そんなときにいつも彼は、私の手を握ってくれた。思えば、私の記憶はいつも彼だった。私には、殆ど家の外で彼と遊んでいたという記憶しかなかった。家にいる母の私を見る目は、どこか、違っていたような気がする。いや、それは気のせいじゃない。いや、思い出したくない。でも、記憶の彼女はいつも泣いている、泣いて何かを嘆願している。いや、ダメだ。思い出してはいけない。「おい、どうした」、「えっ」、「何で、そんな辛そうな顔をしてんだよ。」、「私そんな顔してた。」、「うん。」

「何っていうかさ、私の人生って何だったんだろうなって」

 何なんだろうか。思いたくも、考えたくもなかったことのすべてが顕在化したような気がした。

「今になってやっと気づいたんだ。何で気づかなかったんだろう。何で、お母さんのことをあんな風に思っていたんだろう。今なら、お母さんが死んだ理由も、私を捨てて出ていった理由もはっきりと分かる。お母さんは、本当は私なんていらなかったんだよね」

思えば記憶の母は、私の顔を見れば私を引っぱたいていた。その後、何事もなかったかのように私に近寄りごめんねと言った。そして私を泣きながら抱きしめた。何度も、何度もごめんねごめんねと繰り返した。その言葉を繰り返すほど、彼女は強く私を抱きしめた。普段の彼女は毅然として善良な人間なのだった。だから、自分の行った暴力というものが、信じられなかったのだ。馬鹿な私は、何も知らない私は、そんな母を抱きしめていた。その頃の私は、分からなかったのかもしれない。何故彼女が私をぶったのかを。

「私って、本当に誰からも愛されていなかったんだ。お母さんだけは、私を愛しているなんて思ってた。それだけが私が生きていくたよりだったよ。お母さんがくれた命だ。頑張って生きていかなきゃって思ってた。でも、そうじゃなかったんだ」

 私は今まで、そのほんの小さな光を頼りにして生きてきた。でも、本当はその光すら偽物で。私はただ虚空を一人歩いていたようなものだったのだ。

「ここらへんでいいかな。ここに腰を下ろそう」

 私は、彼の横に腰を下ろして、その空を見上げた。

 私は眼を見開いた。頭上に広がる空はいつか図書館で広げた本に描かれた宇宙そのものが張り付けられているようだった。これが、現実のものだとは思えなかった。こんなに美しいものはみたことがなかった。星々は、瞬きをするたびに頭上を流れていった。『綺麗』それを、表わせれるような言葉をうまく見つけることが出来なかった。星たちも様々な色を持っていることを初めて知った。目に見えるものだけでも、赤、白、青、緑、黄、紫と、他にも言い表すことのできないくらい沢山の色が存在する。星たちも、遥か彼方でその命を燃やしていた。

「綺麗だな」

「うん」

 空は綺麗だった。でも、ただそれはそれだけのことだった。

 彼は空をひとしきり眺めた後、その背を倒し私の方を見上げた。

「さっき神様誰も私のことを愛していないなんて言ってたけどさ、それは嘘だよ。俺は君の言葉を嘘だって断言できる」私は笑った。

私はポケットから錠剤を取り出した。それを目の上に掲げた。

「不思議だよね。こんな小さなものを飲み込むだけで死ねるなんて世界は残酷になったものだね」気難しい顔をする私に彼は言った。

「良いんじゃないかな。自由だよ。死ぬのなんて元来自由なんだ。俺たちは勝手に生まれされてるのに、何で勝手に死ぬことが許されない。最初から決定権すらねえ俺らには死の最後くらい、自分で決定する権利はあるはずだ。寧ろ世界はいい方向に回ってる」

彼は何事もないようにつぶやいた。

「俺は、あかりについていくよ。あの世でだって君を一人にはさせないさ。二人ならば、何処へだっていけると思う」

「ありがとう」


私たちは純白に染まる錠剤を一粒ずつ飲み込んだ。そして、私たちはその背を草原に着けた。

「ねえ、天国ってどんなところだと思う?」

「天国なんてあるの?」

「あるよ」

「そんな大層なものはいらないなあ。周りに音一つない海沿いの小さな家で二人して一緒に暮らしたい。静かに、楽しく、健やかに。それ以上のものはいらない」

「そんな世界があればいいね」

「そんな世界もあるさ」

眠気も限界に近付いてきた。彼はもう、眠ってしまったのかな。

「ねえ、司。私は本当にあなたにあえて良かったと思うんだ。嬉しかった。あなたが、一緒に遊んでくれたこと、再開ができたこと、一緒に歩けて、喋れて、笑いあえたこと。今にしてみれば、私にはあなたという光があったからこそ、生きていけたのかもしれない。でも、もしあなたが私に出逢わなければ、あなたには他の未来があった。私はそれを潰してしまった」

彼は眼を瞑りながら囁いた。彼が私の手を握った。

「そんなことはないさ。俺は君に逢う運命だったんだ。俺は、それを後悔なんてしていないし、それで死んだとしても悪いなんて思わないよ。楽しかった。君に出逢えてよかった。だから、そんなことは言わないで。大丈夫。君がそれを惜しむ必要なんてもの一切ないさ」

「最後に、一つだけ言わせてほしいの。」


「私はあなたのことが好きだった」

「俺も大好きだったよ」

彼らは、その手を握りしめ静かに眠りについた。

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