第12話 列車

 五月十七日。その日の朝は少し憂鬱だった。学校は滞りなく進んでいた。何の陽動もない、無機質な日々たちだった。ときどき、授業を抜け出して屋上で休んだりしたこともあった。そんなときに、彼が来てくれたんだ。「何、授業を抜け出してんだよ?」と優しい声をかけてくれた。彼はすべてを許容してくれた。私を咎めなかった。それは人とはある種違うものだった。別個のものだ。ある者が私を咎めないのは、それは私に無感情、無関心を貫いていたからだった。でも、彼は違った。彼は、私のことを気に駆けたうえで私を咎めなかった。言葉にして書くとどちらも同じだったが、その中身の意味というものは大きく違う。私は「気分」と言った。「気分ね」と彼は返し、私の隣に駆け寄って、私の隣に腰を下ろした。私は屋上のフェンスにだらりと顔を付け、そこからの景色を眺めていた。私たちの学校は山の上にあり、そこから見える景色は街を一望できた。鳥になって空を飛びたい。「授業は受けなくてもいいの?あなたは受験生よ」私はそうつぶやいた、「それはお前も同じだろ」彼は何かしら丹念に紙飛行機を織っている。前の時間に配られたプリントだ。、「私にはもう受験は存在しないからね、受験に励むひたむき学生ではないの。だから私は受験生ではないよ」フェンスの鉄棒のひんやりとした生気のない感覚が私の身体をすり抜けて、その身を冷やしていく、「そう」彼は紙飛行機を織る、「だから、気分で、気まぐれ。今考えたら学校に行く意味なんてものも無いように思えてしまうもの。私は、進学するわけではないのだから。だからね、旅にでも出ようかしらね」ふと私は思い立ったように呟く、「旅?」彼は顔を上げる、「そう。旅よ」私は単調な口調で、「行く当てはあるのか」彼も単調な口調で返す「そんなものはないよ。旅はいつだって突然始まるもの。何の気なしに、ただあてもなく外を歩くだけの日々になるかもしれない。でも、どうせ学校で意味もない勉強をして、その日その日を無為に過ごすよりかは、気分的にも幾分楽で、楽しいものなのかもしれないよ。すべてが新しいのだから。人は旅の中で、成長していくと、誰かがそんなことを言っていたような気がするわ。でも彼は、人生が一つの旅のようなものだとも言っていたような気がするからそれだとまた趣旨が違ってくるわね。でも、私はそういう旅の類のというものが好きでね。私の読んでいた小説の主人公たちは皆一様に旅をしていたわ。彼らは、小説のどこかで必ず旅に出るんだ。彼のすべての著作を読んでいるわけではない、でもどの物語も必ず主人公が旅に出る。その旅の中で出会う脇役たちというものがまた秀逸でね。彼らは、その旅で何かを得るわけではないんだ。寧ろ彼らは何かを捨て去っていく。そして、彼らはその旅を得て、確実に何かが無くなっている、発見の旅ではなく、喪失の旅。でも、そんな彼らの旅が私は好きだったんだ」私は蒼くひかる空、緩やかな小川を下るように流れていく雲たちを眺める、「でも君が何かを手に入れる意味はあるの?君はもう、一か月後にはこの世にはいないのに。今から手にする必要はあるの?失うものもある?今更何も無いだろう。失うものも得るものも」彼はその腰を上げ私の隣に立って、同じ空を見上げる、「そんなことを言ったら何もできなくなってしまうよ。あと君は間違っている。どうせ人は死ぬのだから。手にしたものはいつか無くなるのだから。それなら、いつ手に入れても同じだろう。あと、人の死はランダムなんだ。病気でなくとも、人は死ぬ。青信号にお腕を振って、何も危険視することなく生きていた人間にいきなり不幸は襲い掛かってくるのだから。それで何人の方が無くなったか。もしかしたら、明日死ぬかもしれないし。またそれは誰にも分からないんだ。だから、やりたいことはできるだけ早くに手を付けとかなきゃならない。君が思っているより、時間は少ないのだから。この世には完全幸福というものは存在しないのだから。そろそろ授業に戻らなくてもいいの授業が終わってしまうよ」、「いいよ、俺は。終わるのなら、それまで待とうかな」彼は手に持った紙飛行機を空に飛ばした。私たちが住んでいる町の上をその紙飛行機は自由にただまっすぐに、堕ちることなく飛んでいく。

 『奇跡はめったに起こらない』、そう。奇跡なんて起こらない。もし奇跡が起こるならそのほとんどはフィクションだ。小説家は奇跡を起こせる。その筆一つで人の人生を変えることが出来る。死亡するはずだったヒロインが何故か、生存したりする。不治の病に罹っていたはずの病人が次のぺージではすっかり元気になっていたり、死んだはずの人間が生き返ったりもする。フィクションだから許される。寧ろ、フィクションだからこそ許される。いや、フィクションくらいは奇跡があってくれ。なんて私は考えている。だって、じゃないと残酷すぎるじゃないか。もし、「この世界がもしもフィクションなら、私も奇跡的に生存したりするルートが在ったりするのかな。そうであるなら、私が猫のように旅に出るのは、別のルートを辿っている証拠なのかもしれない。そう考えると、その物語の中では私が主人公か、ヒロインであることを祈りたい。ヒロインであるならば、最終的に彼女は幸せを手にするというシナリオを描いてほしい」まあそんなことはあるはずもないのだけれど。しょうもないことを考えすぎだわ。何もないときはこうやって空想にふけるしか脳を使わなくなるものだ。寧ろ思考しているだけましなのかもしれない。人間は考えることをやめてしまったらもう終わりだ。私は思い立って家を出た、ただ無心にどこか私の知らないところに行きたいと思った。私は駅の入場券を買った。私の思惑では、適当に列車に揺られて、適当な無人駅で降りて適当に過ごそうなんて考えた。今の時代、無人駅の数は相当数減ってしまった。いや、無人駅があるかどうかも定かではないね。でも、私は『無人駅は存在する』そんな奇跡を信じて列車に乗った。そこは、神さまが融通を利かしてくれることを望んだ。ご都合主義というやつだ。今考えたら一か月は早すぎた気がしないとは思えない。一か月放浪するのはとても大変なことだ。私だって大変だし、かれだって一か月間も旅の日々を紡いでいかなきゃならないんだ。道中に出逢うであろう魅力的な人物という新しいキャラクタも考えなければならないし、それならまだ学校生活を描いた方がよかったのではないだろうか。しかし、無益な学校生活をただ続けるという物語構成に飽き飽きしたから、かれはこちらの方向を選んだのだろう。だから、この旅をするという行為はかれが望んだ故に生まれた事象だ。それにある者は自分を痛みつけることで快感を得るという。そんな人間がこの物語をつづっているのかもしれない。いや、これは想像だ。あくまで想像だ。それに私もこっちの方が楽しい。これからいろいろなものが出てきそう、もしかしたらタイムリープなんてしたりでもするのではないかとも思ってしまう。私は旅という名の無法な自由を手に入れたようなものだ。旅といったって、もしかしたら時間旅行や、次元旅行なんて可能性だってある。だから、私はこれから起こることが密かに楽しみでもあった。

 その列車は一向に止まる気配はなかった。列車に乗り込んだ私は間違った選択をしてしまったのではないかとも感じた。時間間隔がおかしかった。自分が、目覚めのない夢幻の住人になったような気がした。その窓から見える景色は何一つ変わらなかった。新緑の山々の中をただ列車がひたすらに走っているだけで、その列車は一向に停車には至らなかった。乗る前から、どこか不穏なにおいも感じていたのかもしれない。時は少し遡る。現代では、駅で列車を利用するときはいつも券売機を使い乗降駅、列車などを選択し、それに相当する料金を支払い切符を発券するのだが、その駅にはなぜか券売機は存在しなかった。だから、私は仕方なく駅員に話しかけた。「すいません、入場券をください。行き先を決めていないので」、「君の行く先はもう決まっているよ」、私はその言葉の意味をよく理解できなかった。一寸と間を置かず駅員は続けて喋り続けた。「久しいことだね、客が来るというのも。お前も紛れ込んでしまったのだな」、「紛れ込む?それはどういうことなの」、「紛れる。世間から隠れるということだ。それを望むものだけが、その向こう側に生ける。隠り世というべきであろうか。そこは君が望むものだけが置いてあるのだろう。詳細は知らない。私はただ駅員を命じられているだけだからな。死を意識した者の前に、この世界は現れる。ここで私はあなたに告げることが出来る。果たして、君がその先に行くかどうかを。肯定もしないし否定もしない。私は何もわからないのだから。ただ、きみが望むすべてを具現出来得る世界らしい。そして、それは時に存在しえない世界だ」、「そんな夢世界が存在するの」、「ああ、そう。言葉に嘘はない。そのままに受け取っていい。だがこの駅に帰り切符は存在しないよ。それだけは忠告として言っておく」、「それは、もうこの世界には戻ってこれないかもしれないということ?」、「私がこの駅に勤め始めて、早三十年は経つが、元いた世界に戻った人間という者は訊いたことが無いし、見たこともない。その答えには頷くことしかできない。」「ということは、誰にも会えなくなるということ?」、「そう。あなたはもう、この世界の誰とも会えなくなる。その列車に乗れば、きみの冀う世界に行ける。さてどうする。」、私は戸惑うことなく、小さく頷いた「分かった」そう言って、駅員の彼は一枚の切符を私に差し出した。異様な数字の文字列とアルファベットが記載された謎の切符を渡された。「なに、この番号は?」、「世界番号さ。君は運命が変わるんだ。それは新しい世界への乗車券だよ」、「さあ、行きの列車はあちらの方へ、どうか楽しき旅を」、私は切符を受け取り、列車に乗り込んだ。そして彼女を待っていたかのように、乗り込んだその瞬間、その扉は締まり、列車は出発した。車窓から見えた駅員さんの顔は私に笑いかけているように見えた。


 彼女が乗る列車が道なき道を進んでいるその時、その出発駅にはほかの列車が降り立っていた。「これはどういうことなの」、「運命の転回だね。君も列車に乗ったのだろう。君は何を見てきた」、「とても長い夢を見ていたような気がする」、「そう、夢物語と言うのだろう。僕はそのままを答えただけだよ」、「時計を見てみなよ」、「六月十七日。もう、こんなに時間が過ぎているのね」、「ああ、自分の髪を見て見なよ。確認できるだろう」、その言葉を耳に、彼女は首元に手を伸ばした。「確かに。ショートだったのがセミに変わっている。」、「そう。もう、時間は経っている。その時は来てしまった。君の未来はどんなものになるのかな」、「この未来が、わたしの新しい人生ってことなの」、「ああ、運命はどんどん変わっていくよ。君たちが知ることのないまま、延延とそれはあみだのように移り変わっていっているんだ。この世界は多くの運命戦というものでできているんだ。多くっていっても数えられるってものじゃあないよ。その線は無数に存在する。例えば、君は朝目覚めて食事を採るだろう。その食事をパンにするか、ご飯にするか、それとも食べないか。まあ、他にも食べ物はたくさん存在するだろうけど、簡単にこの三つに振り当てるとする。それでも、これで三つの異なる運命線が存在するんだ。こんな感じで、生まれてきて、死ぬまでの間に幾重もの運命線をあなたは漂っていくんだ。でも、選ばれなかった運命ってものも、そりゃああるよね。勿論その運命は別の世界線で継続していくよ。切り捨てて、選ばれなかったものが消えてくっていうのは酷な話だろう。そんなものは世界倫理的に許されないんだ。そんな感じで、幾重もの世界がこの世には存在するんだ。極に、極稀にね、転回という現象が存在する。自分がこれまで過ごしてきた人生、これからの未来が180度裏返る。コペルニクス的転回から取って、僕が名付けた。運命の、変換、転換、ともいえるね。運命の転回が起きると、二人の位置がひっくり返る。その紙切れに書いてあるよね。世界番号。でも転回ってすこし理不尽でもあるんだよね。この世界は誰が作ったと思う?そりゃあ、通説はあるさ。だが説明が面倒くさいからさ知りたいのなら自分で調べてくれよ。まあ、調べる必要なんて君には無いがね。もう、この世界について深く知る必要なんて皆無なのだから。その列車も、運命線を横切る世界列車みたいなものだ。僕が作った。単なる遊びに過ぎないさ。その中で君は永い夢を見ていたと言っただろう。それは君が、望んでいた世界なんだ。まあ、僕も悪魔ではないからさ、こういったサプライズをするよ、一種のプレゼントみたいなものだ。サプライズプレゼントだね。それを僕は君に捧げたわけだ。楽しんでいただけたら僕は光栄だよ。すまないね。話すと、長くなってしまう性格でね。まあ、そういうことだよ。君は新しい世界を楽しみなさい。君たちは元来自由の身なのだから」、「ねえ一つ聞いても良い」、「いいさ、何でも言って御覧」、「今さっき、話したことは、すべて本当なの?」、「本当だよ。僕たちは本当のことしか喋ってはいけないんだよ。嘘は倫理的に良くないからね。ここで嘘をつくことは、優しい嘘にはならないからね。結局優しい嘘は、暴力的な嘘を言葉巧みに操って変換しているだけなんだ。皆、結局騙されてるんだ。そのことに気づいていないだけでね。だから、僕は真実しか君には告げていないよ」、「一つだけ、教えてほしい」、「何だね」、「運命って決まっているものなの?」、「いや、いないさ。運命は君たちが決めるものだ。幸せになるか、不幸せになるか、それは君たちの手によって決まっていく。まあ、そこには運というものの介在してくるからね。一様には言えないんだがね」、「ありがとう。良い夢を見させてくれて。でも、貴方の言葉を聞いて、分かったよ。もう、わたしには、あんな幸福は、訪れないのだね。あんな、奇跡は、訪れないのだな」、「ああ。残念ながらね」、「分かった。ありがとう。名前も知らない駅員さん」

 「ごめんな。本当に世界は残酷なんだ。君への最後のプレゼントが本当に幸福であったのなら、僕は枯れた大地が青みを取り戻すその時まで涙を流し続けるよ」彼女を見送ったあと、僕は他の仕事に再び取り組み始めた。

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