第11話 彼女 第2部

 その夜の寝付きはそれはとても良かったんだ。まるで、太って柔らかい大きな怪獣のお腹の上でずっと眠り続けているような気分だった。この眠りが、永遠に続けばいいなとすら思いもしたが、そんなことはなく一定の眠りを終えればその身体は自然と目を覚ます。少しわたしは、疑問に思うところがある。夢についてだ。わたしたちは、時折夢を見る。あるものは、殺人鬼にその身を追われたり、ある者は大空を自由に飛んだりする。実際は、空を飛ぶ夢を見たというものをわたしは訊いたことが無い。それはとても気持ちの良いものだろうね。自由に、独りで雄大な空を鷲のように飛び回る。わたしが、そんな夢を見た日の朝は、自分の人生に失望して、ビルの屋上からその身を投げそうである。そして、遺書にはこう記す。『私も鳥になって、自由に空を飛びたかったな』と。遺書に多くの理由は要らない、その時思ったことを連ねればいい。君はもう死ぬのだから。いじめられていた者は、自身をいじめていた者を呪ってやればいい。遺書に怨念の言葉を書き連ね、呪ってやれ。人を巻き込もうが、まきこまいがもう君には関係のない話なのだから。君はもうこの世にはいないのだから。あと、死ぬときにはひとのことなんて考えなくていい。あなたは、自分のことだけ考えればいい。死ぬときくらい、人に迷惑をかけるなと多くの人は言う。ある者は、自身の身を駅に突っ込んでくる快速列車にその身を落とす。その身は、一瞬で塵になる。四肢爆散とは、こういうときに言うのだろう。わたしは見たことが無い。でも、思うのだよ。彼、彼女は頑張って仕事に身をもっていこうとしたのだろうな。でも、出来なかった。彼、彼女は、『ああ、つらい人生だった』と思って、涙を流しながらその身を投げる。電車を運転している車掌はこういう事象が日常茶飯事のものらしい。それは、そうだろう。自殺者が年に三万人をゆうに超えるのだから。どこかの駅で誰かがその身を投げているのだから。そして、時にはその車掌は投身自殺をする彼、彼女と目が合ってしまうことがあるらしい。彼、彼女の顔は一様に涙を流している。それは、絶望という言葉こそが似合う表情らしい。ある者は、彼、彼女の表情を見てしまったがゆえに、もうあんな出来事には遭遇したくはない。と、その職を辞してしまう。絶望の最中にいる人間の顔は、これほど人間を恐怖させてしまうものらしい。これは車掌の視点からの想見である。そのときの人間たちにスポットを当ててみよう。多忙な新人社会人『ふざけんなよ、こんな時間に自殺してんじゃねえよ。仕事が遅れちまうじゃねえか。馬鹿が』、大学生たち「なあなあ。自殺があったらしいぜ。もしかしたら見えるかもしれねえ。言ってみようぜ。」、若いOL「すいません、会社遅れます。何か、投身自殺があったみたいで。車両が止まってるんですよ。もう嫌になっちゃいます。」、管理会社『ああ、また自殺か。これで何件目だよ。面倒くさいことをしてくれるね。清掃会社に連絡とってくれ。はやくね』、所詮社会の声なんて、こんなものだ。社会は誰もあなたを弔ってはくれない。あなたを心配してくれる人間の数なんてそれはとても少ないだろう。家族、両手広げて事足りるそんな数の友人たち。それしかいない。会社の人間はどうなんだと思うかもしれない。会社の人間であなたを本当に弔ってくれる人間なんてたかが知れているよ。一緒に入ってきて、今まで仲良く関係を続けてきてその関係が同僚から友人に変わった人間ならあなたの死を泣いてくれるかもしれない。それ以外は、ただいかなければならないかなあ。という社会性を重んじて、式に参列しているだけで、そんなことはひとつも思っていないよ。ああ、だるい。今日は葬式なんだよな。喪服下ろすのだりいよ、それでまたクリーニング屋に出さないといけないしさ、勘弁してくれよとでも思っているのだろうよ。そのくらい社会って冷たいものなのだ。上の人間からしてみれば、下の人間なんて単なる駒でしか見ていない。過労自殺で人が亡くなったとしても、すまし顔で『また、替えが見つかるだろう』とでも思っているのだ。そのくらいにしか、考えていないよ。どうせ、死ぬのだから。どうせ死ぬときには、悲しむのだから。どんな死に方でも、構わないだろう。確実に死ねるやり方で死ねばいい。それに、人間は生きているだけでも、人に迷惑をかけたり、掛けられたりしている。それくらい、分かっているんだよ。だから、あなたは確実に死ねる方法で。一歩でも死に失敗したら、重い後遺症が残ったりする。そんなのは嫌だろう。そんなもの死より嫌な事さ。生きたくないと思っていた上に、さらにそこに後遺症というペナルティが重ねられて生きていくんだ。そんな惨い人生を歩んでいくなんてこりごりじゃないか。これだけは言っておきたい。死ぬときは、確実に死ねる方法で死になさいと。

死を迎える日の朝食、それはいつもと変わらない。最後の晩餐は何かいつもと違う豪勢なものでも食べようかなとも思うかもしれないが、いつもと変わらない朝食くらいは質素なものを食べようと思うものなのかもしれない。わたしは、いつも通りガスコンロの火をつける。時刻は六時四十五分。チチチチチと音が鳴り始め、ボッと青い火が付いた。コンロに載せていた黒いフライパンの上に油をひき、数分間待つ。その間、文庫本片手に捲りながら、丸椅子に腰を下ろす。フライパンの上に手を翳し、温まったかどうかを確認する。温まっていれば、その上に卵を割り、その横にベーコンを焼く。そして、塩コショウを少々。ジューという音と、香ばしい香りが部屋の空気に浸透していく。わたしはその感じが堪らなく好きだ。そして、数分間待つ。その間、文庫本を片手に捲りながら、丸椅子に腰を下ろす。焼けたかなと思ったら、純白の食器棚から純白のお皿を取り出しその上に盛り付ける。盛り付けると言っても、そのうえにただ完成したハムエッグを載せるだけだ。ああ、忘れていた。わたしはいつも忘れてしまうのだ。ハムエッグを作る工程に夢中になりパンを焼くのを忘れてしまう。この工程も、朝食サイクルに組み込まれている。わたしは、食器棚の上に置いてある食パンの袋から、一枚の食パンを取りオーブントースターの中に突っ込んだ。つまみを二時の方向に回すと、うなり声をあげ始めた。一分間待つ。トーストは焼き過ぎると焦げてしまうからね。その間、文庫本を片手に捲りながら、丸椅子に腰を下ろす。食事を作る時間でさえも、有効に活用すれば本は二十ページも前に進む。時間とは使いようなのだ。チンという音が鳴ると、わたしはアツアツと言いながら素手で出来上がったパンを掴み純白のお皿の上にぼとっと置いた。そして、冷蔵庫からマーガリンとスライスチーズを取り出す。部屋の真ん中に寂しく置かれた白木のテーブルにそれらを持っていく。わたしは焼きあがったトーストに白いマーガリンをべったりと塗る。その上にスライスチーズを一枚載せる。チーズがふやけてきたと思ったら、そのトーストにぱくっとかぶりつく。ああ、美味しい幸せだ。そして、ハムエッグを箸で口に運ぶ。塩コショウのうっすらとした塩みに、ベーコンの香ばしさに、黄身の甘味に、白身の柔らかい触感、ああ、美味しい幸せだ。それを交互に繰り返す。それだけで、わたしの朝は幸せに包まれる。わたしは、寝ること、食べることに関して人の何倍もの幸せを感じようとしていた。些細な幸せで、あらゆる人間が感じるであろうすべての幸せを代替しようとしていた。そんなものどころじゃない。空を飛ぶ鳥たちを見ては、思いをはせた。来世は鳥になって自由に生きたいと。川を泳ぐ魚たちを見ては、思いをはせた。水の中を自由に泳ぎ回りたいと。そう思うだけで、幾分幸せになれたような気がした。ごめんなさい。こんな人生を送って。って時々思う日もある。ああ、なんて人生だったのだろうか。幼くして母は死に、友達の一人も作れず、祖母も死に、そして、死ぬ。いや、今日は人生最後の日なんだ。楽しく生きなきゃなあ、朝からこんな落ち込んでちゃダメでしょうわたし。まずは朝ご飯を食べ終えよう。一人で食べる朝ご飯。電気一つ付けず、周りには何一つない。一面真っ白だった。壁にはシミ一つない、家具一つない。わたしはそんな中、独りでご飯を口に運ぶ。食事を平らげたら、食器はシンクに置いた。シンクに食器を置いたときに、カンという小さな金属音が静かな部屋に響き渡った。ひとまず冷蔵庫を開け、冷蔵庫から牛乳を取り出した。食器棚から、コップを取り出し、コップに牛乳を注いだ。わたしは牛乳を流し込み、咽喉を潤いで満たした。そして、コップをシンクに置き、牛乳パックは冷蔵庫に再びしまった。まだ、牛乳半分も残ってたな。勿体ない。そのときわたしは、今日が日曜日なのを思い出した。ああ、またいつもの調子で早起きしちゃった。昨日は早く寝たから、眠気はこれと言っていいほどないけど。最後の日くらいは、惰眠を貪っても良かったのかもしれない。そんなことを考えながら、シンクスポンジに洗剤を染み込ませお皿を洗っていく。ごしごしとお皿をスポンジで磨き、水で泡を洗い流す。同様の作業をコップが為に再度繰り返す。何もやることが無くなった。久しく、家に帰ってくると何もすることが無くなる。というか、分からなくなる。六月十八日、飛ばされた月日、約一か月。このあいだに、普通の学園生活を送っていたら、何の面白味も無いだろう。わたしは、最後の一か月は名もなき旅に出たんだ。行く当てもなき、途方のなき旅。色々なものをみてまわろうとでも思った。わたしは、リュックサックを背負った。こういう時、一人だと誰も咎めるやつはいない。誰だってわたしの所在はしらないし、誰もわたしのことなど興味はないのだから。わたしも、何も考えることなく行動することが出来る。それは猫のように。着の身着のままに気軽で、気まぐれな猫のように、わたしはこの街を一度去ったのだ。でも、それは彼女に一時の幸福と絶望を与えただけだったのだがね。

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