第3話 帰宅

「ただいま」

僕は玄関のドアを開けた。そしてスリッパに履き替え、テレビ前のソファに腰を下ろした。ソファのすぐ隣で、母が洗濯物をたたんでいた。僕、母、父の二日分の洗濯物だろう。フレグランスの優しい香りが軽く鼻に香った。僕はその香りが好きだ。

「おかえり。遅かったわね。夕食出来ているわよ。早く食べちゃいなさい。冷めちゃうから」散乱した洗濯物をたたみながら、母がつぶやいた。

「うん。わかった」

テレビでニュースを見たいと思ったが、母が作ってくれた夕飯を目の前で冷めさせるのも億劫なので、僕はまず夕飯に手を付ける。

「どこに行ってたの今日は」洗濯物を畳みながら母が僕に話しかける。

「散歩。いつものコースだよ。裏道を抜けたら、そのまままっすぐ道路を歩き続ける。歩き続けた先に見える河川敷で読書かな。あ、あと一つ聞きたいことがあったんだ。」僕は思い出したような素振りを見せ、母に語り掛けた。

「何」母は首をかしげて、こちらに視線を寄せた。

「あのさ。十年前くらいに。当時住んでいた家の近くに仲の良かった女の子がいたじゃない。あの子を河川敷で見かけたんだ。お母さん、何か知らない。」

「十年前かあ」人差し指と中指、二本の指をこめかみ近くにあて目をつむり何かを絞り出そうとしている。でも、この時点であまり詳細な情報は無いのかもしれないと感じた。

「ああ、思い出した。いたね。そんな女の子が。でも、あんまり思い出したくないよ。思い出すだけで、胸が痛い」その顔は歪み、母の目が赤く染まっている。

「でも、その女の子がどうかしたの?」母は問いかけた。

「いたんだ。この街に。僕は何で彼女がこの街にいたのか分からなかったんだ。だから、お母さんは何か知らないかなと思って。でもやっぱり知らないんだよね」

「うん。分からない。でも何か事情があってこの街に帰ってきたんだろうね。何もなければ、その子はずっと、遠くにいるはずだからね」

 彼女は何かがあってこの街に帰ってきた。その何かが辛いものではないことだけを僕は願いたかった。僕はいつもより早めの夕飯を平らげ、自室に戻った。

 部屋に戻ったとしても、やはり何もやることはない。部屋にいるときは大概本を読むか、音楽を聴くか。この二つ意外にすることはなかった。本はもう読んだのだし、音楽を聴こうと思い、僕はポケットに入れたままであったウォークマンを取り出し、イヤホンプラグを外し、ヘッドホンプラグに移し替えた。部屋で音楽を聴くときは、イヤホンではなくヘッドホンで音楽を聴く。クローズドヘッドホンの適度な締め付け、その耳に覆いかぶさった部分からは、その微かな、繊細な音まですべてを身体で受け止めているという感覚があり、イヤホンで聞くより何倍も気持ちいい。チッチッチッとビートを刻むハイハットの音、ズンズンと耳に響くベース音。今聞いている音源はある歌手がメジャーデビューする前に、インディーズで販売していた六曲編成のミニアルバムだ。五曲目のラブソングが堪らない。二年前に友人に誘われ見に行ったライブ以降、僕は彼らの虜になった。そのライブで彼らが歌っていた曲だ。ロックテイストの曲が多い彼らの曲の中でも、この曲はポップテイストに仕立てられている。彼の声は素晴らしい。アップテンポの激しい曲だとその声は迫力を増し、その声には大きなこぶしが入りまるで演歌のように力強いものになる。その反面、優しい曲になると彼の力強い声は姿を消すのだ。その優しいウィスパーボイスが脳をとろけさせるものに変容する。この五曲目に関してはこの両面の魅力が垣間見える曲で、聴いてて飽きが来ない。耳を澄ませ、目をつむり、音楽にふける。自然と頭が揺れて、身体が動き出す。この感覚が堪らない気持ち良すぎて眠たくなってくるほどに。そうして椅子に背を乗せ、肩の力を抜くと、、首が自然と後ろに垂れる。幸せだと感じる。音楽を存分に堪能していたら、壁の掛け時計は九時を指していた。ヘッドホンを頭から外しスタンドに垂れかけた。僕は風呂に入ろうと、一階に降りた。辺りを見回したところ母はテレビを見ており、父は本を読んでいた。本が好きなのは、日ごろから本を読む父の姿が目に見えていたからかもしれない。

「先に風呂に入るね」

 僕は母と父にそう喋りかけ、居間を通り過ぎ脱衣所に入った。脱衣所で服を脱ぎ、洗面台で顔を眺める。うん、我ながら格好の良くない顔だと一人落ち込んだ。軽く身体を洗い流し、浴槽につかる。風呂は私たちの人生の至高体験の一つだ。そんな至高な体験を毎日体感することができる幸せ。それはロールプレイングゲームの、一瞬で体力を全回復してくれる泉が何度も無制限に使用できるという感覚に近い。そんなつまらないことを考えながら、顔を上げ、まだしずく一つついてないまっさらな天井を見ながら、ふぅと体の力を抜いた。今日一日を振り返った。散歩している最中に、彼女に遭遇した。いや遭遇ではない。実際は、こちらが偶然と彼女を目にしただけだ。まさか彼女と出会うことなんて想像すらしていなかった。頭の片隅には残り続けていた。それは今でも変わらない。でも、もう会うことはないと思ってた。会えるとは思わなかった。明日は新学期の幕開けだった。もしかすれば彼女がいるのかもしれない。どんな顔をして彼女に会えばいいのか。身体を湯で温めながら、そのことばかりを考えていた。考えすぎていた為か、いつもより長い入浴だった。風呂上りに、冷凍庫に入った棒付きアイスを手に取り、口に入れた。そのまま、テレビ前のソファに座りニュースを見る。これも僕の日課だ。チャンネルを回し、ニュース番組に合わせた。

 『四月六日午後3時過ぎ、中学二年生の少年の変死体が見つかりました。少年の身体に外傷は無く、眠ったまま目を覚まさない母親は、少年の身を不審に思い病院に駆け付けたところ、その少年は死亡していることが確認されたとのことです。少年の自室にある机の上には遺書のようなものが書き残されていました。警察はこれを自殺と認定し、少年が通っていた中学校、教育委員会はいじめの有無などの調査に今現在取り組んでいるそうです。』

 不特定多数の人々が目を向けるテレビではやはり詳細なところは語られない。自殺が起るのは普通のことだ。それはこの国に限った話じゃない。それに自殺は、ここ最近さらに増加傾向にあるはずだ。この国の経済は更なる不景気を辿り、多くの企業は酷い残業地獄に陥っている。残って仕事をすることが普通だという、異常事態が普遍化しているのだ。国は改善策を出せないままに、その苦痛に耐えられない若者は簡単に自殺を選ぶ。彼が死んだなら、私も死ぬ。など自殺の連鎖は止まらない。考えられないかもしれないが、今の世の中にはそういった連鎖が出来上がってしまっているのだ。そうやって命の価値認識はどんどん下がっている。その命の価値認識の偏向連鎖というものが遂には年齢をも超えていった。その偏向はまだ若き輝かしい未来のある子どもまでも壊すものになってしまった。いや違う。子供たちは自分の未来に光が見えなくなってしまったのだ。

 一番みなきゃいけないのは、コメンテーターのいうように学生の自殺件数が異常に増え続けていることだ。この国、対策を打たないと本当につぶれるぞ。

前代である平成の子供たちはゆとり世代と言われていたらしい。

 過去に詰め込み教育という、早期の知識拡大を目指し、多量の勉強を生徒に課すというシステムがあった。その異常な詰め込みにより学生の基礎学力は確かに向上を喫したが、逆に勉強ができない子がついていけなくなり多くの落ちこぼれを生んでしまうという問題が生まれてしまった。そんな生徒に対しての罵倒、侮辱などによるいじめ、暴力などが発覚しはじめ、それは社会問題にまで発展した。それを危険視した国は新たな対策として、教育緩和に移行したのだ。多くの知識を頭に詰め込み、ただ知識だけを増やしていくという偏った教育法を改め、知識よりかは思考能力の向上を図る為の教育というものに変更した。また国公立高校は土曜学校を撤廃し、学校は週五日制という具合に落ち着いた。ゆとりが生まれたからなのか、頭の柔らかい子どもたちが多く生まれた。しかし、授業数の低下に加え、科学技術の発達による実生活の潤いが生まれていき、子供たちは、学校では真面目に勉強を受けるが、家に帰れば全く勉強に触れないという者は増加した。そのおかげで、授業で習ったところを殆ど覚えていない、いや覚えようとしない倦怠学生が急増したのだ。云えば、彼らは日ごろから努力をしないのだ。学ぼうとしない人間が、成長するわけがない。そんな子供たちが大人になり、その現象は大人に移行した。覚えない、学ばない、その場しのぎで何とかなると思いながら生きている大人が増加してしまった。その影響はその影を隠しながらも少しずつ現れていき、社会が彼らの世代になったとき、その経済成長率は0を下回り、それは右下がりに転じていったのだ。経済が回らなくなれば、国も淀みが増していく。そんなゆとり世代が社会に台頭していっている中で、雲行きが怪しくなっていく国、そして自分のこれからの人生を憂い、すべてを諦めるという『さとり世代』と呼ばれるものが新たに生まれた。それが今の僕らなのだろう。傍から見た僕らはいたって普通だ。皆勉強もそこそこできる、また電子機器の発達により電子情報によるコミュニケーションの幅はぐんと広がりを見せ、僕たちは人間関係に困難を欠かなくなった。だがこのコミュニケーション手段の異常発達が、人間関係の希薄化を引き起こしていたのだ。まだ、電子コミュニケーションが発達していなかった時代は、顔と顔を合わせる対面コミュニケーションでしか人と人とが交遊を深めることが出来なかった。しかし、今の時代は電子コミュニケーションの増加と反比例するように、対面コミュニケーションが逆に減少している。これは、恥ずかしいのではなく、人の目の前で直に自分を曝け出すのを渋っているという印象である。だから、構築された人間間関係が密なものでは無く、それは朝の靄ように時が経てば簡単に消えてしまうような矮小なものに変わってしまったのだ。昔の人はよくいったものだ。人間関係の充実は、その人の生の充実を表していると。それは真実である。現代の私たちは、虚像の様な関係を真実の様にとらえている。その光景は実に虚しいものだ。だから、ある者は、自分が誰にも愛されてないんじゃないのかと、誰にも愛してもらえないんじゃないのかと感じてしまうことがある。実を言えば、今現代を生きる私たちは低次欲求である社会的欲求までも満たせていないのだ。これは、電子コミュニケーションの異常発達が引き起こした弊害とも言える。まだあまり問題視されていないようだが、数をみれば明らかだ。でもこれに関してはどうすることもできないから、どうしようもないのだ。それはとても潜在的なもので、外から見たって普通の人と何ら変わらないのだから。

 僕は、ソファから立ち上がりゴミ箱にアイスのハズレ棒を投げ入れた。その軌道は孤を描くことなく、ただまっすぐにゴミ箱へと吸い込まれていった。

「もう寝るね。お休みなさい」

「おやすみ。明日から学校よ。頑張りなさいね」

 母が僕に呼応した。僕はもう一度お休みとつぶやき、二階の自室に上がった。

僕はそのままベッドに倒れ込み、掛け布団を手繰り寄せ頭まで被せた。そして、そのまま目を瞑った。

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