第2話 散歩
中学三年生前の春休み、近くにある高校の紹介冊子をただぺらぺらと眺めていた。この高校に絶対に行きたいという果敢な目標なんてものは僕にはなかったからだ。目を冊子に近づけて、必死に一字一句その高校について知ろうという気なんて毛頭ない。言えば暇つぶしだ。彼女もいない男子中学生が春にすることなんて何もない。ベッドに横になり、身体を無駄に動かしたりする。その行動になんの意味もない。暇すぎて、何もやることが無いからだ。暇を極めた僕は、枕に後頭部をつけ、ただ前方を眇めた。その目線の先には白くざらついた壁しかなかった。
眼鏡をかけているせいか、よく勉強ができるという風にとられることもあるのだが、勉強はそれほどできるわけではなかった。みんなにはわかってほしいのだが、眼鏡をかけるのはただ目が悪いからである。それには多くの理由がある。暗いところでよく本を読んでいた、ゲームばっかりやっていた、また先天的にあまり視力が良くない、などなど。僕の場合は、実をいうと夜に常夜灯の薄明りを頼りに本を読んでいたからだ。なぜ、あえて常夜灯にするのかと。それは、親に早く寝なさいと怒られるのを子供ながら気にしていたからだった。怒られることを心配し、僕は常夜灯の光を頼りに、小さな活字を目に刻んでいたのだ。二重で目を痛めているのだから、目も悪くするのは自明である。少し前には、満月の夜に月明かりを用いて本を読んだのだが、これが中々に良いものだった。常夜灯の光とは電球色といったオレンジ色の光で、暗闇を明るく照らすもというものとは違い、これは闇に紛れた小さな光みたいなもので、僕たちを優しく照らしてくれる光なのだ。だから、さほどの明るさもなく、白背景の黒字を読むには少々心苦しいのだ。しかし、月光は、まぶしいほどの明るさをもつ純白の光である。その真っ白な光は本を読むには、最適の光なのだ。卓上スタンドは殆どが白い光であるが、もしやすればこれは月光の元での勉学、本読みは素晴らしいという古き良き伝承からきたものかもしれない。
あと、本を読むなんて、君は真面目だなとも言われることもあるが。自分は、本を読むことに関しては趣味だと割り切っている。好きだから、本を読む。知識量を増やしたいとか、偉くなりたいなんて1ミリも考えたことが無い。ゲームが好きな人が、ゲームをする。それと同じだ。楽しいから読んでいるんだ。小説を読むと、その作者の人生を追体験できる。だとすれば、僕は数百回と誰かの人生を体感している。僕はこの感覚が楽しくて、読書がやめられない。また小説は人の心を救うと思うんだ。ある者は、日常を過ごす中で反社会的な感情がひそかに湧きあがったりすることもあるかもしれない、人として誤った感情を抱いてしまう自分は異常だと思い、落ち込んでしまうときがあるかもしれない。でも小説は、その感情が間違ったものではないと、ひとに気づかせてくれる。あなたは普通なんだよ、だから大丈夫なのだと。それは無意識的に私たちを救ってくれる。まあ、知識量に関しては、その本で得た知識、言葉の使い方なんかは付随的についてくるものだ。だから本をたくさん読んでいるから物知りっていうのは言えることなのかもしれないな。
やることが無くなった僕は上着を羽織り、ポケットに文庫本を一冊入れ、耳にイヤホンを刺しウォークマンの電源を入れた。曲をシャッフルで再生する。(『チェリー』か、春っぽくていいな。まあ随分古い曲だが。思えば、チェリーという曲は昔から総じて春っぽいな) そうして靴に足を入れ、ドアを開けて歩き出す。このステップを踏み僕の日課である散歩は始まりを告げる。
近くの河川敷を目指して歩く。少しだけ肌に寒さを感じることもあるが、陽光のやさしい光が僕の身体を温めてくれる。春を感じる。気持ちがいい。だから春に包まれた中での散歩はやめられない。今歩いているこの河川敷は、春になるとその全身をピンク色に染めるのだ。まるでまっさらなキャンパスにピンク色の絵の具をぶちまけたような、その姿は圧巻だ。その桜の下にはブルーシートが敷き詰められ、そのシートの上では花見客でいっぱいになる。今年の満開予想は四月の中旬だ。まだ、その花は開いていない。小さな赤いつぼみしかない。
僕は、河川敷沿いの坂道に腰を下ろし文庫本を開く。そよ風に揺られながら、ページを捲る。時折、顔を上げ周りを見渡す。河川敷といえば、デートスポットの一つだという認識が僕にはあった。前なんて、独り寂しく本を読む僕の四、五メートルとなりで、カップルが抱き合って寝ているのだ。あの時は、気まずかった。気まずいうえに、少々心も痛めてしまった。あの日から、河川敷には行ってなかったから、今日は久しぶりである。
河川敷デートは、時々恋愛小説にも出てくる。まさか、その現場のとなりに立ち会うとは思いもしななかった。河川敷なんて何も面白いことないだろうと僕は思ってしまうのだが。潮の流れがある海なら、その潮の流れから作られる波たちによってその景色は形を変えていく。その波の動きに太陽の光が反射して、それを見ていた男女は『綺麗だね』、『ああ、綺麗だな』と言葉を交わすシーンは、易々と目に浮かぶ。でも、河川敷に座って対岸を眺めたって景色は変わらないし、見えるのはただの住宅地だし、川なんて下流だからゆったり流れている、だから太陽の光が反射して綺麗な風景を作るわけでもない。
それを踏まえたうえで僕はなぜ河川敷がデートスポットであるのかという理由を考えた。答えは、河川敷には寧ろ何も追究するものがないからなのかもしれない。そこにいる男女たちには、必然的に喋らなければならない二人だけの空間というものが生まれるのだ。何も変わることのない景色、そして、周りから隔絶しているかのようにみえる二人だけの秘密の空間。だだっ広い空間にただ二人して肩を寄せ合うというシチュエーションは、穏やかな草原の中に二人だけというような異世界の感覚に陥いらせるのだと僕は思う。その光景はとてもプラトニックなものの様に見える。そこには、性的なものが一つも存在しない。青い春のように。そんな透明できれいな瞬間が二人に生まれているのだと僕は思う。
世にいる片想いをする全ての人たちに教えたい。意中の人と仲良くなりたいのなら河川敷に連れて行けばいいのだ。あなたの姿は純白にしか映らない。それは、とても美しい。
だから、僕は余計に恥ずかしく感じてしまう。しかしそんな彼らを見て、なぜか無意識的に小さな笑みをこぼしてしまう自分もいる。下唇を軽くかむような本当に、小さな笑みである。それは秘めた笑みといえばいいのかもしれない。そこには、いいなと思う恍惚の感情と、寂寥の感情が含まれている。幸せな人たちを見ると、その幸せな気持ちは伝線してこちらにも伝わるのかもしれない。しかし、その幸せな気持ちとは裏腹に、僅かながらの邪悪な気持ちが自身を蝕んでいく。それは仕方のないことだ。羨望と嫉妬は表裏一体なのだから。
僕は必死に顔を文庫本に下ろす。現実を虚に葬り、小説世界に没頭する。小説はぼくを知らないどこかに連れて行ってくれる。現実を少しの間だけ、忘れ去させてくれる。だから、僕は本を読む。
小説が半分まで進んだところで、本を閉じた。そして、顔を上にあげ周囲を見回した。隣にいたカップルは姿を消し、空は微かに赤く染まっていた。左腕に巻いた父がくれた腕時計を見たところ、二時間が経過していた。時間を忘れるほどに、没頭していた。周りの景色が変わったことにすら気付かなかった。だが思えば、肌に寒さも感じる。もう帰ろうと思い立ち、その重たい腰を上げた。腰を上げるのと同時に、視線もまっすぐに前を向いた。
僕は目を大きく見開いた。頭には、『どうして』という言葉が脳裏をかけ巡った。目を向けた対岸の先には、まだ眩しいほどの日差しはない春にも関わらず、麦わら帽子をかぶる一際変わった少女が僕の視線をとらえた。遠くて、詳しくはよく分からないが、年齢に関しては僕と同じようにも見えた。僕は自身の目を疑った。
なぜ彼女がいるのだ、この街に。たしか彼女は祖母に引き取られ、遠くの街にいるはずだろう。泡のように頭には疑問が溢れ出るが、今はその疑問は全て払いのけた。今現在考えるべき一つの問題は、対岸へどうやっていくかだった。周りを見渡したところ、小さな橋が目に入った。その対岸へかかる橋まではここから歩いて五分、橋を渡り切るのに多分五分、橋を渡り切ったその場から、彼女のいる元まで追いつけるのにかかる時間が五分。あの場から、彼女が動かなければ十五分だ。しかしながら、空も赤くなり始めている今の時間帯、その場に彼女が居続けるという保証は一つも無い。彼女が家に帰路を進めるのは時間の問題だった。彼女の家はどこなのだろうか。この辺りに、彼女が住めるような住宅はあるのか。想像を働かせてみるが、思いつく節は無い。彼女が、あの場から姿を消せば、僕は彼女を見つけるのは不可能だろう。もしやとは思った、いやそれはないだろうと咄嗟にその疑問を跳ね除ける。それは彼女にとっては聊か不幸すぎる。そんなことは、考えたくもない。もう彼女には、つらい思いはしてほしくは無いんだ。それだけは思いたくなかった。だからその考えは頭からすぐに消した。
僕は駆けた。身体に残るすべての力を振り絞る勢いで、僕は足を動かした。なぜここまで必死になるのかは自分でもよく分からなかった。ただ、今は彼女に会いたかった。全くと言っていいほど運動をしていなかった僕は走り出して、三、四分を過ぎたところで横腹がずきずきと痛み出していた。痛み出す横腹を抱えながらも、僕は必死でただ足を動かした。淡い青色と赤色が混ざった、それは油絵のように幻想的だったその景色は、徐々に黒みを増し始めていた。僕はヒリヒリと痛む横腹を抑えながらも、走り続けた。暫くすると、彼女のいた場所近くが視界の遥か先に映った。だがやはり、彼女の姿はそこにはなかった。僕はその場で足を止めた。背中を折り曲げ、手を膝につけぜぇぜぇと荒々しく息を吐いた。さすがにいないよな。正常な呼吸を取り戻した僕はその腰ゆっくりと上げ、静かに歩き出した。でも、分かったことがある。何らかの事情があり、彼女はこの街に帰ってきたのだ。彼女と僕は同じ年齢だ。もしやすれば、彼女は転校してくるのではいか。そんな考えが頭に浮かぶ。でも、なぜ苦き思い出が残るこの町に。そんな疑問に対する答えを、求めては生まれてくる答えを否定する。それを繰り返す。そんなことをしながら、ゆっくりと歩いていく。もう日は沈み、見あげた空には闇しかなかった。その混沌とした暗闇が、僕の想像をさらにかき立てた。しかし、思ったような答えは出ないまま僕は帰路に着いた。
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