それでも、彼女は世界を愛そうと思った

晴見康一

第1話 邂逅 第1部

一章

 彼女と、初めて出会ったのは僕がまだ五歳の頃だ。その頃、僕の家族は新しい家を購入するまでの借家として小さな県営住宅の一角に住んでいた。築何年かもわからない。それは相当古いのかもしれない。もはや過去の遺産ともいえる。外装はぼろぼろで、ところどころ壁の塗装が剥がれていた。その剥げた塗装の裏にある赤く錆びて、ひとたび触ればぼろぼろと剥げていくようなか細い鉄骨がむき出しになっているくらいに古い家屋だった。僕たちはその集合住宅に囲まれた小さな公園でよく同じ時を過ごしていた。遊んでいたわけではないのだと思う。彼女は本を読み耽り、僕はその隣で何かを口ずさむ。その言葉に彼女は小さな相槌を打ち、何かをまた口ずさむ。そんな感じだった、ただそれだけだった。昔のことなので、そこまで明白に覚えていない。古き記憶は、月日の流れに伴いその色を刻々と消してゆく。一つ言えるとすれば、その公園は酷く殺風景なものだった。その公園には小さなベンチが一つしかなかった。照葉樹の木の下に小さなベンチがただ一つ、ただそれだけである。ある者は、これを公園と呼んでいいものかと思うかもしれない。その小さな公園の入り口には『如月公園』という看板があったのだけは覚えているから、それは確かに公園なんだと思う。でも、なぜその公園が如月公園というのかは知らない。もしかすれば二月に作られた公園なのかもしれないし、公園の製作者が如月というのかもしれない。その理由は誰も知らない。区画の中心にありながらも、子どもは誰一人と遊んではいなかった。近くに大きな公園があったから。あえて、何もないその空間で遊ぶような子どもなんていなかったのだと思う。とても静かな公園だった。小さな生活音しか聞こえない。日干しした布団を叩く音、それ以外にはなびく風の音しか聞こえるものは無かった。

 僕はその公園で、彼女と一緒に遊んでいる夢をよくみることがある。それは、あの日から、今この日までずっと続いている。時々、見て、時々、見ない。その夢の彼女は、いつもたった一人でベンチに座っていた。古ぼけたつばの広い麦わらぼうしをかぶり、純白のワンピースをまとい、小さなベンチに一人座りただ黙然と空を見あげている。不自然なほどに青い空を見あげなら、時折空に向かって笑みを浮かべる。そんな彼女をどこか不思議に思っていて、僕は声をかけるのだ。「なんで、いつも空をみているの」僕は訊く、「お空にはね、かみさまがいるんだって。かみさまにね、おねがいしているんだ」と彼女は薄笑みを浮かべながら答えた。それは実に悲しい微笑みだった。夢の記憶なんて殆どはすぐに消え失せる。だが、彼女の笑みだけは、いつも僕の記憶にクレーターのような痕を残すのだった。だがそれはいくら時が経ちその記憶が風化していったとしても、それだけは、その痛い微笑みだけは頭から離れることがなかった。幼かった僕は、彼女の言葉をただ聞き流していたんだと思う。その頃から、彼女は何かを抱えていた、ただその頃の僕には何もできなかった。でも、それは今でも同じだった。かわらない。


 各々人それぞれによって〝死〟というものはその形を変えていく。ある者にとって、その死は感情の起伏すらも起しえぬただの白波。ある者にとっては、怒りを招く導火線。そして、ある者にとってその死は生きる上での足枷に変わる。まだ、現実を知らない子どもにとって、死の影響というものは計り知れないものだった。それは、どの時代であったとしても変わりはしない。子どもにとって親の存在は果てしなく大きなものだ。親がいなければ、私たちは生まれていない。私たちは原則的には一人で生きていくことはできないのだ。私たちは、親を愛し、親は私たちを愛し、そして私たちは愛されることを知り、初めて、幸せを知る。最初は誰だって、親の愛がこの世界で初めて手にする幸せなのだ。親の愛を知り、生きていくうちに、また新たな愛が生まれていく。連鎖的に。そうなるまで私たちが頼れるものは親しかいない。親がすべてだった。しかし、その小さな心は非常に脆い。そして彼女は親の死によって、その心に大きな空洞ができた。しかし幼き彼女は失ったという事実を受け入れることが出来なかった。死者が戻ってくることはないのは誰にだって明白だ。しかし、彼女はそれを拒絶した。だから彼女にとっては、ああ願うことだけが生の拠り所だったのだ。それだけが彼女の、唯一の、願いだった。



「ねえ、何故こうも人生は残酷なのだろう」

 彼女は僕を横目に見ながらつぶやいた。ぼくたちの目前で、星々が光ながら尾を描く。暗闇の中を光が通りすぎていく様はとても幻想的だった。僕は、返す言葉に困惑した。彼女に返す言葉が見当たらなかった。どれだけ、頭をひねったとしても、どれだけ頭の中をかっぽじったとしても、多分答えを見つけることはできないだろう。

「人生は不平等なのかもしれない」

 戯言だ。どんな言葉も彼女にとっては戯言だった。

 そして、一時の暗闇が時間をとめた。時間が止まったと思うくらいにその場には音という音が無かった。その暗闇は、稀有な静けさをまとった。除夜の鐘が鳴る前の空白のように、それは静かだった。

「そうあなたはいつだって優しいんだ。あなたは嘘を言わない。そんなあなたが好きだった。でもね、もう壊れてしまったの」彼女はその顔を下ろした。

 僕は、無感情に、無感動に、ただ流れるようにうなずいた。

 風がなびいている。

「悲しくなるの。私は世界に一人取り残されてしまったんじゃないのかって、この感覚が消えてはくれないの。私の心にはぽっかりと穴が開いてしまった。その穴はもう閉じてはくれない。欠陥なの。たとえ触れ合えたとしても、やっぱり、なにも感じはしない。だめだ私はこの世界を好きにはなれない」彼女はその目を両の手で激しく押さえた。抑えた両の手の隙間からは、涙がこぼれ落ちていた。そんな彼女に僕から言えることはただ一つだった。

「僕は君の為なら、何だって力になる、それがたとえ、終末を迎えようとしても。僕は君を悲しませたくない。だからその顔をあげて」

 彼女の手を握り、最後の決断を迫った。


 

 僕は宝町中学校に通う、平凡で、普通の中学二年生である。来季からは三年生となる。中学校とは人生における転換期の一つである。必死に勉強した者は、頭の良い高校に進み、良質な教育を受けることが出来る。また中学三年間で、部活動に対して、素晴らしき成績を残したものは、運動が盛んな高校で良質な設備、大いなる雄志を持つ仲間たちとともに、血気盛んに運動にのめりこむことが可能になる。何の意識も持たず、ただ学び、ただ無意識に日を過ごし、ただ自身の身の丈に合った高校に進む。彼らは、一番危ない。何に対しても、真摯に取り組むことが出来なかった者が、いざこれからやるぞと息張ってやったとしてもその思いは長くは続かないものだ。そのときそのときを楽に過ごしたところで、時は無残にも前へ、ただ前へ過ぎていく。ああ、あのときああしとけばよかったなと過去を憂いても意味はないのだ。過去は原則的には変わらない。ただし、未来の選択は誰にだって平等に存在するものだ。その選択は自由だ。その自由な選択を、いい方向に持っていけるか否かで人生は決まる。選択は使いようである。ただ、そういったものを自覚する時期、年齢といったものはバラバラだ。早くにそれを自覚し、これはいかんと思い真面目に取り組むものが殆どかもしれない。しかし、その自覚が無いままに無為に時を過ごし続ける人間だって存在する。無自覚というのは、時にそれが助けと変わるときもある。それは、自身の身の保養である。『まだ、いいのだ』と自分を言葉で錯覚させる。私のような人間はどこにだっているだろう。果ては、人生なんて一回きりだろう、何をしたって僕の自由だと、その自由という選択肢を逆手に取り、自分を納得させるのだ。しかし、その生活は有限である。いつまで続くかなど分からない。それは明日かもしれないし、十年後かもしれない。でも終わりがあるのは絶対的に必然的だ。しかし、その流れすらもぶち壊す物質があることを知っているだろうか。終わりたいときに、簡単に終われる。それは、こういった人たちだけではない。あらゆる人間があらゆる場所で使うようになってしまった。

 時は、二千二十三年、世界は何も変わっていない。戦争なんて起きていないし、皆どの国も同じことを騒ぎ続けている。つぶれそうになっている国も、頑張ってその国を維持させている。それは日本だって同じだ。でも世界が混沌に向かっていくのを皆微かには感じていた。ある大統領が、ある有名俳優が不審な死を遂げていく。外傷は無く、みんな眠ったように死んでいく。多分あの日からだと思う。そうして今やその薬の流通が世界を変えてしまったのかもしれない。


二章

 幼いころの私はよく泣いていた。そのたびに、お婆ちゃんが私のことを慰めてくれた。お婆ちゃんは、私の心を傷つけないように、その都度私をやさしく抱きしめくれた。その頃の私も、母の別れ身を一目でも見れば、その現実を悲しきながらも受け入れていたのかもしれない。だが母は静かに消えた。帰ってこなかった。何も知らぬ私は、ただずっと待っていたのだった。

『すぐ戻ってくるから、静かに待ってるんだよ』とあたたかな口調で母が言っていたことを覚えてる。ずっと見ていた。扉が閉じるその時まで母の後ろ姿を目に焼き付けていた。しかし、それが最後の言葉だった。

 私は待っていた。しかし、一時間たっても帰ってこない。お腹がすいた私は、テーブルの上に置いてあったチョコレイトクッキーで小腹を満たした。三時間経った。何もすることが無くなった私は、テレビで教育番組を見ながらただ、粛々と時を過ごした。少し不安だった。六時間経ち、私は怖くなった。ふと頭をよぎったのかもしれない。このまま、母は帰ってこないんじゃないのかと。その瞬間、世界が私を一人にしたんじゃないかと感じた。すぐさま、私は家を飛び出し彼のもとへ駆けた。私を一人にさせるこの部屋に恐怖を感じたのだ。私はひどく青ざめた顔をしていたらしい。彼の母は、お母さんが帰ってくるまで私の家で待っていましょうと提案してくれたので、その言葉を呑み私は一時的に彼の家で待っていた。不安、焦り、恐怖が混ざった異様な感情で私はえらく傷心していたのだろう。彼の家で、母の帰りを待つ私はすぐに眠ってしまったらしい。

 カーテン越しの淡い日の光が私の頬を照らす。とても長い時間寝ていたようにも感じるし、一瞬の時が過ぎてしまっただけのようにも感じた。でも、空はそんな問いを軽く吹き飛ばした。朝だ。もう母は帰ってきている。家に母はいる。私は、ただそれだけを願った。

 彼女は、家へ向かった。今すぐにでも母に会いたかったからだ。


 しかし、そこには静寂に包まれた、酷く寂びれた1DKの一室しかなかった。カーテンは整然と閉められ、その部屋には光一つなかった。その静まった鈍色の部屋を見た途端、大粒の涙が彼女の頬を激しく伝った。その涙は流れ続けた。その枯れた叫声は、寂しさに嘆く子猫のように、彼女の咽喉から声が出なくなるそのときまで続いた。彼女の声を聞いた隣人がすぐさま、彼女に駆け付けた。泣き続け、言葉にならない声をあげる彼女を見て、隣人はすぐさま警察に連絡をした。彼女は、その際に来た警察によって引き取られたが、その時までも彼女は泣き続けた。しかし、その声は嗚咽に変わっていた。咽喉が枯れて、もう声すらも出せなかったのだろう。痛々しかった。見ていられなかった僕は、窓から目を離し、布団に頭をくぐらせ目を閉じた。それから、しばらくの間、彼女に一度きりも会うことはなかった。


 その出来事があった翌々日くらいにある町の、ある森の中、ある打ち捨てられた車の中で女性の遺体が見つかった。自殺だったらしい。遺書は見つからなかった。どうして、彼女の母が死んだのか、そのすべては闇の中だった。それから、彼女のことは殆ど知らない。唯一彼女は母方のお婆さんに引き取られたという話を母から耳にした。場所はここから遥か遠くだった。僕は会いに行くことはしかなかった。会いに行ったとしても、僕には何もできないから。彼女を慰めるために、優しい言葉をかける。そんな誰がやったとしても変わらないようなことしか僕にはできなかった。

 そうして彼女に再び出会うことになるのは、あの日から十年の月日を経た頃である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る