パープル・ジム
@Nash_Keiss
パープル・ジム
とあるワンルーム・マンションの一室にそのジムはある。
新宿から一五分の駅、徒歩五分。周囲には同じようなワンルーム・マンションが建ち並び、会社勤めの賃貸暮らしが兵隊アリのように暮らしている。近くに首都高が通っており、騒音が鳴り止むことはなく、日の光も差し込まない。
ジムに看板はない。案内板もなく、ジムの存在を示す標示はどこにもない。入居しているマンションが紫色であることからパープル・ジムと呼ばれている。築四〇年のマンションは水道管が外れ、柱がひび割れている。場当たり的な修繕が所々になされているが、荒廃のスピードに追いついてはいない。
会員たちは共同で部屋を借りており、その数は三部屋である。部屋間の壁は取り払われ、内装は引っ剥がされ、三部屋が繋がってひとつの広い空間になっている。隅には廃材が積まれ、床はコンクリートがむき出しで、水道は一箇所しか生きていない。
窓は小さく、天井は低い。床には汗が染みつき、体臭が籠もり、風通しは悪く、カビが生えている。ひしゃげたロッカーが壁際に置かれ、使い古されたグローブが積まれている。器具はベンチが三つとケーブルマシンが二つ、外周に沿って吊られた大量のサンドバッグ、そして中心の大きなリングである。
数人の屈強な男たちがサンドバッグで汗を流している。素早くステップし、拳を打ち込み、蹴りを刺し込んでいる。プロテインを飲み、BCAAを摂取して筋肉量を肥大化させている。男たちはスーツ姿である。男たちは周囲の同じようなワンルーム・マンションを賃貸し、会社勤めで兵隊アリのように暮らしている。そしてパープル・ジムに通い、来たるべき時に備えて身体を鍛えている。
一人の小柄な男がパープル・ジムに入ってくる。錆びたスチールドアを軋ませながら開き、小さな玄関を靴のまま上がってくる。男は短髪で、ブラックのスーツはダブダブだが、その裏にはガッシリと鍛えられた体躯を隠している。
小柄な男の登場に、会員たちは一斉に振り向く。打ち込みを辞め、スパーリングを止めてじっと見る。小柄な男はそれぞれを睨み返し、一人一人にガンをとばす。
「オレはある男を探しに来た」
小柄な男は宣言する。ある男の名前を叫び、挑戦を申し渡す。
「このジムにいることは分かっている。正々堂々と出てこい」
最初は誰も動かない。だがやがて、長身の男が奥のサンドバッグから姿を現す。長身の男は空色のストライプスーツを着ている。スーツは繰り返されるトレーニングによってヨレヨレになり、汗染みが濡れている。
「俺だ」
ゆっくりと歩み寄る長身の男を見て、小柄な男は満足げにニヤリと笑う。二人は距離をおいて睨み合う。
「道場破りか?」
「そうだ。てめえにファイトを申し込む」
長身の男の眉がピクリと動く。
「オレはこういう者だ」
小柄な男はニヤニヤ笑いを浮かべながら内ポケットに手を入れ、アルミニウムのケースを取り出す。開き、一枚の名刺を差し出す。長身の男は名刺を受け取り、フンと鼻を鳴らす。
「協力会社さんか」
「下請けと言ってもらいたいね」
「なにか迷惑をかけたことがあったかな?」
「今それを言う必要はないね。オレはファイトを求めている。それだけだ。受けるのか、受けないのか?」
小柄な男は憤然と言い放ち、ジャケットを脱ぎ捨てる。
「いいだろう。挑戦を受けよう」
小柄な男は嬉しそうにクックッと笑う。シャツを二の腕まで捲り上げ、ネクタイに手をかける。
「おい」
長身の男はそれを制して言う。
「パープル・ジムではネクタイを取らない。付けたままやるんだ」
「ふん」
小柄な男は鼻を鳴らす。
「いいぜ。ここの流儀でやってやる。グローブは付けるのか」
「付けない。ヘッドギアもなし。靴は脱げ」
「分かった」
二人は淡々と準備を始める。スパーリングをしていた会員がリングを譲る。他の会員たちは談笑しながら、どちらに賭けるか相談を始める。胴元が金を集め、ハッパをかける。リングは取り囲まれ、ファイトが始まる。
二人がリングに上がる。二本のネクタイがリングの上で揺れている。レフェリーはいない。これは試合ではない。規則と安全対策で縛られたお遊戯ではない。これは男と男の決闘である。
「三タップか失神で負けだ。いいな」
「ああ」
二人がファイティングポーズをとる。ゴングはない。ファイトは暗黙の呼吸により自然に開始される。
二人が睨み合う。長身の男はボクシングのような構えで顎を固め、ステップを踏んでいる。小柄な男は姿勢を低く保ち、ふらふらと頭を揺らしながら、腕を広げてレスリングめいた姿勢をとる。互いにリングを巡りながら距離を維持し、タイミングを覗う。
小柄な男が先に仕掛ける。低い姿勢のまま素早く突撃し、距離を詰めつつ襲いかかる。長身の男はそれをコンパクトなキックで迎撃する。避けられ、足を掴まれかけるが、素早く引いて難を逃れる。小柄な男は胴体にまで接近し、体当たりをかます。勢いあまり、二人はロープ間際へ倒れこむ。
「くそっ」
先制攻撃が成功したかに見えたが、長身の男はすでに体勢を立て直している。一度キックを避けたために体当たりの勢いが十分ではなかったのだ。胴体に食いついた男の襟首を掴み、引き剥がしにかかる。だが容易には引き剥がせない。二人は絡み合い、膝蹴りと肘打ちで相手を消耗させようとする。上に乗っている分小柄な男の方が優位だが、どちらも退きはしない。
もつれ合いは最終的に腕の掴み合いになり、がっぷりと四つに組んだ筋力と筋力の競り合いとなる。二人の胸筋が盛り上がり、ワイシャツがはち切れんばかりに張りつめる。上腕二頭筋が浮き出て、互いを屈服せんと全力を投入する。見物人たちは床を叩き、物を投げ、てんで勝手な野次を飛ばす。
二人は笑みをうかべている。本能のおもむくまま暴力を行使する悦びに震えている。拳に打たれ、打撲に痛む身体が原初の興奮を呼び覚ましている。
筋力は束の間釣り合っていたが、徐々に長身の男の優勢が明らかになる。小柄な男は全体重をかけて抑えつけようとするが、体勢を維持することができない。苦悶の表情を浮かべ、脂汗を垂らす。小柄な男は横向きに投げ出さる。素早く転がり、距離を取る。長身の男は立ち上がることに成功する。再び二人は睨み合い、息を切らせて相対する。
「挑戦してきた割にだらしないな。鍛えてるのか?」
「てめえこそ、ウェイトリフティングじゃねえんだぜ」
二人は挑発しあう。フェイントをかけ、距離を詰め、また広げ、地団駄を踏む。戦意と愉悦の入り混じった笑み。本能のまま相手を害そうとする睨み。ジャブの応酬が交わされ、ストレートが顔面を掠める。闘いは激しさを増す。
長身の男の右ストレートが頬に決まるのを皮切りに、ミドルキックが、ボディブローが、頭突きが、容赦のない全力で互いを襲う。血しぶきが飛び交い、拳が血に染まる。リングはヒートアップし、野次は激しくなる。汗を吸ったネクタイが左右に揺れ、ボタンの跳んだワイシャツがひらひらと舞う。互いが傷つくにつれ二人は悦び、笑い、恍惚に酔う。
「あんた、青い会社のプロジェクトにいた奴だろ」
「ようやく思いだしたか、間抜け野郎」
「窓のない部屋で半年間一緒にいた。俺の斜め後ろの席に座っていたな」
「分かってんじゃねえかっ!」
小柄な男は深い踏み込みでストレートを繰り出す。拳はまっすぐ顔面に向かうが、長身の男はステップで避ける。拳骨が額をかすめ、皮膚を切り裂いて擦過する。カウンターでボディを狙うが、片腕のガードに阻まれる。
「プロジェクトのことで恨んでるならお門違いだぜ。ウチも下請けだった。元凶はもっと上だ」
「違えよ。折角楽しんでるのに詰まらねえことを言うな」
「じゃあ何だってんだ!」
長身の男が上段から拳を振り下ろす。小柄な男は低い姿勢で突っ込む。パンチは肩にヒットし、小柄な男は苦悶の声を漏らすが、同時に太ももにかじりついている。長身の男は振り払おうとするがバランスを崩し、二人は再び床に転がり、寝技にもつれこむ。
長身の男は肘で、膝で、つま先でかじりついた男を打つ。それらは容赦なく、紛うことなき全力で打たれており、激しい打撲を、さもなければ骨折をさせたはずだが、小柄の男は離さない。
打たれている隙に小柄な男はネクタイを手探り、それを手にする。たとえ何発打たれようとネクタイを掴むというのが小柄な男の作戦である。最初にネクタイのことを言われたときから彼はその作戦を考えている。ネクタイが引き絞られ、長身の男の首が絞められる。
「んんん! くっ!」
長身の男はすんでの所で片手を滑り込ませ、首とネクタイとの間に隙間をつくる。窒息死は逃れたが、危機は脱していない。小柄な男はネクタイを引っ張ったまま、もう片方の拳で顔面を打つ。馬乗りになり、何度も何度も打つ。鼻が折れ、頬骨が砕ける。眉間が破れ、唇が裂ける。脳が揺れ、長身の男は意識を失いかける。
最期の一撃を見舞おうとしたとき、急にネクタイが手応えを失う。ネクタイが切れている。首の輪の途中で裂け、切れ端だけが手に残っている。首との間に滑り込んだ手、その親指が爪を押しあて、ネクタイを引き切っている。次の瞬間、小柄の男はねじ伏せられている。立場が逆転し、長身の男が馬乗りになって抑えこむ。
仰向けになった視界に、大きく振りかぶった拳が迫ってくる。それを最後に男は意識を失う。
夜中、首都高が静まり、終電がなくなったころ、小柄の男はリング上に寝かされている。気がつくと、血が拭われ、濡れタオルが額に置かれている。男は全身に激痛を感じ、呻く。
「よお」
長身の男が壊れたマットレスに腰掛けている。包帯とガーゼを全身に付け、満身創痍で佇んでいる。
「骨は折れてなかったぜ。お前はな」
「そいつは……残念」
小柄な男はどうにか身を起こす。身体は手当てされており、どうにか歩けそうである。
「病院に突っ込んでくれりゃよかったのに」
「聞き損ねてたんでね」
長身の男は紙巻きに火をつける。それが煙草なのかマリファナなのか、小柄な男の位置からでは分からない。
「あのプロジェクト、窓のない部屋じゃ俺はけっこう非道いことをした。労基法も基本的人権も無視して、断れないのを良いことに横暴をやった。お前らが最低賃金以下で働いてることだって分かっていた。あんなのは奴隷労働と同じだ。恨まれても仕方ない、そんな役どころを俺は演じた。それが俺の仕事だからな」
長身の男は煙を胸いっぱいに吸い、ゆっくりと吐く。
「だがあんたは怨恨じゃないと言った。じゃあ何故あんたはファイトしに来た? 教えてくれよ。やってる最中、言いかけただろ」
小柄な男は手振りで紙巻きをくれと言う。長身の男は足を引きずりながら歩いてきて、燃え差しを唇にあてがう。それを吸いこむと胸がすうっとし、痛みに恍惚としていた頭がクリアになる。
「窓のない部屋、あそこは地獄だった。現代社会の縮図、吐き気を催すクソ溜め、企業の利益関係と労働者の鬱屈を煮詰めたタールのような空間だった。そこで何ヶ月も過ごしながらオレは思ったのさ。ここに暴力を導入してやりたいと。暴力さえあればどれほど痛快だろうかとね」
小柄な男はヘッヘッと力なく笑う。
「結局、オレの妄想は妄想のままでプロジェクトは終わった。マジで暴れる勇気はオレにはなかった。ただ、その中の一人がジムにいることに気づいて、やるしかないと思った。たとえ遅きに失していて、場所も違って、全く意味のないことだとしても、暴力があんなクソを陳腐化させてくれるってことを確かめたかったんだ」
小柄な男は肩をすくめる。長身の男はクックッと笑う。何度か肯き、遠くを見て考えに耽り、また苦笑を漏らす。
長身の男はまた紙巻きを差し出し、小柄な男は喜んで吸う。二人はそれを何度も回し吸いする。新しいのを巻き、また回し吸いする。煙がリングの上でとぐろを巻く。
「またやろうぜ。お互い治ったら」
「おうよ」
「今度はお前のとこのジムに行くよ。ネクタイはいらないんだろ」
「ああ。だが名刺は持ってこい」
「名刺?」
「うちじゃファイトの前は名刺交換って決まりなんだ」
長身の男は大声で笑った。小柄な男も笑った。二人の笑い声はとても大きく、窓を越えて周囲のワンルームマンション群に響き、勤務に疲弊した何千人の企業労働者の部屋に伝わって、彼らの就寝を妨げた。
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