第4話 海辺の街
「はい、毎度ありがとうございました」
八百屋にて、手渡された紙袋の中を覗き、横山は慌てて、一番上に無造作に乗っけられていた芋を取り出し、女将に返した。
「すみません、芋は買っていません。お返しします」
すると、50歳前後の気風が良さそうな彼女は、ケラケラと笑い、構わないと言った。
「いいのよ。おまけだから。あなた、便利屋の唐澤先生のおつかいでしょ? 先生に渡してあげて頂戴」
終戦直後よりは改善したとはいえ、依然、日本の食糧事情は深刻だ。漁港が近く、市街地を離れれば農家も多いこの街とて、例外ではないだろう。
気持ちはありがたいが、はいそうですか、と貴重な食糧を譲り受けてしまうのは気が引けた。
「あれは、このご時世にも関わらず、最近肥えてきていますので、お気遣いなく。奴にやるくらいなら、この芋はもっと必要としている方に渡してあげてください」
東京にいると、痩せこけ、虚ろな目で雑踏を彷徨う戦災孤児や傷痍軍人に遭遇する。彼らこそ、この芋を最も必要としている者たちだ。
だが、八百屋の夫人は引き下がらなかった。穏やかな笑みをたたえ、芋を差し出す横山の手を両手で包んだ。
「渡してあげて。確かに先生はお腹は飢えていないかも知れないけど、優しくしたくなってしまうのよ。あ、別に先生が男前だからとか、そういうのは関係ないわよ。何だろう? 失礼かもしれないけど、健気な子供におまけしてあげたくなるのと同じような気持ちでやってるだけのことだから。黙って収めて」
「はあ、ありがとうございます。申し訳ありません」
「好きでやってることだから、気にしないで」
これで3件目だ。唐澤の使いだと分かった途端、おまけやら値引きをされるのは。
仕事こそしているが、好き勝手、悠々自適な生活をしている成人男性を特別扱いする感覚は理解できない。
横山がサービスを辞退するたび、唐澤の行きつけらしい商店の人々は、そろって、この女将と似たような趣旨の主張をした。
「繁華街の柄の悪い人達はともかく、横須賀の一般の人たちは優しいんだ。純朴で善良だ。おまけに景色も良くて、食べ物も美味しい。とても暮らしやすくて、街の外になんか出たくなくなるよ」
いつぞや、唐澤が自宅の窓から、眼下に広がる海辺の街の景色を見下ろし、そう満足そうに語っていたのを思い出す。
「そういや、先生はどうしたの? いつもは自分で買い物に来るのに。まさか具合でも悪いの?」
やはり、どぶ板からは少し離れた場所にあるこの店には、普段は自ら買い物に来ているようだ。唐澤の体調を本気で気遣っている様子の女将に、申し訳ない気分になった。
「いえ、元気ですので、ご心配なく。どぶ板のパン屋に用事があるけど、米兵に会うのが怖いらしくて……。自分はその使いです。ついでに、他の店の買い物まで押し付けられてしまいましたよ、全く」
「そう、元気ならなにより。先生、繁華街が苦手ですものね。商売の女の人に袖を引かれたりするのも、怖くて堪らないって仰ってたわ。繊細なんでしょうね」
どの口が言うのだ。
八百屋の夫人は至極真面目に言っているようだったが、これには苦笑を禁じ得なかった。
庇護欲をそそる危なっかしい便利屋にも、銀座や新宿のネオン街を、二枚目揃いの仲間を引き連れて闊歩し、数多の女を流し目一つで落としていた時代があったと話したら、彼女は卒倒してしまうだろう。
「では、そろそろ失礼します。芋、ありがとうございました」
再度礼を述べ、店を出ようとしたところ、背後から甲高い声で引き止められた。
何事かと振り返ると、八百屋の女将は頬を赤らめ、些か興奮した様子でとっておきの情報を教えてくれた。
「そういえばね、今週の頭くらいから、ずっと横須賀に映画の撮影が来ているのよ。えっと、ほら、何だっけ。上海だか香港から来たとかいうアメリカ人との混血の俳優。去年、凄く映画が流行ったじゃない。あの人がいるらしいの。今度の映画は横須賀が舞台なんですって。私は残念ながら見ていないのだけど、金物屋の奥さんがデパートの近くで、撮影をしているのを見かけたって。背が高くて、手足が長くて。顔も男前だったって。今週いっぱいこっちにいるみたいだから、あなたも見られるといいわね」
俳優の名前を思い出せないらしい彼女に、思う当たる名を告げると、そうそう、と頷かれた。
今度こそ八百屋を出発すると、横山は唐澤から借りた乗用車に戻り、エンジンをかけた。
次の目的地は、横須賀中央駅近くのデパートだ。
例の大陸からやってきた、アメリカ人との混血の黒船俳優が数日前、撮影で訪れていた場所だ。
唐澤に渡された、読みづらい地図をポケットから取り出して見下ろす。
彼が指定する目的地を全てに立ち寄ろうとすると、市内全域を隈なく回らざるを得なくなる。
今週いっぱい、横須賀ロケに来ている混血の二枚目俳優。
今週中に来て欲しいという急な呼び出しに、従えば、横須賀市内を一周することになる依頼。
そして、横山の夕飯と朝食分を加えたとしても、一人と一匹で消費するのは厳しい量の食糧の注文。
分かったぞ。奴が企んでいることが。
しかし、他愛もない陰謀を図る程度の頭は健在なのか。
便利屋として、それなりに生計を立てているのだから、当たり前と言えばその通りだが、嬉しさに、思わず口元が緩んでしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます