第3話 旧友

 応接テーブルに茶菓子を並べると、唐澤は横山の向かいのソファに腰を下ろした。

 足元には、長い毛が爆発した毛玉みたいな雌の雑種犬が寝転んでいる。

 子犬の時は、ぬいぐるみのように愛らしかったが、成長するにつれて、不気味な見た目になってしまったらしい。

 無論、美しくはない見てくれを含め、唐澤は彼女を溺愛している。


 犬に限らず、海が見える坂の上の住宅地にある一軒家は、主人の好きなものに溢れている。

 大陸風のデザインの家具があるかと思えば、至る所に日本各地の土産物が飾られ、壁にはミレーの複製画が掛けられているという統一感のない混沌とした世界観は、ある意味家主の精神状態を顕在化していると言ってよい。

 行動範囲が狭いくせに、これらのがらくたをどこから集めてくるのかは謎である。



「いつもは家まで届けて貰うのだけど、お店の車が故障しちゃったらしくて。取り置きはしておいてくれるって言うのだけど、店の場所がね……。どぶ板の真ん中でさ。前に行った時、熊みたいに大きい米兵に話しかけられて怖かったんだ。悪いけど、代わりに行って貰えないかな。あと、ついでに揃えてきて欲しいものと売ってる店の地図も書いておいたからお願い」



 予め用意していたらしいメモを手渡しながら、流麗な眉を八の字に寄せ、唐澤は依頼内容を説明した。


 どぶ板とは、戦前は旧海軍の城下町として栄え、現在は横須賀港に駐留する米兵向けに発展しつつある、横須賀随一の繁華街だ。土地柄、彼が苦手とする米兵や洋パンの姿も目につく。

 ここからは、やや距離があるが、車なら20分程で着くだろう。



「構わないが、車を借りていいか? 結構、店の場所が散らばっているし、全部買ったら荷物になりそうだから」



 米兵に話しかけられたから行きたくないというパン屋は、確かにどぶ板商店街の中心にあるが、メモには、繁華街からは離れた場所にある八百屋に肉屋、それに横須賀中央駅近くのデパートだの、5、6軒の店と買ってきて欲しいものがずらりと列記してあった。

 見たところ食料品が多いが、人一人、犬一頭の世帯にしては買いだめをするにしても、多くないか?


 故障する前の唐澤は、どんな走り書きの覚書であっても、活字印刷と見まごう程の明朝体で、一文字たりとも誤字のない見事な文書を書き上げていた。

 けれども、今、横山の手の中にあるメモはお世辞にも綺麗とは言い難い癖字である上に、時折書き損じを直した痕跡も見受けられた。


 地図も正直見づらい。

 迷わないように気をつけなければ。



「勿論。好きに使って。ねえ、今日はいつぐらいに帰るの? 遅くなるなら、夕飯はうちで食べていけばいいし、泊まっていってもいいよ」



 言いっぷりこそ、遠路はるばる呼びつけた友人を気遣っているようだったが、本音は、夕飯を食べていって欲しいし、泊まっていって欲しいのだろう。

 上目遣いに、こちらの反応を伺う端正な白皙には、不安と甘えが入り混じっていた。



「先々週? いや、その前か? とにかく、この前、久しぶりにあいつが仙台から上京して来てさ。ここに泊まったから、布団も出したままだし、気にしなくていいよ。学生の時みたいに、布団並べて敷いて寝たんだ。夜中まで話し込んじゃって、二人揃って寝坊しちゃって。あいつったら、東京で会議があるからって、大慌てで出て行ったよ」



 高等学校時代からの、一番の親友の久方振りの来訪を振り返る面持ちは、無邪気そのもので、偽りも計算もなかった。



「そうか。良かったな。明日は休みだし、俺も泊まらせて貰おうかな」



「そうだよ、泊まっていけばいいよ」



 期待通りの返答に、唐澤は目を輝かせ、声を弾ませた。


 けれど、横山の心中は複雑であった。


 壁際に置かれた棚の上から、先月来た時より1体増えたこけしの一群が、じっとこちらを見ているような気がして、視線を伏せた。


 実は、唐澤が楽しげに話した親友との一件については、既に、件の親友本人から直接聞いている。

 彼の話によれば、当初は横浜出張のついでに、横須賀まで足を伸ばし、旧友の様子を伺い、夜は横浜市内のホテルに宿泊して、翌日、永田町で開かれる会議に出席する予定でいたらしい。

 だが、便利屋宅で夕食を終え、いとましようとしたところ、『泊まっていってよ』と引き止められた。

 横浜に宿を取っているからと断ったが、キャンセル代なら払うからと食い下がられ、遂には背広の裾を掴まれ、今にも泣きだしそうな顔で懇願されてしまい、やむなく予定変更をしたという。


 夜中に話していたのも、唐澤の方で、親友は巻き添いを食らい、寝不足になった挙句、寝坊という粗相を犯してしまったというのが真実である。


 仙台に戻る前、有楽町の喫茶店で、彼は眉間に皺を寄せ、横山に想いを吐露した。



「迷惑を被ったのは別に構わない。俺は十年以上、あいつに頼りきっていたし、何度も助けられたから。面倒も沢山見てもらった。けど、弱くなり、子供みたいにわがままになり、頭が悪くなってしまった奴を見ているのが辛い。悲しくなる。どうやっても勝てなかった、俺の憧れだった唐澤はどこに行ってしまったのか、早く元に戻ってくれよと考えてしまう。憧れていたのは俺の勝手だし、今、あいつは幸せなのだから、こんなことを思う方が間違えているのにな。本人が幸せならそれでいいって済ませて良いのか、分からなくなる」



 大きなため息をつき、眼鏡の位置を神経質な仕草で直す彼に、横山はかける言葉が見つからず、無力感に苛まれた。



「どうしてあんな風になってしまったのか。貴様は、心当たりあるか?」



「さあ、分からないな、俺にも。戦争のせいじゃないか」



 適当に誤魔化したが、心当たりがない訳ではない。けど、その心当たりは迂闊に口にすべき内容ではない。特に、昔から悩みがちな彼には聞かせたくなかった。

 親友が壊れてしまったのは自分のせいだと考えられては敵わない。

 新しい夢に向かって走り始めた彼には、脇目もふれず、突っ走って欲しい。


 腕時計を見、出発時刻が迫っていると悟った眼鏡の同期は、律儀に椅子に座り直して、横山に向き直り続けた。



「横山、俺は今は仕事の関係で、地元で過ごさざるを得ない状況だ。仙台は遠い。今すぐ横須賀に来いと言われても、難しい。新宿と横須賀だって近くはないし、貴様も忙しいのは知っている。正直、こんなことを頼むのは気がひけるが、貴様とあとは成金クソ野郎くらいしか頼める奴がいない。どうか、唐澤を頼む。俺もこっちに来れる時は、出来るだけ顔を見るようにするから」



 人目も憚らず、深々と頭を下げられ、横山は黙って頷く他なかった。




「どうしたの? 心ここにあらずって顔しているよ。お腹でも痛いの?」



 心配そうな声に、はっと我に返った。



「すまん、大丈夫だ」



「そう、なら良いけど」



 いけない。話中にも関わらず、つい他のことを考えてしまっていた。慌てて居住まいを正したが、幸い唐澤はあまり気にしてはいなかったようだ。


 彼は唐突に、飄々とした口調で話題を変えた。



「そういえばさ、見てこれ。お腹って鍛えないとこうなるんだね。食糧難の時代に凄くないかい?」



 話しながら、何のてらいもなく、ぺろんと古びたセーターの裾を捲る。

 白い肌着越しでも、腹部がなだらかな膨らみを帯びているのが分かった。肥満の域にはまだまだ達していないし、30代前半という年齢を考えれば、正常範囲内であったが、ギリシャ彫刻の如き無駄を一切削ぎ落とした美麗な肉体美を誇った全盛期を知る者にとっては、その腹は十分な破壊力があった。



「……」



「お腹以外もムチムチしてきた気はしてるんだけどね。食べないで動けば痩せるのは分かっているけど、気乗りしなくて。ここ一年くらいは体重も維持できてるし、触ると女の二の腕みたいで気持ちよくてさ。このままでもいいかなって思うんだけど、まずいかな?」



 あんまりな状況に絶句していると、唐澤はさらに見やすいようにと肌着も捲った。

 白く柔らかそうな腹は成る程、もちもちしていて、触り心地が良さそうだった。

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