第2話 失墜

 約束の日の午前中、横山は宿無しの情報屋チョーさんと、代々木駅ガード下で一服していた。



「そうだ、知事。この後空いてるなら、久しぶりに飲みに行かねえか? ほら、新大久保で、お前のお仲間が始めたホルモン屋。たまにはがっつり肉が食いたい」



 横山が差し入れたたばこを美味そうに吹かしながら、情報屋は暗に追加報酬をねだってきた。彼には戦前の警察官時代から世話になっているので、たまに美味いものを食べさせるくらい、全く構わないのだが、残念ながら本日は先約がある。


 これから横須賀の便利屋の元に行くからと断ると、チョーさんは神妙な面持ちをした。



「ホルモンはいつでも構いやしねえが、どうなんだい? できすぎ君は。相変わらず、腑抜けたまんまなのか」



 情報屋と『彼』は、横山を通じて知り合い、そこそこの面識がある。客の名前をろくに覚えないチョーさんは、『彼』を『できすぎ君』と勝手に命名していた。

 何でもできて、欠点が見当たらないので『できすぎ君』と一見安易なあだ名だが、『何でもでき過ぎて気持ち悪い』という痛烈な皮肉も含まれている。



「まんまです。でも、一時に比べて塞ぎ込むのも減ったし、商売や近所づきあいは意外に上手くやってるみたいです。自分の気の向くことはできるんですよね」



 ふうっ、と老獪な情報屋は紫煙を吐き出した。



「病気じゃないんだっけ。困るよな、そういうのが。治すに治せない」



「ええ。鬱病とか精神の病気にしては、元気ですから。飯もよく食うし、睡眠もたっぷり取っている。希死念慮もない。こもり気味ではあるが、社会生活も送れていると言って良い。こんな状態だから、どんな病気の症状も当てはまらず、薬も効果がない。本人は現状に満足していて治す気がないですし、あっちに引っ越してからは、病院は行っていないようです」



 あんなことになってしまってすぐは、元華族の父親により、幾人もの精神神経科の名医の治療を受けさせられたようだが、誰も『彼』を治せなかった。

 匙を投げるというよりは、病気じゃないから、帰りなさいと追い払われることの方が圧倒的に多かったと聞く。



「元の奴を知らなければ、単なる健康な怠け者だよな」



「ええ。だからこそ、昔からの友人の俺たちだけでも、力になりたい」



「美しい友情だね。ま、その気になったら、いつでも新宿に遊びに来いよって伝えといてくれ。俺はできすぎ君ができない君になろうと、酒さえ飲めりゃ、何でもいいからさ」



 際どさが、いかにも彼らしい伝言を承り、横山はチョーさんと別れ、国鉄新宿駅に向かった。




 唐澤と出会ったのは、昭和13年4月だった。気づけば、10年来の付き合いである。


 尤も、『横山』と『唐澤』として、友人になってからは、日が浅い。長らく、お互い本名とは別の名前で呼び合い、個人的な事情には深入りせぬ、単なる職場の同期として接していた。


 生田にあった前職の訓練施設の教場で、『彼』を初めて見かけた時に受けた衝撃は、今なお色褪せない。

 磁器人形の如く整った顔立ちに、洗練された佇まい、品に溢れる振る舞い、仄かに香る色気。

 職業柄、顔が広く、何人もの2枚目俳優を間近に見たことがある横山をして、これ程までに美しい男は見たことがないと唸らせる美貌を『彼』は誇っていた。


 しかし、横山は同時に「こんな優男に苛烈極める訓練や実務が務まるのか」とも思った。


 だが、訓練生活が始まると、『彼』は己が見目麗しいだけの優男ではないことを、次々と証明していった。


 一流大学を卒業している文武両道のインテリたちの間でも、『彼』の卓越した頭脳とオリンピック選手顔負けの運動神経は頭一つ出ていた。加えて、楽器演奏も社交ダンスも油絵も、果ては金庫破りや女を口説き落とすに至るまで、何をやらせても『彼』は一位だった。

 そんなに優秀だと、普通の人間なら、いい気になって、お高く止まった嫌な奴になりそうだが、『彼』は気さくで、威張ったところが少しもなく、他人思いの優しい性格で、誰とでもすぐに打ち解けられる社交性を持ち合わせていた。


 同期の自尊心が高い天才、秀才たちも、『彼』だけには戦わずして、全面降伏をしているように見えた。

 入所当初、側には、神経質そうな眼鏡の男一人しかいなかったのに、『彼』はその才と人望で着実にシンパの数を増やし、一月も経たずして、50人近くいた同期生の中で、一大派閥の頂点に君臨していた。


 学生上がりの若者たちが、無邪気に『彼』を崇拝し、カリスマ扱いするのを、横山は一歩引いたところから見ていた。


 別に『彼』のことが嫌いだったとか、僻んでいたという訳ではない。

 中学卒業後、一介の巡査として働き始めた自分が、東京帝大法学部を首席卒業した完璧超人の天才と張り合うなんて烏滸がましい。

 輝かしい経歴も、それに見合う才気も素直にすごいと舌を巻いた。


 ただ、20代後半の社会経験を積んだ大人は、流石に特定個人を神格化するような、学生ノリにはついていけなかったのだ。


 また、人に向き合い、その心中を読み解き、懐に入り込んで本音を語らせ、真実を白昼に晒す仕事をしていただけあり、横山の切れ長の奥二重の瞳には、青臭い同期生たちの目には映らぬものが映し出されていた。


『彼』が涼やかな微笑の下に潜ませていた強かさと嘘を、捜査官の目は鋭く見抜いた。


 より直接的な表現をするなら、その強かさは、どす黒く下品で卑しい成り上がり根性のようなもので、お育ちの良い華族のお坊ちゃんが秘めているはずのない代物だった。

 また、元から優れた能力は持っているのだろうが、殊に人格面に関して言えば、『彼』が心理学的知識や洞察力、演技力を駆使し、人格者の若きエースを演じている、換言すれば嘘をついているのも、横山は早い段階から気づいていた。


 こいつは手放しで尊敬し、同調すべき人間ではないと、刑事の勘が告げていた。


 内に隠した強かさは、『彼』の完全無欠っぷりを支える土台だが、決して、盤石ではない。

 何故なら、いくら強かであっても、所詮、『彼』自体は非常に巧妙に重ねられた嘘偽りで作り上げられているからだ。

 嘘はどんなに強固であろうと、たった一つの真実の前には完敗する脆弱なものだ。

『彼』とて真実を突きつけられれば、積み上げてきた嘘は脆くも崩れ去るだろう。

 仮に土台だけ残っても、果たして再起できるのかは怪しい。相当な精神力の持ち主でも、簡単にはいくまい。


 しかし、より恐れるべき事態は、『彼』がどこまでも嘘をつき続け、誰にも見破られない場合だろう。

 誰にも真実を暴かれず、長い期間つき通せてしまった嘘程、一種の自己陶酔的な快楽を伴いつつも、着実に嘘つきを虚飾まみれの海に溺れさせ、その心を蝕み、破滅へと導く。さながら、中毒性の高い薬物の如く。


 どちらの結末になろうと、『彼』に皆で寄り掛かるのは危険だと感じていた。

 眼鏡の同期のように無批判に『彼』に従う者には、内密に注意喚起をしてきた。


 けれども意外にも、訓練施設を卒業し、実務の世界に羽ばたき、横山も『彼』も、仲間たちも激動の時代に翻弄され、様々な窮地に直面したが、どんな時も『彼』は涼しげな白皙を貫いていた。

 嘘は暴かれず、『彼』が自身の嘘に溺れ、自滅することもなかった。


 出会いから約7年半後の昭和20年秋。

 いつぞやの心配は、杞憂だったのだろうと思い始めた矢先、危惧が現実となった。

 前年の冬に、海外で左足の膝から下を失う大怪我を負っても、8月に敗戦の報せを受けても、気丈に立ち回っていた『彼』は、ある日突然、何の前触れもなく壊れてしまった。

 自分がついたある嘘に、足を取られたのだろうというのが横山の見立てだが、はっきりとは分からない。

 だが、2年半近く経った現在も、多少の変化はあったものの、回復はしていない。




「ありがとう。待っていたよ」



 玄関先の呼び鈴を鳴らすと、片足を軽く引きずりながら出てきた唐澤は、心から嬉しそうな笑顔で歓迎してくれた。

 何となく予想はついていたが、旧友の来訪を楽しみに、指折り数えて待っていたようだった。


 完璧超人の『彼』はもういない。死んだのか、眠っているだけなのかは分からないが、不在であることだけは確かだ。


 残っているのは、装飾なしの唐澤優介という人間だけだ。


 長年着込んでいた計算と偽りでできた鎧は、同化しかけていた表皮を巻き添えに消え、繊細な精神はむき出しになってしまった。

 傷つきやすい心を守るため、幼児退行を引き起こし、頭がかなり鈍くなった世話のかかる『できない君』になる道を彼は選んだのだろう。


 唐澤が着ている若草色の冴えないデザインのセーターの袖に、細かい毛玉が沢山ついているのを、発見し、横山はやりきれぬ心地になった。

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