横須賀イントゥリーグ
十五 静香
第1話 依頼
私立探偵
昼休憩を終え、机に向かって浮気調査の報告書作りに専念していると、卓上の電話機が突如けたたましいベル音を響かせた。
新たな依頼だろうかと、気を引き締めて電話を取ったが、受話器越しに聞こえたのは、聞き慣れた、妙に色気のあるテノールだった。
「次は、いつこっちに来てくれるの?」
相手は挨拶もそこそこに、本題に入った。
横山は月に一度程度、前職時代の同僚で、現在は便利屋を営む電話相手が住居兼事務所としている、横須賀の一軒家まで出向いている。
似たような商売をしている者同士の情報交換のため、というのは建前で、色んな面で危うい友人の様子見のため、というのが秘めたる本音だ。
探偵稼業と彼の便利屋はいくらかだぶる部分はあるものの、大部分の職掌範囲は重ならない。
横山探偵事務所は、浮気調査や企業の営業実態調査などを主に扱い、片手間に迷い猫の捜索なども請け負う。
対する横須賀の便利屋は、迷い猫の方がメインだ。ほかにシロアリ駆除や年寄りの話し相手、水道管の修理、農家の手伝い、子供の家庭教師なども多いと聞く。浮気調査のような『人の生々しい醜さ』を目の当たりにせねばならぬ仕事は受けない。
弱った精神に負担がかかってしまうからと本人は話していたが、横山もその判断には同意する。
他人の愛憎劇を一歩引いた場所から傍観し、万が一、巻き込まれそうになったら、あくまで他人の立場を貫き、契約分の役割を果たし、さっさと撤収するような器用な立ち回りは、現在の彼には難しい。
感情移入して振り回され、激した関係者に詰め寄られ、往生し、仕事の途中であろうが泣き出して投げ出し、寝込んでしまうだろう。
おまけに、横山探偵事務所の活動範囲は、新宿歌舞伎町を拠点とし、原則都内に限っているが、便利屋の方はさらに狭く、横須賀の自宅から半径2キロ圏内程度だ。しかも、繁華街など風紀の良くない場所や米兵ややくざ者、娼婦が多い場所は怖いと避けたがる。
だから実質的に、横山が彼と仕事の情報を交換する意義は殆ど無かった。
それでも、結構な時間と交通費を消費してでも、横須賀に通う理由は、心が壊れてしまった旧知の友人が心配であるからに他ならない。
「来週の土曜くらいにしようかと思っているのだが、何かあったのか?」
「深刻ではないのだけど、ちょっと頼みたいことがあって、今週中がいい。だめかな?」
声の調子は、いくらか甘えている風ではあったが、特に沈んでいる感じはしなかった。おっとり刀で駆けつける必要はなさそうで、ほっとする。
「今週か。少し待っててくれるか?」
「うん」
受話器を肩と顎で挟み、手帳を広げる。金曜まではびっしりと予定が詰まっていたが、土曜は朝一に、情報屋のチョーさんから依頼事項の報告を受けるだけで、何もなかった。
昼前に新宿を出れば、午後には横須賀に着くだろう。
「今週の土曜の午後なら行けるぞ。2時半か3時くらいには、そっちに着くと思う。ところで、頼みたいことってなんだ?」
「また土曜に会った時に頼むけど、ちょっと買い出しを頼みたいんだ。勿論、お金や配給切符は渡すし、お駄賃も出すから」
便利屋から買い出しを頼まれるのは、初めてではないが、わざわざ事前に電話をかけてきてまで依頼されるのは初めてだった。
今週中にどうしても手に入れたいものでも、あるのだろうか。
けれど、彼は苦手とする地域を避けつつ、日々の食料や日用品の買い物は自力で済ませているし、緊急性のあるおつかいは、確か、近所の交番に勤める若い巡査に頼んでいるはずだ。
なのに何故、はるばる新宿から横山を些か強引に呼び寄せようとするのか。
何だか妙だ。壊れてしまう前の『彼』なら、秘した思惑があるに決まっているのだが、今の彼の場合、微妙だ。
純然たる気まぐれから発せられた、わがままの可能性も否めない。
「分かった。駄賃はいいよ。その代わり、また採れたての美味い野菜を食わしてくれ。じゃあ土曜な」
怪訝に感じながらも、断る理由もないので快諾した。
「うん。よろしく。じゃあ、これから仕事だから」
無事、希望通りの約束を取り付けられて満足したらしく、便利屋は淡白に会話を切り上げ、一方的に受話器を置いてしまった。
言動に自由過ぎるきらいがあるのは、まあ仕方がない。そういうところを含め、今の彼であり、便利屋
あっさりしているのも、好調の証だ。
昔の『彼』を知る者の多くが、突如『彼』の身に起こった原因不明の異変に戸惑い、幻滅し、自然と距離を取るようになったり、人によっては喧嘩別れをしてしまったりしたが、横山は鷹揚に受け止めるよう努めていた。
うるさく干渉したり、頑張れと発破をかけたりするより、基本は好きに行動させ、さりげなく見守ってやるくらいの方が、時間こそかかるかもしれないが、結果的に回復へ繋がると考えていたからである。
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