老龍友記

橘 泉弥

老龍友記

 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

 そんな事を言ったのは誰であったろうと考えつつ、龍は人の姿で町を歩いていた。

 人間の世界へ来たのは十年振りくらいだろうか。初めて来る町なので、姿形が変わったかどうか分からない。しかし、所々に時代の波を感じていた。

 行き交う人々が手にする、のっぺりとした四角い板は何だろう。話し掛けている者までいたが、ペットだろうか。

 別段急ぐ用事も無いので、一歩一歩を確実に歩いて行く。

 すると、頭上から透き通った声がした。

「申し、そこの老龍様」

 脚を止め視線を上げると、歩道脇に植えられたけやきが枝を伸ばしていた。

「どうしたのだ」

 返事をすると、新芽を纏った欅は遠慮がちに言葉を綴った。

「はい。実は老龍様にお願いがございます」

「言ってみなさい」

「この病院の二階に居る少女と、話をしてやってくれませんか」

 少し視線を動かすと、白い建物が目に入った。これが病院らしい。

「あの子は独りで寂しがっております。どうか、話してやってくださいませ」

 欅は切実に頼み込んでくる。こうも頼りにされてしまうと、龍はどうにも弱かった。

「よかろう。わしもちょうど話し相手が欲しかった所だ」

 承知すると、欅は葉を震わせて喜んだ。

「有難うございます、有難うございます」

「何、大した事ではない」

 龍は病院の入口に足を向ける。

「あの子は二○八号室に居ます。どうかどうか、よろしくお願い致します」

 欅の声を聞きながら病院に入った。

 小窓の向こうから女声がする。

今日こんにちは。ご面会ですか?」

「ああ」

「何号室でしょう?」

「二○八だ」

「はい」

 受付の女性は紙に何かを記入し、長い輪のついた面会証を渡してきた。

「これを首に掛けてください」

 龍はそれを受け取り、青い輪に頭を通す。

「どうぞ」

 病室に行く事を許可されたので、病院の中を進んだ。階段を上がり、目的の部屋を探す。

 それは奥から三番目だった。入口の札には「入不二無有」と書かれている。

 龍は拳で軽く扉を叩くと、病室の中に入った。

 象牙色の部屋に白いベッドが一つ。少女が座っていた。

「おじさん、だあれ?」

 少女が龍を見て言った。子供らしい甲声は、龍が長い事聞いていなかった物だ。

「私は龍だ」

 龍は答えた。

「りゅー?」

 少女は小首を傾げる。しかし、目の前の人物の正体など、子どもにはどうでもいい事のようだった。

「むうね、いりふじむうだよ」

 嬉しそうな少女の笑顔は、龍の乾いた心に染み入った。

「ふむ。不二に入り無有に遊ぶか。興味深い名だな」

「?」

 少女は首を傾げる。哲学的な自分の名を知るには、まだ早い様だ。

「君、両親はどうしたのだ?」

 ベッドの傍にあった椅子に座り、龍は少女に問いかける。

「えーとね、お父さんとお母さんは、お仕事だよ」

 共働きというやつなのだろう。こんなに小さな病気の子どもを置いて、大変なものだ。いや、子どもが病気だからこそ、金が要るのか。

「仕事は何だ?」

 龍が興味本位で訊ねると、少女が答えた。

「お父さんはだいがくの先生で、お母さんは本屋さん」

「そうか」

 二人共忙しいのだろう。入院中の子どもについている暇は無いのかもしれない。

 龍は少女と会話を進める。

「寂しくはないか?」

「時計のね、短い針が五で長い針が六になると、お母さんが来てくれるの。寂しくないよ」

 強がりだろうと龍は思った。年端の行かない少女が、親も友達もおらず、孤独を感じないはずが無いのだ。

「おじさんは、お仕事なあに?」

 少女は無垢な瞳で訊いた。

「かつては天帝に仕えていたが、今は退職している」

「てんてー?」

「天界で最も偉い御方だ」

「ふーん……」

 得心していないようだったが、龍にはそれがまた愛らしかった。

 しばらく話をしていると、時計の鐘が鳴った。

「あ、短い針が五だ!」

 少女の顔がぱっと明るくなる。後三十分で母親が来る時間だ。

「では、私はこれでお暇するとしよう」

 龍は椅子から立ち上がる。

「もう行っちゃうの?」

 少女は不服そうな顔をした。

「もうすぐ母親が来るのだろう? 楽しみに待っていると良い」

「うん、分かった。おじさんばいばい」

 小さな手を振られた龍は少し戸惑い、

「うむ」

 と頷くように答えた。

 首に掛けた物を受付で返し外に出ると、西日の中先刻の欅が待っていた。

「老龍様、有難うございました。あの子はとても楽しそうでした。有難うございました」

「何、大した事ではない」

 龍が人間と言葉を交わしたのは、実に数十年振りであった。少女との会話は、確かに龍の心に温かい物を残していた。

「あのう、明日もここに来て頂けませんでしょうか」

 欅が恐るおそるという風に言う。

「あの子は昼間、誰とも話す事が出来ません。老龍様が来て下されば、悲しみも紛れると思うのです」

 龍は黙った。数十年前に定年退職しているので、別段忙しいという訳ではない。子ども達も独立し、妻と死別した龍は一人で長い一日を過ごしていた。

 ならば、老いた身体で誰かの役に立ってみるのも、悪くない。

「良かろう」

 龍は答えた。

「明日もまた、ここに来よう」

「本当ですか。有難うございます、有難うございます」

 欅があまりにも喜ぶので、龍は幹を撫でて落ち着かせた。

 翌日から、龍はその病室に通う様になった。午後の二時過ぎに病室に行き、少女と言葉を交わす。

「君、歳はいくつだ?」

 龍が訊くと、少女は嬉しそうに指を四本立てて見せた。

「むうね、四歳。おじさんは?」

「私は五千二百八十くらいだ」

「ごせん?」

「十が物凄く沢山だと思えば良い」

「すごいねー」

 龍は少女の笑顔をじっと見る。この子どもが笑うと嬉しくなる自分を感じていた。

「ねえ、おじさんどこに住んでるの?」

崑崙こんろん山の麓だ」

「知らなーい」

 少女はまたくすくす笑う。自分の分からない事ばかり言う話し相手が、面白いらしかった。

 それは龍にも有難い事で、自分でも不思議な程饒舌になり、会話が弾むのだった。

「賑やかな場所だ。山には西王母様や多くの道仙がいらっしゃる」

「楽しい?」

「ああ」

 五時を告げる鐘が鳴った。龍は椅子から立ち上がる。

「おじさんばいばい」

「うむ」

 これももう慣れたやりとりだ。龍は手を振る少女に背を向け、部屋を出る。

「老龍様、いつも有難うございます」

 欅は毎日龍に礼を言う。

「あの子は良く笑う様になりました。ここまで声が聞こえてきます。私はそれが嬉しいのです」

「そうか」

 長らく人に感謝されていなかった龍は、欅の言葉を内心喜んでいた。

 空に入道雲がそびえるようになった頃、ある日龍が病室に行くと、少女の様子がいつもと違っていた。

「あ、おじさん!」

 龍を見て笑う少女は、マスクを着けていた。透明なビニル素材が、少女の呼吸に合わせて白く曇る。

「面妖な物を装着しているな。それは何だ」

「これ? さんそますくって言うんだよ。外しちゃ駄目なんだって」

 その意味が分かっていない少女は、不思議なおもちゃを貰ったと思っているのかどこか嬉しそうだ。龍はどう話し掛けるべきか迷っていた。

「ねえおじさん、折り紙しよ」

 少女がいつもと変わらぬ明るい声で言う。

「そうだな」

 きっとこの子は自分の病状を知らない。不思議なおもちゃの意味を説明しても、幼い脳に負担を与えるだけだ。

 龍は今までと変わらず少女と遊ぶ。折り紙で蓮や鳳凰を折ると、少女はマスクを曇らせて喜んだ。

「おじさん、上手だね」

「長く生きているからな」

 二人で紙を畳んで時間を過ごす。日が橙色に染まってきた頃、病室の扉がノックされた。

 初めての事に、龍は少し驚いて手を止める。

 部屋に入って来たのは、三十歳前後の女性だった。

「無有、具合はどう?」

「お母さん!」 

 少女は極上の笑顔を見せる。母の来た事がよほど嬉しいらしい。

 一方龍は手を止めたまま、どうすべきかと考えあぐねていた。まだ五時にもなっていないのに母親が来るとは、思ってもみなかった。

「今日は」

 母親に話し掛けられたので、龍は立ち上がって頭を下げた。

「初めまして、龍と申します」

「娘からお話は伺っております。入不二です」

 相手も礼を返してくる。

「いつも無有と話をして下さっている様で、有難うございます」

「いえ、私も楽しいですから」

 大人達の話に飽きたのか、少女が口を挟む。

「お母さん、今日は早いね」

「お店が早く閉まったのよ」

 親子の会話を聞いて、龍がコートを着る。

「では、私はこれで」

「おじさんばいばい」

 少女は手を振り、母親は頭を下げた。龍は二人に見送られて部屋から出た。

「欅よ、あの母親は苦労しているのか」

 龍の方から話し掛ける。

 赤く色付いた欅は「そのようです」と頷いた。

「仕事も忙しいようですし、子どもが入院などしていたら、親は気が気ではありませんから」

「まあ、そうだな」

 龍は六番目の子どもが幼い頃病気になった事を思い出して、納得した。

 風が冷たくなるにつれ、少女の様子は目に見えて変わって行った。笑顔が少なくなり、時折辛そうに黙り込む。

「大丈夫か?」

 その度に龍は訊くのだが、少女は

「大丈夫。むう、早く元気になるんだもん」

 と笑うのだった。

 しかし、それは自分を無理に鼓舞する言葉だったのだろう。

 やがて少女は布団から起き上がらなくなった。

 それでも少女は、龍が来るのを楽しみにしていた。彼が病室に入ると嬉しそうに笑う。

「おじさん、お話しよ」

「何を話すか」

 毎日同じ椅子に座り、龍と少女は静かに言葉を交わす。

「ねえおじさん、しんだらどうなるの?」

 その日、少女は横たわったまま言った。酸素マスクが白く曇る。

 質問の意図を測りかね、龍はしばらく黙っていた。

「なぜそんな事を訊く? 早く元気になるのだろう?」

「うん。そうだけど……」

 少女が弱音を口にしたのは、これが初めてだった。その事に自分でも気づき、普段と違う感覚を覚えているのだろう。

 物悲しく不安な気持ちは、四歳児が持つには早すぎる感情だ。

「何となく、知りたいなって思ったの」

「そうか」

 龍は頭を捻って、余り詳しく覚えていない日本の制度を思い出す。

「三途の川を渡り、閻魔の元へ行く。そこで裁きを受けて、天国に行くか地獄に行くかが決まるのだ」

「そうなの」

 半分以上分かっていないだろうが、少女は真面目に聞いていた。

「ねえおじさん、しんだらお父さんとお母さんに会えなくなっちゃうって、本当?」

「そうだな」

 事実は隠す必要が無いと思い、龍は正直に答えてしまった。

「嫌だよ……」

 少女の目から涙が溢れる。それは次々と柔らかな頬を伝って落ちて行く。

「すまない。泣かせるつもりは無かったのだが」

 龍が謝っても、もう遅い。少女は声をあげて泣き出した。

 困った龍は、少女の髪を優しく撫でる。そのままじっと泣き止むのを待っていた。

 しばらくすると、少女は寝息を立て始めた。泣き疲れたのだろう。

 龍は赤い頬に伝う涙をそっと拭い、病室を後にしたのだった。

 欅が少し怒っていた。赤い葉をゆさゆさ揺らし、龍を恨めしそうに見る。

「すまなかった」

 龍は目を伏せた。

「泣かせるつもりは無かったのだ」

「分かっていますとも」

 そうは言うが、欅の口調は少々とげとげしい。

「事実ですから、仕方のない事でございます。子どもが知るには少し、残酷ですが」

「うむ。そうだったな」

 欅がじっとり睨むので、龍は逃げる様にその場を離れた。

 その足で近くの寺へ行き、姿を消して本堂に入り込む。

「如来様、いらっしゃいますか」

 本尊の薬師如来像に話し掛けると、すぐに返事があった。

「誰かと思ったら崑崙山麓の龍でしたか。何用ですか」

「はい。実は病床の子どもと話をしているのですが、死した後どうなるのかと訊ねられました」

「そうでしたか。その子の両親は生きていますか?」

「はい」

「では、賽の河原ですね」

「さいのかわら、ですか」

 聞いた事の無い名だ。

「親を残して死した幼子は、そこで石を積み続けねばなりません」

「そうですか……」

 龍は薬師如来に礼を言うと、寺を出た。この事を少女に伝えるべきかどうか迷ったが、やめておこうと思った。

 木枯らしが吹き始める頃、少女のベッドの周りに機械が増えた。

 少女はマスクと点滴を付けたまま全く起き上がらなくなり、頬も会うたびに赤みを失っていった。

「ねえおじさん、むうがしんだら、お父さんとお母さん悲しいかな」

 大きな不安を感じているのだろう。少女は弱音を吐く事が多くなった。

「ああ、悲しむ」

 愛する我が子を亡くす事がどれ程辛いか、龍はよく知っていた。

「私も昔、息子を失った。身を引き裂かれる思いだった」

「泣いた?」

「泣いたとも」

「そっか」

 少女は少し考え込む。

「むう、お父さんとお母さんが泣くの嫌だな。むうも悲しくなっちゃう」

「そうか」

 親を悲しませたくないという子どもの気持ちは分かるが、無理な話だろう。

「君が元気になれば、御両親も悲しまずに済むのだぞ」

「うん」

 返事はするものの、弱音は続く。

「しんだらひとりぼっちになっちゃうの?」

 死後の事など訊いて欲しく無かったが、龍はなるべくあどけない質問に返答するようにしていた。

「独りにはしない。例え親と離れても、私が一緒にいよう」

 龍が言うと、少女の表情が少し明るくなった。

「本当?」

「ああ。約束する」

「約束ね」

 そうして二人は指切りをした。小指に微かな温もりを感じながら、龍は必ず約束を守ろうと誓った。

 五時の鐘が鳴る。

「おじさんばいばい」

 少女は力なく手を振る。

「うむ」

 龍は相変わらずそう返すのだった。

 病院の外に出ると、少女の母親にばったり会った。

 龍が頭を下げると、相手も礼をする。

「あの、龍さん」

 母親は意を決した顔で龍に声を掛けた。

「何でしょう?」

 龍は穏やかに返す。相手の表情が、重大な事を伝えようとしてると物語っていた。

「もう、娘に会わないでください」

 母親は、龍の目を見てはっきりと言った。

「何故です?」

 龍は驚いてそう返した。

「あの子の症状が悪くなっているのは、お分かりかと思います」

「ええ」

「だからです。最近、無有は自分が死ぬ時や、死んだ後の事を話すようになりました。貴方が吹き込んだんじゃないですか?」

 母親の言葉に、龍は黙った。否定できなかったからだ。

「貴方と会うと、あの子は弱気になります。だから、もう会わないでください」

 少女の問いに詳しく答えていたのがいけなかったのだろうか。弱音などは一蹴し、励ますべきだったか。

 今考えても、もう遅い。

「……分かりました」

 承知するしかなかった。

 欅の赤い葉が散り、冬になる。龍は少女に会う事をやめ、病院の外で欅から少女の様子を聞いていた。

 欅によると、少女の様子は日に日に悪くなっているらしい。意識は朦朧とし、親の声にも反応しない。

 死が、刻々と迫っている様だった。

 少女はもう助からないのだろうか。龍は大きくなる不安を懸命に消す。大丈夫、子どもの生きる力は想像を超えるのだから、と。

 初雪が降った日、龍が病院に行くと、欅が慌てて話し掛けてきた。

「老龍様、すぐにあの子の所へ行ってやってください」

「どうしたのだ」

「早く。御両親がいますから、気を付けて」

 龍は姿を消して病室に行く。

 そこには、娘の亡骸を前にすすり泣く母親とそれに寄り添う父親、そしてその二人に寄り添う少女の魂が居た。

「あ、おじさん」

 少女の魂は、龍を見つけて笑う。

「むう、しんじゃったみたい」

「そうか……」

 元から助からないとは分かっていたが、その時が来てしまうと、改めて悲しみが押し寄せてくる。

 しかし、本人はこうなる事を覚悟していたのだろう。少女は泣かなかった。

 両親の手を握り、聞こえない声で優しく語り掛ける。

「二人共泣かないで。むうは幸せだったから。今までありがとう」

 龍が歩み寄ると、少女は両親から離れて彼の傍へ来た。

「おじさん、行こう」

「別れは済んだのか?」

「うん。むうがずっとここにいたら、二人はずっと悲しいから」

「そうか」

 龍は少女の髪を撫でる。

「私は、君に生きてほしかった」

 素直にそう伝えると、少女は少し顔を曇らせた。

「しかたないよ。病気だったから」

「……そうだな」

 これも天命なのかもしれない。一介の龍が願ったところで、変わるものでは無いのだ。

「行くか」

「うん」



 こうして龍は少女の魂を連れ、天に帰って行った。

 永い間孤独だった龍が、賽の河原で多くの小さな友を作るのは、また後の物語だ。

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