第2話 エルフがこんなに俗っぽくっていいんかい

 ぐるぐると回る視界に意識を無くしていた田中が、ようやく人心地ついて目を開けると、そこは毎度おなじみの場所であった。


 エルフ三姉妹の魔法店マジックショップである。


 見回すと、大きな木のダイニングテーブルがある。

 今回の到着地は、ダイニングルームの椅子の上であった。

 テーブルの上には田中転送の張本人、マドギワ族の小人たちが立っていた。

 田中が目を醒ますのを確認すると、恭しく拝んで五体投地し、しばらく礼拝して去って行った。

 すでに彼らにとって田中は神にも値する存在であるらしかった。

 しかし、こうやって異世界に移動できるのなら、前回必要上と言われて頭を殴りまくっていたのは何だったのだろう。


「大丈夫? ケーイチ?」

 ダイニングテーブルの向こう側には、つややかな緑色の髪の娘が立っている。

 エルフのシルフィアである。

 三姉妹の二番目で、四十八歳(人間年齢で十六歳)。大きな瞳に整った顔立ちは、そこいらのアイドル顔負けであった。もちろん、長い耳がピンと立っているのはエルフだから当たり前というべきか。


「あ……シルフィアさん。今回呼んだのはもしかして……」

「そう、私よ。ケーイチ」

 かなり深刻な顔をしている。

「何かあったのかね?」

「時間がないの。説明は後でするから、一緒に来てくれる?」

 シルフィアは田中にフードのついたマントを渡しながら言った。見ると、シルフィアもフードのついたローブを着ている。

 シルフィアに手を引かれ、田中は家を出た。まだ頭に酒が残っているので多少ふらつく。シルフィアはかなり早足で歩いているので、千鳥足を修正しながら歩くのは若干骨が折れる。


 二人はエルフの村‘静か森’の中心部にやって来た。

 先日魔王歓待の儀式が行われた広場を斜めに横切ると、数軒の家が並んでいる。どの家も木材で作られているが、部分的にはそのまま生きたままの樹を利用しているようだ。ツリーハウスというと二階部分にだけ居住部分があるものが多いが、この世界では一階から二階、はては三階まで生きた樹を大黒柱にして家を建てた物である。

 どれも屋根が大きく、童話の中に出てくる妖精の家が立ち並んでいるようであった。

 まあ、本当に妖精エルフの家ではあるのだけれども。


「ちょっと止まって!」

 シルフィアが突然立ち止まったので、田中は転びそうになった。

「ここからはフードをかぶって!」

 シルフィアは目深にフードをかぶった。田中も真似してフードをかぶったが、革靴・スーツ姿にマント、しかもすっぽりフードをかぶっている姿は異様である。異世界でなければ確実に警察官に職務質問されるだろう。


 シルフィアの視線を追うと、一軒の店があった。店の前はテラスになっていて、木の丸テーブルが並べられている。テラスではまばらに食事をとっている人々が見えた。例によってエルフやフォーン、魔族など雑多な人種たちだ。

 どうやら飲食店の様である。しかもかなり格式の高い店に見える。


「あれは、レストラン? カフェかな?」

「しっ! 静かに!」

 シルフィアは足早に一旦テラスの前を通り過ぎ、くるりと転身して店に入った。慌てて田中は後を追う。

 何やら店の奥の席を気にしながら移動している。小さな角が生えた店員に銀貨を渡し、シルフィアは何かボソボソ囁いて隣のボックス席についた。フードはかぶったままだ。

 田中もその向かいに座る。二人の席からは、店の一番奥、テラスの角で最も眺めのいい席が良く見えた。ちょうど柱があるので、向こうからは田中たちの席はうまく陰になっている。


 先ほどシルフィアが注文しておいた品を店員が運んできた。

 ティーカップが二脚。カップには甘い香りがする茶が入っていた。シナモンティーなのだが、当然のごとく田中は茶の種類など分からない。

 店員は皮のベストをつけた上半身は人間のそれだったが、半ズボンをはいた下半身には黒いヤギの足が生えていた。フォーンである。田中はぎょっとしてそれを凝視していたが、シルフィアの目はじっと奥の席に注がれていた。


 田中も奥の席をそっと見た。見覚えのある水色の髪が見える。

 後ろ姿であるが、間違いない。エルフ三姉妹の長女、ウィンディエルであった。

「あれ? ウィンディエルさん……」

 田中が言おうとすると、シルフィアが頷いて口の前に指を一本立てた。

 慌てて黙って奥の席を観察する。

 ウィンディエルの前には、金髪の男が座っていた。

 二人が食べているのはこちらの世界で言うところのフルコースらしく、それぞれの皿に料理が載っている。肉とキャベツ的なものであるが、例によって田中には何か分からない食材だ。

 相手の男は人間でいえば三十歳前後だろうか。

 耳がとがっているので、どうやらエルフらしい。しかし、やや前歯が出ているうえに、ウザったい前髪が斜めに顔にかかっていた。

 男は格好良いつもりなのか、大して長くない足を組み、深く椅子に腰かけている。


「ハイ・エルフのシンゴルさんよ」

 身を屈めたシルフィアが、小声で解説する。

「ハイ・エルフ?」

「エルフの中でも高貴な血筋で、ヒト族で言えば貴族にあたるの」

「ほう……」

 そうは見えない。


 高貴な顔立ちと言えばシルフィアやウィンディエルにはそれを感じるが、どちらかというと下っ端っぽい顔立ちだ。シルフィアの言葉が正しいとすると、良いところの馬鹿なボンボンという印象であった。

 会食中のようだが、しかし、デートと言うには、あまりにも不釣り合いすぎるカップルである。

 ……このシチュエーションは……見合い? 

 シンゴルは、女菩薩、女神、美の化身と田中が褒め称えるウィンディエルと食事をして良い相手ではない。田中は断定した。


 おのれ、シンゴルとやら、魔王に食われてしまえ。

 田中はありったけの呪いを込めながらシンゴルを注視した。

 

「ウィンディエル、いつもながら君は美しいね」

「はあ、どうもありがとうございます」


 シンゴルは頬を上気させ、不躾にもウィンディエルをじろじろと眺めている。

 ウィンディエルは背筋をまっすぐ伸ばし、固い口調で答えていた。あまり楽しそうに見えない。


「いやぁ、ウィンディエルみたいな素敵な娘と一緒に食事ができるなんて、俺は幸せ者だよ」

 前髪をはねあげるシンゴル。


「そうでしょうか」

 あくまでも棒読みで答えるウィンディエル。いつも田中に話しかける、優しく、少しおっとりした口調とは雲泥の差である。全身、頭の先からつま先まで、語尾に至るまでこの男を拒絶しているのが丸わかりだ。


 肝心の本人は全くそれに気づかず舞い上がっているようだった。

「君ほど美しい人は、この世界にいないだろうね」

「いいえ、そんなことはないと思います」

「このワイングラスに映るシルエットですら美しい……」

「そうでしょうか」


「あ、そうだ」

 シンゴルは、たった今思い出した、というように隣の椅子に置いてあった鞄の中から細長い箱を取り出した。

「これ、プレゼント」

 シンゴルはそう言ってウィンディエルの前に置いた。


 豪華な箱であった。きちんとリボンがかけてあり、箱にも細かい細工がしてあった。紙ではなく布張りの木製であるが、この世界のことであるから工業製品ではなく全てが職人の手作業である。

 箱が置かれたのは二人の皿の間ちょうど真ん中、ややウィンディエル寄りという微妙な位置である。

 ウィンディエルは箱を眺めるばかりで手をつけない。

 やっと右手を動かしたかと思うと、自分のワイングラスを取って水を飲んだ。ウィンディエルは酒を飲んでいなかった。魔王接待の時に酒を飲んでいるのを見ているので、下戸である筈はない。

 明らかにこれは示威的行動、『あなたとは一緒にお酒を飲まないわよ』というメッセージであろう。


 二人の間にしばし流れる重い沈黙。

 沈黙に負けたのはシンゴルであった。


「や、やだなあ! そんな、何か深い意味じゃないって。これはお土産、ただの、そう、土産だよ! この前、父上と一緒に、西のドワーフの坑道に行った時の物で、何か特別な意味があるわけじゃないから!(嘘)」

「そうですか(棒)」

「お土産だから、ほら、皆にあげてるし(嘘嘘)。とにかく受け取って、開けてみてよ」

 ここまで来るとシンゴルが若干哀れであった。特別な意味がないというのも、皆にあげているというのも、真っ赤な嘘であろう。


 男が女に何かをプレゼントする時、それは何か期待している時である。断言しすぎだろうか、いや、そんなことはあるまい(反語)。


 男として、シンゴルがハイテンションに誤魔化すのが少しだけ可哀想になっている田中である。もちろんそれでも、田中のアイドル、永遠の女神、憧れの君であるウィンディエルに近づく男など死んでしまえという思いが九十九パーセントであった。


「はあ、それでは」

 渋々嫌々、という感じでウィンディエルは箱を取り上げ、金糸と銀糸で編まれたリボンを適当にほどいて箱を開けた。

 シンゴルはそんなウィンディエルの手元をうっとりと眺めている。


「まあ!」

 箱の中から燦然と輝く宝石の首飾りが現れた。カフェの店内に、突然星が落ちて来たようなまばゆさである。

 喜びというよりも、単純に驚くウィンディエル。


「どうだい、ブリーシンガメン。あのフレイヤ女神がドワーフと三晩夜を供にすることで、やっと手に入れたという、伝説の逸品だよ」


 得意そうなシンゴルであった。どこがみんなに配るお土産なのだろう。さっきの言葉と完全に矛盾している。どう考えても本気度百パーセント、本命を落とすため奮発した贈り物(貢ぎ物?)に違いなかった。


「こんな高価な物はいただけません」

 ウィンディエルは一瞥してパタンと箱を閉じ、テーブルに戻した。


「や、やだなあ、そんな、特別な物じゃないって。あーそういえば、君の誕生日が近かったかな? それで誤解させたかもしれないね。はは、そんなつもりはないから。うちの財力からすれば、そんなに大したものじゃないしね」


 ウィンディエルは黙って皿の料理を口に運んでいる。

 哀れシンゴル。撃沈、轟沈であった。

 それでもへらへらしているのは、豪胆というか鈍いというか。


 やがて二人の皿が空になると、フォーンのウェイターはデザートを運んできた。普通なら食事の余韻を楽しむところであろうが、テキパキと平らげるウィンディエルである。


「お食事美味しかったです。今後とも、うちの店を御贔屓によろしくお願い致します」

 至って営業的な感謝の言葉を述べ、ウィンディエルは鞄から革袋を取り出した。

「あ、いいから! 誘ったのはこちらだし! 今日の食事は、そう、日ごろのお礼だから、俺が払うから!」

 シンゴルは慌てて金貨の山をテーブルに積み上げた。割り勘を許さない男の矜持。草食男子が増えている昨今で頑張るシンゴルであった。


「お礼だなんて、シンゴル様。いつも当店こそお世話になっておりますのに」

 頭を下げるウィンディエル。


「そんな、他人行儀な。呼び捨てでも構わないんだよ! シンゴルとか、ほら」


「御馳走様でした。ありがとうございましたシンゴル様」 

 ウィンディエルは立ち上がって一礼すると、そのまま足早に席を離れた。

 田中とシルフィアは慌ててフードの端を引っ張り、素知らぬふりで顔を隠す。そんな二人に気付く様子もなく、ウィンディエルは店の出口に一直線に歩いて行った。


「あぁっ! 待って! これ、忘れもの! 待ってくれ―!」

 テーブルの上に置き去られた首飾りの箱を持ち、足早に去るウィンディエルをシンゴルは追いかけて行った。



 二人が店を出て、完全に見えなくなったのを確認してから、シルフィアはフードを取った。

「ふう、あいつ、万一お姉さまに何かいやらしい事でもするんだったら、魔法でやっつけてやろうかと思った」


「いやらしい事?」

 中年オヤジ田中の頭にエロチックかつ卑猥な想像が渦巻く。


「例えば、結婚しないと店と取引をやめるとか、強引に店を潰すとか……」

「あ、そっちの方か」

「そっちって?」

 シルフィアがきょとんとして首を傾げた。

 純真なシルフィアは、田中のどす黒い想像など思いつくはずもないのだった。


「いやいや、まあ、あいつは一体何者なのかね?」

 誤魔化す田中。


「とりあえず、お店を出ましょう。うちに戻らなくっちゃ」

 シルフィアも席を立った。


 ***


 シルフィアは来た道を戻りながら、田中に説明した。


 シンゴルはエルフ社会の有力者の息子で、父親の商業ギルドは大きな影響力を持っている。ただし、彼らは‘静か森’よりもっと大きなエルフの‘都市’に住んでいるので、これまではほとんど接点がなかったという。


「だけど、この前の魔王様の歓迎式の時にお姉さまを見かけて、シンゴルさんが好きになっちゃったみたいなの。魔王様の食事の準備のために、お父さんのお供でたまたま来てたんだって」


「はあ……一目ぼれか。まあ、ウィンディエルさんは綺麗ですからなぁ」


 もともとシルフィア達の店には、薬草の納品のために、月に一回くらい商業ギルドから使いのゴブリンがやって来ていた。ところが、それ以降はシンゴルが直接来るようになったのだという。


「恋は盲目と言いますからねえ……」


「え? ケーイチはシンゴルの味方するの?」

 田中が何気なく言った言葉にシルフィアは強く反発した。


「いやいや、とんでもない。あいつなど、八つ裂きにされて魔王に食われてしまえと思っていますよ。ウィンディエルさんはそれでどのように?」


「お付き合いできませんって、ちゃんと断ったのよ! でも……」


 あとは田中の予想通りであった。取引先の重役の息子である。無下にも扱えないので、相手の面子をつぶさないようにやんわり断り続けているのだが、これが通じない。


「うちみたいな小さなお店、月一回で十分なのに、週に一回何の用事がなくてもやってくるのよ。お店でお客様とお話ししてたら邪魔するし、私が店に出たらお姉さまはいないのかってしつこく訊いてくるし……」


 シンゴルの事が余程嫌と見える。シルフィアは八つ当たりで道端のキノコを蹴り飛ばした。キノコは道端を歩いていた哀れなゴブリンを直撃し、卒倒させた。

 仰向けになって痙攣しているゴブリンに気を取られた田中だったが、シルフィアは一顧だにせず歩いて行く。


「それで私を呼んだんですか? あの男を追い払ってしまえと? まあ、確かにこの世界と何の縁もない私なら奴とケンカしても問題ないかもしれない……」


 ヘナチョコオヤジでしかない田中が体力的に太刀打ちできるとは思えない。

 相手は一応エルフ、弓の名手の一族である。そんなこと田中は知らないが、様々な嫌がらせが頭に浮かぶ。


「単純に夜道で殴るとか、仕事先に醜聞を流すとか、恥ずかしい写真を撮影してばらまくとか、不幸の手紙を大量に送るとか……」


 田中の黒い妄想――と言っても我々からすれば微妙にセコイ嫌がらせなのだが――にシルフィアは目を丸くした。

「とんでもない! そんなこと頼まないわよ!」


 シルフィアはあくまでも純真素直なエルフの子、良い子なのであった。

 シルフィアが一番心配しているのは、ウィンディエルが気持ちを変える事なのだという。


「だって、うちは両親がいないでしょ? お姉さまが必死に私たちを守って来たの。もしシンゴルが私たちの面倒を見てあげるから結婚しなさいって言ってきたら……」

「優しいウィンディエルさんの事、自分を押し殺して結婚を受け入れてしまうかもしれないと心配しているんですな」


 美しい姉妹愛なのだった。

  

「だって、お姉さまにはちゃんと好きな人がいるのよ!」


「なーにぃーいぃ!!」

 田中は頭に隕石が落ちて来たような衝撃を覚えた。

 ‘静か森’に田中のでかい声が響く。


「うわあ、大きな声! 引っこ抜かれたマンドラゴラみたい!」


 マンドラゴラとは御存じの読者も多いと思うが、引き抜かれると絶叫するという伝説のある植物である。絞首刑に処せられた犯罪者の精液が滴った場所に生えるというのだが、絶叫のボリュームは聞くと発狂して死ぬほどであるという。

 シルフィアは良く聞こえるエルフの長い耳を押さえている。まあ、それくらいでかい声だったというわけだ。


 田中の動きはすっかりロボットダンスのようにぎこちないものになった。

 あのウィンディエルさんに……好きな人が……

 ああ、さらば青春の日々。

 アイドルはオナラもしないしトイレにも行かない。

 ましてや恋人など、いてはならないのである。

 って、お前には妻も子もいるじゃんよ、という突っ込みはともかく、奈落の底に落ちゆく田中である。


「そ……その果報者はどこのどいつで?」

 干物になりかけの田中が、やっと絞り出した質問であった。


「実は、ヒト族なの」

 シルフィアは田中の豹変ぶりに驚きつつも、ため息交じりで答えた。


「えっ!?」

「と言っても、普通のヒト族とは少し違っているけれど……」

「ええっ!?」


 ヒト族? 違っている? それは、まさか、もしかして……


「その人は黒髪?」


「そうよ! 良く分かるわね!」  

 シルフィアの顔がぱっと明るくなった。ウィンディエルの想い人を好意的に思っている証拠である。


 奈落の底に落とされた田中の心臓がピンクの方向に激しく跳ねた。

 ずッキューン、という奴ですな。


 もしかして、それは……いや、娘さん、いけないよ。


「……勇者とか呼ばれていたりする?」


「そう! 困っている人たちを助けて、立派なの。でもね、禁じられた恋なの」

 シルフィアの顔が少し曇る。


 窓際族の勇者――すなわち私!?


 田中は今、黄金の翼をつけて天上界へと昇る気分であった。

 地獄から煉獄へ、そして天国へ。

 愛は動かす、太陽とかの星々を……って、ダンテの神曲かい。

 随分前に読んだので微妙にうろ覚えの筆者。

 翼持つ田中を天上へと誘うのはベアトリーチェ、いやウィンディエルである。

 

 ああ!ウィンディエルさん。

 そうだ、確かに禁じられた恋だ。

 私はその気持ちに素直に応えてあげられない……

 何故なら、違う世界に妻も子供もいる身。

 昭子と彩音、恒治の顔が空に浮かぶ。

 その隣に浮かぶウィンディエルのにこやかな顔がどんどん大きくなる。

 

 いや、いけない、いけないよ、娘さん。こんな男に惚れちゃ……

 でも、その気持ちも分かる。異世界からやって来た年上(?)の男。

 その魅力が耐えがたい誘惑となったのか。

 それは、単に一時のエキゾチックな魅力なんだよ。

 熱病にかかったと思って忘れなさい。

 この失恋はきっとあなたをもっと輝かせるでしょう。

 お元気で。アデュー。


 エルフの‘静か森’の中、演歌まがいの言葉を一人つぶやく怪しい中年男性。

 客観的に見ればそれが今の田中である。


「長命のエルフ族がヒト族と恋に落ちることは、これまで歴史上なかったことではないけれど、エルフ社会全体としては基本的にタブーなの」


「タブー、禁忌、社会のルール……しかし、愛は何より尊いんだ、シルフィア。最後は愛が勝つんだよ」


 ああ、言ってしまった。

 まさに恋は盲目。

 ……シルフィア。ウィンディエルと結ばれたら、この娘の事を妹と呼ぶようになるのか。

 田中の脳裏にエルフ三姉妹の家で暮らす自分の姿が浮かんだ。

 幸せいっぱい、夢いっぱいに見える。

 嫌な会社も部下もいない。

 愛する美しい妻が傍らで笑っている。

 ウィンディエルさん……

 『やあね、ケーイチ。どうして呼び捨てにして下さらないの?』 


「愛が勝つ……素敵な言葉! そうよね! やっぱり、私もお姉さまには本当に好きな人と結ばれてほしい!」


 この言葉で田中の脳がお花畑色に炸裂スパークした。

 空の彼方へと消えて行く妻と子ども達。

 これぞアデューである。


「そうか! そこまで言われたら、仕方がないなぁ! 私も向こうの家族を捨てる覚悟で……」

 

「え? どうしてケーイチが家族を捨てるの?」

 シルフィアが不思議そうな顔で田中を見ている。


「えー、それは大人の難しい事情でだね……」

 田中はゴニョゴニョと語尾を誤魔化した。


「私が今回来てもらったのは、これをお願いするため。お姉さまが、ヒト族の勇者、ロキと結ばれるように、どうか手伝ってほしいの!!」

 

「は!?」

 

 エルフの‘静か森’は今日ものどかである。

 どこかでカッコーの鳴く声がする。

 シルフィアのきらきら輝く瞳とは対照的に、石化呪文にかかったように固まる田中であった。

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