窓際の4 なんだか異世界ファンタジーものみたいになってしまった。
第1話 酒、それは異世界召還のエネルギー。まじかよ。
「ふんふふん、ふふふふふふーふーふ」
田中は鼻歌を歌いながら、両手の人差し指でエクセルの表を作っている。もちろん彼にとってブラインドタッチなど夢のまた夢である。
彼が上機嫌で仕事をしている姿は、同僚たちもめったに見られるものではないため、珍妙と言うしかない。
少し離れたところで仕事をしていたOLは、鼻歌に合わせて揺れ動く田中の後姿を見て、一言「キモッ」とつぶやくのであった。
なぜ上機嫌かというと、昨夜、出て行った妻子が帰って来たからである。
***
「お父さん、ただいまー」
「……」
玄関のドアがガチャガチャする音を聞きつけて田中が出ていくと、そこには何事もなかったかのような妻の昭子と、無言の彩音が立っていた。
「あ……ただいま」
「恒治は元気そうだったわよ。あー疲れた」
二人は長男恒治の家に行ったと言いつつ、某有名テーマパークでの休日を満喫したようだ。一目でそれと分かるビニール袋を提げていた。
彩音は何も言わず、ビニール袋からはみ出したモフモフ熊のぬいぐるみを抱きかかえ、さっさと二階の自室へ上がっていった。
「あ、おかえり……」
ここで家に帰ったら挨拶しろとか、お前の勘違いで家を出て行ったくせに、弁解の言葉はないのか、などと決して言えないところが田中の田中たる所以であろう。
二人が家を出て行ったときには今生の別れの様に落ち込んでいた田中であったが、よく考えてみたら、娘の彩音はまだ高校生なので、放っておいても日曜日の夜には帰ってきた気もする。
しかし彩音はともかく、妻の昭子の方は随分ご機嫌である。
「そうそう、ランドで偶然山田さんと会ってね」
「えっ! 山田?」
「いやー、久しぶりだったわ。向こうも家族で来ていて、一緒に昼ご飯食べたんだけど」
山田は田中の高校時代の同級生で、山田よりはるかに大きい企業に勤めていたが、左遷を前にして酒量が増えたら異世界に迷い込むようになった男である。 金曜の夜に異世界で出会い、魔王に照り焼きにされて食い殺されそうになったところを田中の超絶ファインプレー(自称)で助けてやったのである。
というか、まあ結果として助ける結果になったわけだが、興味のある読者諸氏は前の話を読んでくれたまえ。いや、頂ければ幸いです。
「やあねぇ、お父さん。私にプレゼントするために、誕生石、月長石の指輪を探してくれてたんでしょ? もう柄にもないことをするから、すっかり誤解しちゃったわよ!」
そう言うと、昭子は田中の背中をぴしゃりと叩いた。心なしか頬が赤い。照れているが機嫌が良いようだ。
「え? いや、まあ、ゲホゲホ」
田中は妻の強烈なブローの前にちょっとむせた。
「お小遣いがないから、昔の知り合いの人に頼んで譲っていただいたんですって? それで、嫌な接待も引き受けて……」
「ははは、まあ、実は」
田中には何の話だか分からない。
「サプライズなんて、全く、私は浮気と勘違いして恥ずかしいわぁ。山田さんに愚痴をぶちまけてしまったら、実はそうだって。先日お会いしたんですって?」
あ! そういうことか……
やっと田中は何がどうなったかを理解した。
今回の騒動は、最近酒量が増えて帰りが遅いことを咎められたことから始まった。とどめを刺したのはドワーフの長、ギモリンからもらった友情の指輪である。
完全に浮気と勘違いされて、それで昭子は彩音を連れて家を出たのだ。
「山田さんがあなたは決めるところは決める人だって褒めてらしたわよ」
流石できる男、山田である。
田中の脳裏に『アディオス・アミーゴ』と叫ぶ山田のバーコード頭が浮かんだ。
恩を返すって言ってたな……
昭子の愚痴から断片的に抽出した情報を再構成し、美しいストーリー(要は酔っぱらって異世界に迷い込んでいる言い訳)を作り上げてくれたのだろう。
田中は昭子の誕生日プレゼントのために帰りが遅くなっていたのだ、と。
そして、それを渡して驚かせる前に見つかってしまい、何と言えばいいかわからなくなってしまったのだ……
ちなみに月長石は6月の誕生石だ。田中はそんなこと当然知らない。
「いや、実はそうなんだ。本当はそれに合う箱を準備したくって。でも会社が終わって接待が終わってからだとなかなか……百円ショップにはしたくなかったし」
かなり無理がある筋立ての様な気もするが、妻が喜んでいるのでそのストーリーに乗っかることにした調子の良い田中である。
「お父さん! ありがとう! 気持ちだけで十分よ。それに、この指輪をしていると、何か良いことが続くみたいなのよ」
「はあ?」
「遊園地で限定ショーの抽選には当たるし、キャラクターには目茶目茶会えるし! 彩音なんか写真撮りまくったのよ!」
どうやら、月長石の指輪の恩恵らしい。異世界アイテムにしては随分ささやかではあるが、幸運を授けてくれたようだ。
あ、この話で魔法が使えるようになるとか、魔獣が召喚できるようになるとか期待しないように。大体、現実世界に魔法アイテム持ってきて使えるんですかね?
とりあえずその晩、田中は1週間ぶりに夫婦の寝室の自分のベッドで寝かしてもらえたのであった。ちなみにいつもは息子の部屋の床で寂しく寝ている。加齢臭がつくという理由でベッドは普段使わせてもらえないのである。
***
月曜に出社すると、若干景気が上向きになってきたこともあってか、古い取引先何件かとも再契約の話があった。いずれも田中が昔に作った伝手である。
そんなこんなもあって、田中は上機嫌、トップ・オブ・ザ・ワールドなのである。
人差し指タイピングの手を止め、ふと時計を見ると、定時を一時間程過ぎていた。
「今日はこれでそろそろ上がるかな? ……ぎゃっ!」
今日は飲まずに帰ろうと思った瞬間、後ろに幽鬼の様な男が立っていることに気付いた。最近異世界慣れ(?)して化け物じみた物には大概驚かなくなった田中であるが、タイミングが悪過ぎる。
「田中さん……」
田中の後輩、営業3課のホープ、橘川であった。
いつも明るいのを通り越して軽薄な男が、暗黒のオーラを放っている。
ピシッと着こなしているはずのスーツはよれよれ、髪はボサボサだ。ネクタイの結び目は完全に横に曲がっている。妻子が行ってきたテーマパークの、お化け屋敷のキャストと言っても通用しそうである。
「ちょっと一杯付き合って下さいよ……」
まさに鬼気迫るとはこのことだ。
そう言われると断ることもできず、田中は会社を出ると適当な立ち飲み屋に入った。
普段自分を小馬鹿にしているような態度ばかりとるこの男の話を、親身になってじっくり聞く気にも今一つなれない。それに、腰を落ち着けてしっとりと話を聞くという雰囲気も重すぎる。
そもそも田中は課長代理補佐という責任が微妙すぎる立場だ。彼の上司には違いないが、命令権も決定権も人事権も何もないのだ。彼に仕事上の相談を受けてもどうしていいのか分からない。
入社時に仕事の基本的なことを教えた覚えはあるが、今ではそのバイタリティで 自分よりよっぽど仕事をしている。もちろんブラインドタッチャーで、電話はスマートフォンと携帯の二台使いである。
……とは言えほったらかしにもできない雰囲気ではあった。
油に汚れた暖簾をくぐって中に入ると、カウンターの上にはずらりとつまみと酒のメニューが並んでいる。
田中と橘川はカウンターの隅に陣取った。
「いらっしゃい、何にします?」
元気よく黒いTシャツを着た若い店員が声をかける。
「生、大! トリカラ二人分!」
「……ホッピーで。つまみは枝豆」
橘川のオーダーを聞いて若さを感じる田中である。
生ビール大に鶏のから揚げ。尿酸値とか中性脂肪とか気にならないんだろうなあ。
田中は健康のことを考えてホッピーにすることにした。別に宣伝するわけではないが、ホッピーならアルコールは1%未満、プリン体もなく、ビタミンとアミノ酸も含まれている。
注文したものはすぐに出てきた。
山盛りのから揚げを口の中に放り込み、大ジョッキの生ビールで流し込む橘川。
対照的に田中はちびちびと枝豆を齧っていた。
「それで、何があったのかね?」
「うう、聞いてくださいよう」
橘川は鼻水と涙とビールと唐揚げの油にまみれながら話し始めた。
橘川が就職してから新規開拓した取引先の会社がいくつかある。
ありがちな話であるが、そのうち一つの会社の、受付の女の子と付き合っていたのだという。
「すごくいい子なんですよぉ、胸もバインバインで、髪もサラサラで、目が大きくって、初めから愛想もよかったし……」
まあ、冷静になってみると取引先の男性に対して愛想が悪いということはあり得まい。あと、いい子と言っているがルックスのことばっかり言っているのも気になるところではある。突っ込みどころ満載であるが、田中はホッピーを口にしつつ静かに話の続きを促した。
「二人のアパートを行ったり来たりして、ついにこの子と俺は結婚するって決めたんですよ!」
「おお、いい話じゃないか!」
「ここからなんですよ! 生、大! 追加!」
大ジョッキのビールをほぼ一気に空にしたので橘川の顔はすでに真っ赤である。もともとそんなに酒に強い男ではない。再び摺り切り一杯に注がれたビールを飲み、ゲップをしながら橘川は話し始めた。
「彼女もね、何となくこう、俺がプロポーズしたがってるのは分かってたと思うんです」
「ふむ」
「俺はね、でも、大事な時ですよ。今度の大きな取引の話が決まったら、その日にプロポーズしようって、ずっと決めてたんです。これが決まれば、主任ですよ。主任になって昇給して、プロポーズして結婚してマンションのローン組んで……」
「いいねえ。人生薔薇色だ」
「でしょ、でしょ? 子供は二人で、一緒に野球を……俺は、死んで最期を看取られるところまで想像したっスよ!」
橘川はそこでビールを全部空にした。
「バクダン二つ!」
「えーっ! 私の分もかね?」
バクダンとは、ウイスキーのビール割である。酒の酒割り、間違いなく悪酔いする種類の酒だ。
「何だ、文句あるのか田中!」
橘川の目はすわっていた。完全にビール大ジョッキ二杯で頭がぶっ飛んでいる。仕方がなく田中もバクダンを受け取った。
「すいません、田中さん、でも聞いてくださいよ、ここからが涙涙の物語なんスよ」
完全に田中にとっては大迷惑だ。ちなみに歌詞の著作権にはらはらしている筆者である。
この前の連休、橘川の彼女は実家に帰ると言ってしばらく連絡が取れなかったらしい。その後、徐々に電話の回数が少なくなったのを不審に感じた橘川が問いただしたところ……
「お見合いでした」
「あちゃー」
「どうもしばらく二股だったらしいんス。それで、もう別れてくれって言われました。」
「そりゃまた何で?」
反射的に出た田中の問いに、橘川は号泣し始めた。膝ががくがく震え、立ち飲みのカウンターが揺れる。
……だって、あなた結婚する気がないんでしょ。
「俺も何故、って訊いたらそう言われましたぁ……莉子――愛してるよぉ」
おんおんと橘川は泣いた。
「え、君は取引が成立したらプロポーズするって言わなかったのかい?」
「はっきりとは言いませんでしたけど、でも、そうするつもりだったって言ったら……」
……そういうのをきっかけにして欲しくないんだな。
……女の子は、言って欲しい時に言って欲しいものなのよ。
「うわーん、うわーん」
橘川は声を上げて泣き始めた。立ち飲み屋で周りが男ばかりだからいいが、静かなバーだったりしたらえらいことである。
「今まで、彼女がそういう素振りだったことはなかったのかね?」
「そりゃね、一回や二回ありましたけどね、でも俺の中のけじめは、今回の取引だったんですよ。もっとビッグになってから彼女を嫁に迎えたかったんですよ」
周りで飲んでいた男たちは静かに頷いていた。
優しい男達は橘川に同情しているのだった。
「は? うるさいわねぇ! あんたさっきから何言ってるのよ?」
真後ろの立ち飲みテーブルで飲んでいたOL風の女性が、たまりかねた様子で声をかけてきた。
歳は二〇代後半くらいか。髪をセミロングにしたなかなかの美人だが、顔が強烈に赤い。かなり呑んでいるようだ。手にはロックグラスが握られていた。透明なので、焼酎のロックと思われる。
「そんなの、男の勝手な理屈でしょうが。自分の中でこねくり回したって、相手に言わなきゃ伝わるわけないでしょうよ!」
立ち飲みで一人酒。カッコいいというか、凄いというべきか。良く言えば気風のいい姉御肌。
女性はグイッと焼酎のグラスを空にした。カラカラと氷がグラスの中で小気味よい音を立てる。
「かーっ! 大将、宝山芋麹全量ストレートで!」
「ひえーっ、奈緒ちゃん、まだやるのかい?」
立ち飲み屋の大将は、禿げ頭を拭き拭きカウンターから顔を出した。
「五月蠅い! このフニャ○ン野郎があたしの飲み魂に火をつけたんだから仕方がないでしょう!」
奈緒と呼ばれた女性は、並々と満たされた焼酎のグラスを受け取り、あぶったイカを食いちぎった。
奈緒の言葉に気圧された周りの男たちは全員目を伏せて暗くなっている。
「男としては、男のわがままとして、女の人に受け止めて欲しい気はしますがね」
打ちひしがれた橘川だけでなく、その場にいた男たち全員のために田中は言った。こう見えても窓際族の勇者である。
力なくうなずく男達。
「へっ! しょぼくれたオッサンが何言ってんだか。どうせあんたも家では妻子に邪魔者扱いされているんでしょ!」
「うっ」
図星である。
これは素面では勝てない。田中はバクダンを一気飲みして、自分も芋焼酎を注文することにした。
「赤兎馬をストレートでくださいな」
「あいよぉ」
奈緒の勢いに恐れをなしているのか、心持気弱な大将の返事が返ってきた。
「おーん、おーん、それで最悪の精神状態でプレゼンしたら、商談もパーになりましたー!」
「弱り目に祟り目だなあ」
「はっ! 仕事とプライベートを切り離せないなんて、所詮その程度の男だってことよ。精神状態を彼女に依存してたってことでしょ? あんた、一体彼女を何年待たせたの?」
奈緒さん厳しい。厳しすぎる。立ち飲み屋は吹雪の中の山小屋、それもストーブや暖炉のない山小屋の様な様相を呈し始めた。
「……三年?」
「四大卒なら二十五か。あーあ、そりゃ彼女間違いなく結婚したかったでしょうね。結婚しようの一言もなく、ほったらかしにされたわけだ。優柔不断な男と一緒にいる不安よりも、将来の安定を取ったと。そりゃそうだ」
それだけの台詞を一気にまくしたてると、奈緒はあぶったイカにマヨネーズと唐辛子をたっぷりつけて齧った。
「ぎゃわーん!」
橘川はカウンターに突っ伏して泣き始めた。
奈緒の方は「ほっほっほっほ!」と高笑いしている。
「そんなにうちの橘川をいじめてやらないでくださいよ……橘川、さあ、飲むんだ、酒は心の泪だぞ! 飲んで忘れろ!」
なんだか自分でもよく分からない言葉で田中は慰めた。
バクダンと焼酎が頭の中でぐるぐる回る。田中もかなり酔いが回り始めている。
ふと突っ伏している橘川の背中を見ると、見覚えのあるものが立っている。
三角帽子の小人たちである。
「あ!ビクビク族!」
「ケーイチ様、ビクビク族デハアリマセン、マドギワ族デス!」
「何か用かね?」
「ケーイチ様、偉大ナル勇者ニ、オ迎エニ参リマシタ」
「今? それはまずくないかい?」
「大丈夫、見ラレテモ、問題ナカッタ」
「そうかい? 本当に?」
田中は声を潜めた。
「ちょっとあんた、誰と話しているのよ?」
奈緒がグラスを片手に田中に話しかけてきた。
こんなに人が多いところで、小人たちと話している自分。
酔っていてもなおこれは怪しすぎる。
酒ではなく、違法薬物を使っているのと間違えられそうだ。
田中は酔ってふらつく体で、小人たちを自分の陰に隠した。
「あ、えーと、ちっさいおっさんかな」
「マジ!? あたし見たことなーい! 見せてよ!」
奈緒は田中が背中で隠すようにしているものを見ようとした。
一生懸命体の角度をずらし、田中は隠す。
「オッサン、マジなの? 馬鹿なこと言っちゃって! おもしろーい!」
その一生懸命さが大いに奈緒の笑いのツボを押したらしい。
奈緒はゲラゲラ笑うと右手を振り上げ、結構な勢いで田中を叩いたと思った瞬間……空振りした。
「おっとっと……」
体勢が崩れたので慌てて転ばない様にバランスを取る。
「あれ?」
田中がいない。
奈緒は立ち飲み屋の中を見回したが、カウンターで泣いている橘川と、素知らぬ顔で飲んでいる男達がいるばかりである。
田中は忽然と姿を消していた。
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