窓際の3 ザ・魔王接待
第1話 男はつらいよ
「あなた、これはどういうことなの」
田中は自宅の居間で針の
いや、時代劇の拷問でいうところの、石を抱かされている状態に近かった。
家に帰るなり床に正座させられ、妻に問い詰められている。
田中の妻、昭子はその大きな尻をソファの上に載せている。
コチコチと妙に壁掛け時計の音が大きく聞こえる。
ドアの向こうでは娘の彩音が息を潜めてこちらの気配をうかがっている。
「いやー、別に何も……」
「とぼけないでよ」
「いや、とぼけるも何も……」
「最近帰りが遅いし、スーツは妙に汚して帰るし。クリーニング代も馬鹿にならないのよ」
それはその通りだ。今日も川の中に落ちたせいでジャケットとズボンの裾はビショビショ、尻はグショグショである。この前は酒屋の路地で転んで埃まみれだった。
家に帰ってあわてて脱いだスーツは、今丸められて妻の足元、床に転がっている。
従って、居間の田中の恰好はワイシャツにネクタイ、下はパンツ一丁である。下半身が頼りないことこの上ない。
下半身に吹きすさぶ風は心の隙間風である。
「おまけに、お酒臭いし。一体こんなに遅くまで、どこで飲んでるの?誰と?」
「えー……」
うまく説明できない。エルフ族だの、ドワーフ族だの、信じてもらえるとは思えない。
「そのお金はどこから出てるの?」
「お金は先方が……」
これは嘘ではない。ギモリンのおやっさんに奢ってもらったのだから。
「はっ!まさか、女!?そう言えば、その襟もとのは!」
「えっ?」
田中は慌てて襟元を確認した。
縮れた黒い太い毛と、緑色のつやつやした髪の毛がついている。ギモリンの髭とシルフィアの髪の毛だ。
「これは男の……」
「男の人がこんな長い髪の毛なんですか?」
昭子はギモリンの髭をつまみあげて言った。
「いや、それは髭で……」
「髭?あなたの仕事の関係で、こんなに長いひげを生やしている人がいるんですか?」「じゃあ、これは?何?こっちの細いほうの毛は誰のです?」
今度はシルフィアの毛をつまみあげた。
「それはシルフィアさんの……」
「シルフィアぁ?一体誰です?」
妻の怒りのボルテージが噴火寸前に達している。
事これに及んでは、全てを打ち明けるしかない。
田中は切腹、あるいは五体倒地の気持ちで全て話すことにした。
不思議な黒猫を追いかけて気を失ったら、異世界にいたこと。
異世界で3人のエルフという人たちに会ったこと。
娘さん3人だけで亡くなった両親の後を継いで店を経営していること。
その店のトラブルを解決したら、いたく感謝されたこと。
ドワーフの坑道で、接待を受けたこと。
30分にも及ぶ田中必死の説明であった。
「どうだ、これで納得できただろう」
あまりに一生懸命過ぎて、話し終えたときには田中は肩で息をしていた。
昭子は黙って腕組みしている。
「……で、どこの店なんですか?その女がいるのは?」
「いや、だから言ったじゃないか、エルフの魔法の店なんだって」
昭子は大きなため息をついた。
「……あー、情けない。よりによってそんな作り話で誤魔化そうなんて。私はなんだか情けなくなってきたわ」
どうやら妻はキャバクラかパブか、あるいは風俗の女に自分が入れあげていると勘違いしているらしい、と田中は悟った。
美人3姉妹(自称)が経営するパブ、シルフィア……確かにどこかにありそうだ。
「いや、本当なんだって!」
「正直に言ってくれればね、お父さんも会社でしんどい思いをしているんだろうし、少しは私も考えるところですよ」
いや、こういうときの女性は正直に言ったとしても許してくれないものだ。
というか、田中の場合は本当に正直に話しているのだが。
「だから、本当なんだよ」
「はぁー、もう良いわ。情けないったらありゃしない」
昭子は立ち上がると丸められた田中のスーツを拾い上げて立ち去ろうとした。
解放される安堵感と信じてもらえなかったという失望感で、田中はすでに意識消失寸前であった。
「あ」
そのとき、スーツのポケットから何かが転がり落ちた。
転がり落ちたものは床にあたって高い音を立てる。
ギモリンの友情の証、
「あなたぁ!」
それから先の田中の記憶は曖昧で混沌としている。
断片的に「実家に帰らせていただきます」と「とりあえずしばらく、
真っ白な灰になった田中が気付くと、居間で正座したまま1時間経っていた。
ふらふらと立ちあがると、足がしびれて歩けない。床に前のめりに倒れた。
見上げると、靴下の足が顔の前にそそり立っている。
目線で脚をたどりずっと上に追っていくと、娘の彩音が自分を見下ろしていた。
「お父さん、サイテー」
田中はまさに異世界で石化魔法にかかったように凍りついたのだった。
それが昨夜の出来事である。
田中は会社の帰り道、居酒屋‘長次郎’でクダを巻いていた。
この店は昔から田中の行きつけで、今時珍しく大将が付けで飲ましてくれる。数十年にわたり接待や歓送迎会で使ってきたからである。本当は心配しなければならないのだが、今の田中に小遣いの残りを心配している心のゆとりはなかった。
「馬鹿野郎この野郎、何だって言うんだヨー」
長次郎の大将は渋い。じっと田中の愚痴を聞いていた。
「何か言ってくれよ、大将!」
「恵ちゃん、何か、つらい事があったみたいだネ」
「おーんおーん、流石大将、分かってくれる」
田中は号泣した。いや、誰でもわかるだろう。今の田中を見れば。
「男っていうのはネ、つらいもんだヨ」
70年代の喫茶店のマスターを彷彿とさせる口調で大将は呟いた。
田中の前にそっと小鉢に入った鯛酒盗と一杯のグラスが差し出された。
「十四代。これは俺の奢りだから」
大将は再び渋く口をつぐんだ。
おんおんと泣き続ける田中は対照的にボロボロである。やがてグジグジと鼻をすすり、カウンターに突っ伏していびきをかき始めた。
「田中さん……そろそろ看板……」
美人女将が田中に声をかけようとした。
「まあ、そっとしておいてやりナ」
大将の言葉に女将は頷き、ショールを田中の肩にそっとかけた。
「いろいろ有るんだヨ、男って奴ぁ」
渋い大将の言葉に、ポッと女将は赤くなった。出来てやがるな、こいつら。
さて、人畜無害認定された田中は暗くなった店の中でふと眼を覚ました。
「あ、大将!すみません!」
慌てて起きると、肩からショールが滑り落ち、床に落ちた。
ショールを拾いあげて畳み、カウンターに置こうとすると一枚のメモがあった。
『元気を出しナ 長次郎』
達筆である。
大将はどこまでも渋かった。
そこには一杯の水が入ったコップと粉の胃薬、そして店の鍵があった。
大将の字の横には女文字で「鍵はポストの中に入れておいてください」と書いてある。
「うー、大将~」
田中の目が涙で再び濡れる。
渋い。
大将渋い。
コップの水を胃薬とともに田中は飲みほした。
「あれ?」
コップをカウンターに戻すや否や、何やら変なものが見え始めた。
コップの周りを、何かがぐるぐる回って走っているのだ。
「小さいおっさんだ!」
噂には聞いていたが、初めて見た。
酔った人が見るという、伝説の存在……
おっさんはおっさんというよりも、童話で見る小人のように赤い三角帽子をかぶっている。
おっさんは二人いて、身長は爪楊枝入れより少し大きいくらいである。
随分若く見える。むしろ子供と言ってもいい。
二人はコップの周りを走るのをやめると、田中を見上げた。
視線が合う。
「やや!?」
二人は手を合わせ、一生懸命お辞儀している。
「ケーイチサマ、タスケテクダサイ、タスケテクダサイ」
おっさんは何か助けを求めている。
「もしもし、あなた方は、どなたですか?」
ずいぶん小さいので、田中は屈んで顔を近づけ、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。
二人は手招きして何か叫んでいる。
ガン。
その瞬間、田中の頭の上に何か固いものが落ちてきた。
田中の意識は再び暗い闇の中に落ちて行ったのであった。
気がつくと田中は布団を掛けられて心地よいベッドの上で寝ていた。
あれは夢だったのだろうか。
それにしても、ここはどこだろう。
壁も天井も木製で、天井の梁は剥き出しである。北欧風のメルヘンチックな、田中の家より絶対高いオール木製注文住宅。
「はっ!」
布団を跳ね飛ばし、田中は起き上った。
ここは、もしかして……
ギイ、と音がしてドアが少し開いた。
見覚えのあるピンク色の髪の子供が覗いている。
「おねー様!ケーイチが起きたよう!」
子供は元気よく叫んだ。
「ノルマルちゃん?」
またまたあの世界だ。そうすると……
ドアの向こうからバタバタとあわただしく足音がして、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ケーイチ!」
ドアを開けてウィンディエルとシルフィアが入ってきた。
「大丈夫?ビクミク族の人たちが手荒な真似をしたんじゃないかしら?」
ウィンディエルが心配そうに田中の後頭部を触った。
痛い。
自分で触ってみるとかなりの大きさのたんこぶができていた。
「なに、大丈夫ですが……ビクビク族というのは?」
「ビクビクじゃなくって、ビクミクだよ!」
ノルマルが修正した。
「このくらいの、小さな人たちに会ったでしょ。とんがり帽子の。あれが、ビクミク族よ」
シルフィアは両手で大きさを示して見せた。爪楊枝入れより少し大きいくらい。
間違いない。小さいおっさんの事である。
「あの人たちには不思議な力があって、会いたい人や物を呼び寄せることができるの。例えどんなに遠くてもね。」「普段はおとなしくって……というか、それ以外は力のない臆病な種族なんだけど」
「それでは、そのビクビク族に私は連れてこられたということですな?」
「異世界を通り抜けるとき、普通の種族は眠っていなければならないんだって」
「それで……」
田中は後頭部をさすった。
「しかし、では私はこちらに呼び出されたということですか?誰に?」
ウィンディエルはおずおずと手を挙げた。
「すみません、依頼をしたのは私です」
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