窓際の2 土下座 Adieu Rivière

第1話 異世界ロードが開かれた

営業三課の田中の机は、読んで字のごとく窓際にある。

今日も西日がじりじりとまんべんなく、こんがりと天板を焼いて暖めているのだ。

その机の前で、田中は窓の外を眺めていた。


「あれは夢だったんだろうか……」


ウィンディエル、シルフィア、ノルマルの可愛らしい三姉妹。

喋る類人猿。


あの後、メガネのレンズが割れていることにも気付いたが、それは転んだ際に壊れた可能性もなきにしもあらずである。

ただ一つ、スーツについていた髪の毛――光る水色の不思議な髪の毛。

あれは説明がつかない。

しかし、娘の彩音のコスプレグッズのなかにあんな感じのウィッグがあった気もする。


「はあ……」

ため息をついた。


「田中さん、いや、課長補佐代理、何やってんすか?」

入社5年目の橘川きっかわが声をかけてきた。橘川は長身で、少し前歯が大きいが顔立ちは整った方だろう。営業成績をバリバリあげて、OLの人気も悪くない。

「バシッと働いてくださいよ! こっちは田中さんの分まで働いているんですから」

橘川はへっへっへ、と笑った。

橘川はどうも調子が軽い。昔なら怒っていたのかもしれないが、最近はその気力もない。

もう自分が一線の企業戦士である時代は終わったのだ。

義理と人情と、コミュニケーション能力’だけ’では工場や取引先ともやっていけない。

求められるのはひたすら実績という名の数字と、仕事の処理能力である。

サラリーマンではやっていけない。ビジネスマンにならなければならない。

しかし、もう遅いのだ。

田中は調子を合わせるようにフフ、と笑った。


「あ、田中さん、オヤジ臭いっすね」

「そうかい?」

田中はシャツの臭いを嗅いでみたが、特に何の臭いもしない。

「加齢臭ですよ、加齢臭! 耳の後ろ洗いましたか?」

「耳の後ろ?」


橘川は肩透かしを食らった、というように肩をすくめて去って行った。

もう少し怒るなり泣くなり、何か田中の反応を期待していたのだろうか。


帰りの電車もラッシュですし詰めだった。

あと何回この電車で通勤するのだろう。

毎日そればかり考えている自分に気付く。

自分の周りにも疲れたオヤジたちがいっぱいだった。


「さて……」

今日も暗い家までの道をたどる。

この前酒を飲んで遅くなったばかりなので、まっすぐ帰らなければ。

どうせ早く帰ってもやることなんてないのだが。

せいぜいが発泡酒をあおって寝るだけだ。

加齢臭か。

この前娘にも臭い臭いって言われたなぁ。


車通りの少ない路地を右に曲がり、用水路にかかった橋を渡ろうとした田中は、橋の真ん中にあるものを見つけた。

光る、青と緑の目。

闇に体の色がまぎれてわからないが、間違いない。

あの黒猫だ。


「おい、お前……いや、君?」

我ながら変だと思いつつ、田中は屈んで猫に話しかけた。

「あれは、何だったんだ?」


猫は何も答えず(喋ってもびっくりするのだが)、ぷいっと後ろを向くと走り始めた。

「待ちなさい!」

言って待つとは思えないが、追いかける。

猫は橋の欄干の上にポンと飛び乗った。

右の前足で顔を洗っている。なんだか、田中を招いているしぐさにも見える。

「君……」

田中は手を伸ばす。手が黒猫に届く瞬間、黒猫の体は宙に舞った。

川の上だ。

「あっ!」

田中の体が宙に浮かぶ。

「ああ~!」

ごうごうと水の音がする。

田中は自分の体が水に落ちる音と、ずぶ濡れになる感覚を予想して目を閉じた。

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