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 月を二つ跨いで、空気の冷えた晴れの日、久しぶりに井坂と二人で顔を合わせた。自由が丘の駅前からやや外れたところにある喫茶に入る。服飾の色彩の鮮やかであることの多い井坂には珍しく淡い色のコートで、細面にいささかしおらしいところのあるのを看取して彼は内心訝しんだ。

 最初こそ当たり障りのない会話をしていたが、しばらくして話の種が尽きると二人とも押し黙った。彼が追加のコーヒーを頼んだところで、井坂が言った。

「結婚することにしたんだ」

「は?」

「だから、その」

 井坂はにわかに頬を赤らめて、冬の外気に焼けたようになった。

「結婚?」

「うん、そう。年内には入籍もしようって決めてて」

「へえ」

 結婚……井坂が?

「おめでとう。ちなみに誰と」

「同僚に紹介された人で……」

 まるで想像のできないことだった。この女は、自らが生きる上での一個の或律として、人倫上の契約を結ばないことを是としていて、だからこそのあのような生活様式をとっているのではなかったのか。それに疑問もあった。こうして対面でことを伝える必要はどこにあるのだろう?

「わざわざサシで話に来たのは、どうして」

「一応色々世話になってたから」

 井坂は手指で作った輪にもう片方の人差し指を抜き差ししてみせた。

「それで、今度からはできなくなりそう」

 沈黙。

「またどうして」

「その人が、他の男としないでほしいって。女もだけど」

「飲んだのか、その条件」

 井坂は無言で頷く。

 彼は遅まきになぜ自分が井坂の様子を見て訝しんだのか理解した。訝しむ、不審に思うというよりむしろ不快に思ったのだ。井坂はこんな処女おとめのような面をした、恋した男の要求だからといって生き方を捻じ曲げるような柔弱な女ではなかったはずだ。片や遅まきの恋の炎に焼かれる様をみて慮る気持ちがはたらきはしたのだろう。しかし彼は自身の感覚として顧慮に比して不快の割合が高いと結論付けた。そして不快の理由の何であるかも。彼は自分が、井坂との関係が断たれるということで少なからぬ衝撃を受けていることに驚いた。あくまでも井坂との関係は彼の生活上の複数ある人間との関係の一に過ぎなかったが、それでもどうやら自分は、この女をひとかたならず魅力ある人物としていたらしい。

「そんなに束縛するような命令だった、それは」

「違う!」何か恐怖にも似た色が見えた。自らの愛する者が誤解を受けることを危惧しているのだ。「べつにそんな、DVみたいなことする人じゃ全然なくて、ないけど、でも私は、できるだけ彼の願いに沿いたいと思ってるし、だから」

 果たして彼はその途中から井坂の話など右から左に聞き流していた。ただ黙考し、その中で、倫理的であれ、顧慮的な或物としてあれという彼の格率が、自らの行いを見、眉を顰めた。おまえは今他者を手段として考えてはいなかったか。否、そう考えたのだ。

 気付くまでもないことだった。ああそうだとも、大変にまずいことを今自分は思っている。しかし思うくらいは許されるはずだ。その通り、そして、そうでありながらもやはり、悪徳の変わらず悪徳であることは、自明だった。

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