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彼の勤務する会社は、どんなことがあっても必ず日曜日は休みだった。その日曜日を使って彼は読書会に参加している。本を一冊定めて、各回ごとに事前に一定のページを読んできて、当日その内容について話し合うのである。大学時代からの知り合いもいたし、社会人になってからの付き合いになる人もいた。
現在この読書会ではF.W.ニーチェ『善悪の彼岸』を扱っている。十九世紀の書物である。それでも独英日各版を並べて輪読し、半ばその思想の確認の体を呈したとしても、このラディカル極まる「三文文士」の
このドイツの思想家は人によってはひどく評判が悪い。場合によっては思想の是非云々以前に蛇蝎の如く嫌われている節がある。欧州全土を席巻するドグマの時代において死後この思想家の妹君が編纂した書物に内容上の問題があったり(そもそもこの妹御自身結婚相手のことで兄と相当揉めたという)、その問題につけこむような形で某政党が乗っかりと、本人と関係のないところでかなり印象が悪化している感は否めない。第一かのバーゼル大学教授は反ユダヤというより反カトリック、反クリスチャニティの人間であった。
彼の性格には一種どこか判官贔屓なところがあって、曲がりなりにも某政党を選んだドイツ人民や、なんなら当の某政党にさえもちょっとしたエンパシーを覚えているのだ。
会合に参加するのは決して哲学を専攻する人間ばかりではない。むしろ今回こそ哲学に関する書物を扱っているが、文学にふれることの方が多いし、各人が専攻していたのも国仏文学、メディア論、数学とひどく雑多だった。次は何某記か何某福音書を読もうなどという話もあがっている。だから今回『善悪の彼岸』を読んでいるのも研究に資するためというのではなくもっぱら楽しみのためで、「近代の進歩した人類」のドグマに浮かれている同時代人に対してとばされた一種の檄を眺めながら、彼はいかに思考したのか、彼はどのように思想を表現したか、彼が見過ごした問題系は何かを、牛のような調子でのろのろと読解しているのである。
その日の集まりが終わった後、彼が駅前のカフェで紅茶を飲んでいると、先ほどまで顔を合わせていた大学以来の知己から連絡があった。
『今まだ近くにいる?』
その女を仮に井坂という。多情で知られる女で、地方公務員として働く今現在に至るまで男漁りに女漁りを続けていた。
時刻は既にして六時を回っていた。九月が近付いていながら蒸し暑い夜だった。格安の大衆居酒屋に入ると井坂は瓶のビールを頼んだ。グラスに注いで一息に飲んでこう言う。
「麦の味がする」
串焼きの店だったから二人して好きに何本か頼んだ。井坂が話すには、曰く、今度は男をひっかけて楽しんでいるらしい。年下でまだ学生であるということだ。
「若い子は私がタチでもそこまで気にしないからいいね、『1Q84』の天悟君みたいにさ。特に年上だとなにかと乱暴だから」
「今更だけど流石に節操がなさすぎるんじゃないか」
「ああ本当に危なくならないかって? 大丈夫。そこは弁えてる」
だからこそ気心知れた知己には感謝しているんだ、と井坂はにっこり笑って言った。唇を舐める舌の蛇のようであるのが見える。
彼が初めて井坂と体を重ねたのは大学二年の春、五月の末のことだった。今でもありありと思い出せる。井坂の下宿先のアパートへの八度目の訪問の時、いつものように床に胡坐をかいて手酌で飲み明かしていると、普段より距離が近い。挙句肩を寄せてくる、手を握る。唇を触れるか触れないかの位置まで近づけた時、彼が井坂の肩に腕を回して抱き寄せた。
爾来今に至るまで肉体関係は続いている。全身で触れ合うことを好み、狩人の目をしたかと思えば犬のように頬をすり合わせ、抱きつき、布団に潜り込む。行為の後に抱きしめあって体温を交換するのが何より好きだと言う。そう語る井坂の笑顔がとても魅力的で、彼自身その交換を厭うでもないので、シーツに染みを作りながら井坂の焼けた背にキスをして、向かい合ってまどろんだ。
彼は井坂のありようを好ましく思う。
彼の住まう家は町田にあって、次の日小田原まで予定の時刻に行くには未明の内に住処へ帰らねばならなかった。タクシーに乗って帰る道のりで、自動車の走行音と、時たま通る改造バイクの騒音を聞きながら、彼はぼんやりと同じようなことを繰り返し考える。
哲学とはつまるところドグマに向かって論証の橋を架けることである。真命題は現象と無数の偽命題の隙間にわずかばかりあって、そこを目がけて皆橋を作っても大概はかつて架けたのと同じようなものになるか、偽命題の方へと落ちて行ってしまう。そして真命題と偽命題の間にも、厳密にいえば、量子の雲のような確率論的隙間が存在している。そして、このような場合、何を言えばよいのだろう?
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