エピローグ:かくて、運命の纜は解かれ
老人たちの密議から追い出されたアンジェラ・カノーヴァは、先輩警兵ジェシー・ロックウェル・クシウスに連れられ、艦内を歩き回った。
出航前にもあちこち顔を出していたが、巨大な艦のすべてを把握できていたわけではない。ありがたくジェシーの案内に甘え、いまや銀河の未来を担う艦となった〝テオフラスト〟のことを、少しでも早く知っておこうと思ったのだ。父に託された使命の重さが、少女の勤勉さを刺激した結果と言える。
そうして訪れた区画でアンジェラは、エジモンド事件の後に〝回収〟されていたというクルーたちにも会った。
「サナ・ルース・アルクヴィストだよ。こう見えて百五十越えのババアさ。とーぜん予備役だったんだが、ディミトロフの小僧に引っ張り出されてねえ……」
アンジェラの主な〝仕事場〟になるであろう
「それにしてもまた、可愛い子が乗り込んでるもんだね。お嬢ちゃん
「いえ、その……軍規を乱しますので……」
見た目だけなら〝おっとりしたお姉さん〟といった印象のサナが、いかにも己の高齢を意識したような老人らしい物言いをする。そのギャップの激しさは、アンジェラとジェシーを共に困惑させた。
警兵服の襟章が表す階級は
操舵手としての腕も、先ほどアンジェラが艦長室で体験したとおりだ。
サナが自分用にチューニングしている航法系の設定を覗き見て、ひっと息を吸いながら、ジェシーが呻く。
「ちょ……これ……仮想舵輪の反応係数、こんなに上げたら人間じゃ飛ばせなくなりますよ!」
「あたいはいつもこんなもんだよ」
ふぇ、ふぇ、と妙齢の姿に似合わぬ笑声を洩らすサナ。アッシュブロンドのお下げ髪が揺れ、これまた古めかしいリボンが跳ねる。
絶句するジェシーの前に、今度は〝テオフラスト〟の
文字と数値の羅列からなる情報を、映像でも見えているかのようにスクロールさせながら流し読むと、老女は鼻を鳴らした。
「ユーリ、あの未熟もん、いい歳してなんつう無様な操艦してんだい」
「……艦長とは、お知り合いで?」
アンジェラの問いに、サナ・アルクヴィストは一瞬、答えを迷うように見えた。
そんな自分を可笑しんでか、一息とつかぬ間に逡巡の影は消えて。孫娘の前で昔日を懐かしむ老婆めいた、歳月の遠さだけが声に残る。
「鼻たれの新兵だったミハイロヴィチ・ディミトロフに、艦やら戦闘機やらの操縦技術を叩き込んだのは、このあたいさ」
CICを離れ、ルイスを探して訪れた保安部では、アンジェラが未だかつて聞いたことのない斬新な自己紹介を耳にした。
「艦内保安部長、
どうせ隠しておけないので、最初に言っておくが……私は
平時は艦内の規律維持を担い、戦場では敵艦や地上拠点への突入・降下をも行う、白兵戦のプロたる陸戦要員たちの詰める部局。それが現代の軍艦における保安部というものであり、一般には筋骨隆々たる
その長が、荒事に向くとも思えぬ痩躯の女性――二十代後半と見えるが、例によって外見年齢は当てにならない――というだけでも驚くところ。挨拶ついでに他派閥のスパイを名乗るなどという奇行に至っては、アンジェラを情報量過多で
こほん、と咳払いをして、ここまで引率してきたジェシーがアンジェラを小突く。
「えーと、その、いちおう艦長は承知ずみのことだから……スパイというより窓口っていうか、調整役というか……」
ジェシー曰く、カノーヴァ派はCJPO内の野党第一党たるパデレフ派と密約を交わしており、当面は互いの動きを邪魔しないことで合意している。そのためのメッセンジャーが、〝テオフラスト〟においては保安部長のアリーというわけだった。
「……情報収集なら、保安部員よりオペレーターや参謀職を送ってきた方が効率的だったんじゃないでしょうか?」
止まっていた思考が再起動するや、いかにも最大の成果を得られそうな代案を、当のアリーがいる前で提示してみせるアンジェラ。そんな後輩に、ジェシーは懐疑的な苦笑を傾けた。
「この場合は、〝公認スパイ〟をねじ込めるぎりぎりのポストが保安部長だった、って考えるべきかな……あんまり情報を手に入れやすいとこに置いとくと、それはそれでお互い疑心暗鬼でギクシャクしそうだし」
「距離感の機微か。難しいんですね、派閥のあいだのことって……同じCJPOなのに」
カノーヴァ派の重要人物たらんとする自分にとっては、こうした組織内政治の分野でも、まだまだ覚えるべきことが多い。かく再認識し、弱った顔をするアンジェラの前で、アリーは長い指を滑らかに折り畳み、握り拳を掲げてみせる。
「上の思惑は知らんが、私には結局こっちが向いているんだ――他のことをやれと言われていても、どのみち無理な話だ。
その分、保安部員としては頼りになるつもりでいる。なにか揉め事があれば呼んでくれ。さっくり解決しよう」
「アリーさん……!」
細腕から実力のほどは窺えないが、それでもアンジェラは素直に、アリー・ウィンブリッジを頼もしく感じた。
同じ女性警兵だから、というのもある。複雑な立場を、初見の相手に隠さず伝える潔さに惹かれた、とも言える。だがもっとシンプルに、「艦内で何かあれば任せろ」と事もなげに請け負う姿勢が、保安部長の肩書に何より相応しいと思えた。
ハービスのような奇人や、ルイスのような問題児が乗り合わせる艦の中、安全保障面で頼れる同性の上官とは、きっと得難いものだ。静かな感激をかみ締めるアンジェラの肩に、手を置いてアリーは言う。
「保安部の仕事はシンプルだ。人間集団の中には二種類の問題しかない。暴力で解決できる問題と、できない問題――。
しかし、大抵の場合は暴力で解決できてしまうんだよ」
「えっ」
まるで同年代の少女が、とっておきの秘密でも囁くような口調で。
荒くれ男どもを束ねる陸戦部隊の
「カノーヴァ三等哨尉……暴力はいいぞ」
「あっ、はい」
――この人を、あんまり気軽に頼るのはやめよう。
膨らみかけていた幻想の泡をたった一言で割られ、アンジェラは自助努力の決意を新たにした。
暴力で解決できてしまう問題はある――しかしそれは、最悪にして最後の手段であるべきではないか?
アリーから得た情報を頼りに、アンジェラが辿り着いたのは艦内営倉。軍規に背いたクルーや捕虜の敵兵、寄港地で捕えた技術犯罪者などを収容しておくための隔離区画である。
そこで見つけたルイスは、一室だけ扉の開け放たれた独房で、誰かと話しているところだった。
「他でもないお前が、よりによってこのきな臭すぎる艦に乗ってくる……そんな〝偶然〟、俺が信じるわけないだろ。
なあデイヴィッド。俺はただ、身の周りで誰が何を企んでいるのか、正確なところを知っておきたいだけなんだ。教えてくれるよな?」
堂々と出ていけばよかったものを、漏れ聞こえた言葉の不穏さに、思わず独房の手前で足を止めるアンジェラ。そうして一度隠れてしまえば、後ろめたさもあってますます出ていきにくくなる。
結局ここまでついてきたジェシーも、面白いものを見つけたような顔で、立てた人差し指を唇に当てている。明らかに、このまま盗聴する気だ。
向こうの会話が一段落した機を見計らって話しかけよう――そのための様子見、と己に言い訳して、アンジェラは警兵服の集音ゲインを引き上げた。
「オッフフ……それはいささかパラノイアックな誤解ですぞ旦那。拙者はただ、減刑に釣られて
語尾や人称が特徴的な、銀河標準語の変形。この声の持ち主が、ルイスに〝デイヴィッド〟と呼ばれていた男だろう。
さらに追及するルイスの声。
「誰が契約を持ちかけた? ディミトロフか。それとも……」
「勘弁、勘弁でござるよ旦那ァ。誰かそこで聴いてますぞ」
足音。
アンジェラが顔を上げると同時、独房から廊下を覗き込むルイスと目が合った。
「あ……その、あなたを探してて……」
ルイスが何も言わぬうちから、その冷ややかな視線は早くもアンジェラを傷つけ始めている。
「これはこれは。盗み聞きがご趣味とは、さすが銀河貴族――口では甘いことを仰っていても、しっかりと権謀の世界に生きておられる」
「そういう言い方、やめて! ……でも、ごめんなさい。結果的に、盗み聞きする形になってしまったのは事実よ」
己に非があると思えば、相手が露骨な悪意を向けてきても素直に謝罪できる。アンジェラの小さな美点はこのとき、挑発を期したであろうルイスの慇懃な皮肉を、意図せず不完全燃焼に終わらせた。
肩透かしを食らったような顔のルイスに、ジェシーが硬い声で問う。
「そもそも、なんでわたしたちに気付けたんですかね――」
アンジェラはその意味を測りかねた。単純に、足音でも聞かれたのではないかと思っていたのだ。
しかしジェシーは、胸に手を当てて続ける。
「たった今も、わたしとアンジェラちゃんのことは認識阻害フィルタで隠してます。こっちが許可した相手以外、補助脳で艦内LANに繋がってる人からは、影さえ見えないはずなんですよ。
ルービンシュタイン衛曹長……あなたも含めてね」
「――えっ?」
驚愕するアンジェラを、ルイスはすでに見ていない。胡乱げな目をジェシーに向け、質問に答えることなく、逆に問う。
「あんたは? 誰だっけ?」
「ジェシー・ロックウェル・クシウス二等哨尉。
CJPOの複雑な階級制度を熟知したスマートな牽制に、アンジェラはただ感心していたが、相手はもとより将官のミハイロヴィチにさえ畏まることのない男である。
緊張に息ひとつ乱すでもなく、ルイスは独房の中の人物に水を向ける。
「……だ、そうだが。二等哨尉どのが仕掛けた
「ンンー、いや大変すばらしい構築でしたぞ? 最小の演算リソースで効果的に、人間の認知機能を騙しおおせてござる。
しかし他人の位置情報を取得するノード
怪音混じりにまくし立てながら、独房からぬっと姿を現すのは、ミラーシェードで目許を隠した肥満体の男。
特大サイズの警兵服を身に纏い、手首には厚く角ばった電子手錠を嵌められている。ルイスと同じグラディアトールだ。戦功という〝社会貢献〟で減刑を買うべく、司法取引によって臨時の警兵となった犯罪者――。
その巨漢が、アンジェラの顔を見るや口を半開きにし、震え出した。
「ご、ごと……ご、ご……」
「ご? ……あの、あなたは」
「ごっごごっごっ、合法ロリぃぃぃンナァァァウッ! 拙者の前に矮星族の
「なにこのひとこわい」
突如、激しく身をよじりながら何ごとか叫び始める男。その狂態にアンジェラとジェシーが言い知れぬ恐怖を感じ、後ずさるのも無理はない。
「あっどうも合法エンジェルたん、自己紹介が遅れましたなオフッこれはしたり……拙者デイヴィッド・オライリー・タッカーと申す者。階級は卑しい
熱い息とともに少女へにじり寄るデイヴィッドの巨体を、おもむろにルイスの撃ち込んだ膝が沈めた。
「何してるの、仲間にいきなり暴力なんて!」
反射的に叫んだアンジェラを、ルイスはもはや一瞥もしない。
「誰が仲間だ。同じ艦に乗って同じ境遇でグラディアトールやってりゃ、仲良しのお友達だろうとでも?
お前もお前だデイヴィッド。銀河貴族相手にサカってんじゃないぞペド野郎。
「こ……これは我々〈
「……ちょっと待った、いま何て言いました? ――〈御宅〉?」
蹴られた腹を押さえて這いつくばるデイヴィッドに、ジェシーの向ける視線が変わった。
「この変態グラディアトールが、あのヤマト
ジェシーの言いようは酷いものだったが、信じがたいという思いはアンジェラも共有していた。
連邦を構成する支分国の中で、最も謎めいた星間国家のひとつがヤマト
概要すら開示されない高位禁制技術をいくつも抱え、五つの戦士階級が異能の力で国を守っているという。閉鎖的な国柄ゆえ実態を知る者は少なく、連邦市民の多くはそのような超戦士たちの存在を信じていない。時にはヤマトそのものが、伝説上の架空国家に過ぎぬとさえ言われる。
そして、五大戦士階級の一翼を担うとされるのが、〈
基底現実にあっては都市の狭間に庵を開き、俗世との交わりを断って孤独に暮らすテクノ隠者階級。仮想現実においては
アンジェラの目の前で無様に倒れ伏すデイヴィッド・タッカーの姿は、そうした伝説上の異能者とは似ても似つかない。
しかしルイスは、ジェシーに輪をかけて無慈悲な物言いで、デイヴィッドの肩書きを肯定する。
「夢を壊して申し訳ないがね。この超人的に気持ち悪い生き物が、ヤマト五大戦士階級の一角だったことは、残念ながら事実だ。あんたのステルスもあっさり見破ってみせただろ」
「せっかく言葉を選んだ部分に、わざわざ直球のコメントかぶせてくれてどうもありがとうございますねえ!」
捨て鉢に叫ぶジェシー。どうやらルイスとの相性はあまりよくない――と己のことは棚に上げ、アンジェラは自分が前に出ることを決断する。
「とりあえず! ……タッカーさんの素性については――」
「グッフォ! 拙者のことは〝デイヴィッド〟と、ぜひファーストネームでお呼びいただきたいでござるよ、
「えっ? ――あっ、はい、じゃあデイヴィッドさんの素性については、とりあえず後で、いろいろ落ち着いてからでもよくて。
ここへ来た本題は、そう……あなたのやったことと言ったことについてよ、ルイス」
脈絡不明瞭なデイヴィッドからの横槍にペースを乱されつつ、アンジェラは軌道修正を図る。ここへ来た目的は、まだ一つも果たせていない。
ルイスに向き直り、咳ばらい一つ、呼吸を整える。
「エジモンドさんを司法の手に委ねなかったこと、あなたなりの考えがあったことは……私もあのあと考えてみて、いちおう分かった」
死を救いと称する考え方に、アンジェラはやはり欠片も賛同できない。命こそ純然無条件に尊いものと信じるは、いわば人間の前提である。この世すべての善なるものの礎石である。
しかし一方で、エジモンドに真っ当な〝法の裁き〟を受けさせることも困難だったであろう、というのは解る。〝ハロルド禍〟の最後の生き証人をどう処すか、そこにドレクスラーが介入してこなかったはずはない。
死んだほうがまし。一理はある。
情がそれを受け容れられないとしても。
「……でも、やっぱりそれは警兵として間違ってる。
私たちは連邦法に基づいて、人権ある市民の延長線上に犯罪者を取り扱うべきであって、個人的な感情や価値観でその生死を決めてしまうべきじゃないのよ」
「そんなことを蒸し返すために、わざわざ営倉まで探しに来たのか? ご苦労なこった」
薄く笑うルイス。予想通りの反応に、アンジェラは怒りよりも空しさを覚える。
「俺の答えは変わらないよ。何をすべきか、すべきでないかは自分で決める。お前に認めてもらう必要はないし、立場に縛られて法を絶対化するつもりもない。
……それで? 用は済んだか? なら帰ってくれ。俺はまだ、デイヴィッドと話がある」
「待って、もう一つ――」
打てど響かずに終わったものの、少なくとも伝えるべきことは伝えた。意思表明は実行すること自体が大事なのだと、己の心に強いて一区切りをつけ、今度は訊くべきことを訊く。
「あなたが……〝本家〟の歴史について、知っていたのはなぜ? あれは関係者しか知らないはずの秘密よ」
「言うわけないだろう。馬鹿かお前は」
数瞬、アンジェラの思考は白い停滞の中へ投げ出される。
自分の前でカノーヴァ本家の話を出したのは、そもそもこの男の方ではないか。思わせぶりなことを言っておいて、肝心なところを教え渋るのか――などと憤慨する前に、ルイスの言葉が続く。
「警兵が効率よく
警兵が法に触れる類の情報提供者と付き合いを持つこと自体、本来は問題である。そうした正論を、しかしアンジェラは口にできなかった。
父の愚痴を、聞いた覚えがある――そもそも警兵が
競争的能力主義。手に入れた捜査情報は広く共有すべしと軍律が定めていても、一人で隠し用いた方が早く出世できるとあらば、人は容易く利己に走る。グラディアトールも同じこと。優良な情報源を独占すれば、それだけ効率よく戦功を挙げることができる。それだけ手早く刑期を短縮し、自由を買い戻すことができる。
思えばルイスは、本家のことについて「あとで詳しく話す」などとはひとことも言っていない。訊けば答えてくれるものと決めつけていたのは、こちらの勝手な思い込みだ。
そんな無意識の傲慢をまた棚に上げて、警兵としての素行不良を咎めるのは、いかにも恥知らずな問題のすり替えと思えた。第一、ルイスには〝教えられない理由〟を教える義理もなかったのだ。
相変わらず口は悪いが、対話そのものを拒絶しているわけではない。ルイス・ルービンシュタインに対する理解がほんの少し進んだことで、アンジェラは胸中の小さな諦めを、前向きに受け止める気になった。
相互理解は一朝一夕にして成らず。
今日の成果は、この小さな一歩で良しとしよう――そんな落としどころを得て、少女は長い息をひとつ吐き、頷く。
「……わかった。話す気になったら、教えて」
また嫌味の一つも返ってくるかと思ったが、ルイスは何も言わなかった。話の内容が分かっていないであろうデイヴィッドも、先頃までの騒がしさが冗談だったかのように、口を閉じている。
「行きましょう、ジェシー先輩。ここでの用事は済みました」
「いいの? まともな返事、こいつから一言も聞けてない気がするけど」
当人の目の前で、憚りもなくルイスを指さすジェシー。悪感情を隠せない彼女の指先を、アンジェラは小さな掌でくるみ、硬く見えぬよう努めた微笑みを浮かべる。
「いいんです。それに、ほら……いろいろ考えたいこともありますから。今後の任務についてとか」
カノーヴァ派による〝合法的クーデター〟の、途方もない大計画を聞かされたばかりなのはジェシーも同じ。仄めかしてそちらへ意識を向ければ、聡い先輩警兵も瞳に理解の色を示し、頷いてくれる。
去り際に少女は一礼し、決意表明のように告げた。
「それじゃあ、ルイスに、デイヴィッドさん……改めて、アンジェラ・カノーヴァです。同じ艦のクルーとして、これからよろしくね」
姉妹のような少女二人が去ったあと、デイヴィッド・O・タッカーがぽつりと呟く。
「……話の流れが読めぬゆえ、いちおう黙っていたでござるが……あのまま
〈
「ついでに〝
言えばアンジェラはどんな顔をしたか。想像し、ルイスはひそかに笑った。
「口外無用と言っておけば、あいつが積極的に吹聴することはないだろうが……一緒にいたクシウスって二等哨尉の方はわからん。うっかり漏らしたり、拷問されてゲロする可能性もある。
なんにせよ、せっかく死んだことになってるんだ。本家にお前の生存を気取られるリスクを、わざわざ増やすことはないだろ」
「デュフフ! 死人への気遣い、まっこと痛み入りますな――またぞろ〈
「そう思うなら、この艦を取り巻くろくでもない陰謀臭さについても、少しは情報をサービスしてほしいもんだがね」
艦長室の方角を見やりながら、ルイスが言う。デイヴィッドは大袈裟に首をひねり、追従めいた卑屈な笑みを作った。
「ムム、さりげなく恩を売るとは巧いやり口ですぞ。とはいえ本当のところ、〝テオフラスト〟に何が隠されているのか、拙者もまだ解っていない部分が多いのでござるよ。
旦那が乗る〝ノーバディ〟に仕込まれた
「なら、今日からそいつを探ってくれ。報酬はいつもの通り、成果に応じて
グラディアトールの戦績評価に応じた減刑は、自動的に行われるわけではない。CJPO内部の酒保などで利用可能なポイントとして払い出され、刑期はそのポイントを消費する形で、受刑者の任意に減却される。
それは戦果のインセンティブを多様化し、犯罪者という人的資源をより長く、より勤勉に働かせるための方途であったが――同時に一つの副産物をも生み出した。グラディアトールの間でモノや情報を取引するときも、この〝
規則上は禁じられているものの、こうした組織内の地下経済が積極的に取り締まられたことはない。規制どころか、CJPO高官がこのシステムを利用し、グラディアトールの一群を私兵集団も同然に組織していた部隊すらある。
不正と腐敗の温床。だがその恩恵あればこそ、囚人であるデイヴィッドは情報屋稼業を続けていられるし、ルイスも稼いだ戦功で彼から貴重な情報を買うことができるのだった。
「オウフ、キタコレ、かしこまりィ! いや~旦那は本当に上客でござるよ~。今後とも、よろしくですぞ☆」
秘密めかして囁く巨漢。戯曲を生きる道化の如き作為。その胡散臭さも、あるいは計算の内か。
初見のアンジェラは手もなく術中に嵌まっていたようだが、〈御宅〉の奇矯なふるまいを額面通りに受け取るべきではないと、ルイスは知っている。
彼らの〝伝統文化〟とは即ち、忌避や侮蔑すら利用すべく洗練されてきた眩惑の技巧。破門された身と言えど、ヤマト五大戦士の一翼を担った経歴は伊達ではない。〝
何者かが何らかの意図をもって、この怪物を〝テオフラスト〟に送り込んできたのだ。
「よろしく願うのは勝手だが、艦内で余計な事件は起こしてくれるなよ?
ある日アンジェラ・カノーヴァが行方不明になって、翌日お前の寝床から臭い汁まみれで発見される……なんて
「それは性的マイノリティへの偏見ですかなァ!? 拙者、三次元のロリィタを傷つけるような真似は決して致さぬでござる……変態には変態の騎士道があるでござるよ……!」
デイヴィッドに司法取引を持ちかけたのは誰で、どこの勢力に属しているのか? 気にはなれど、つい先ほどそれを聞き出そうとして、アンジェラたちの闖入を口実にはぐらかされたばかりだ。
状況の把握は必要だが、焦るべきではない――ルイスの中で、選択の天秤が制止に傾く。
ここでデイヴィッドを締め上げ、背後関係を無理に引き出そうとするのは悪手。それより当座は〝上客〟として、互恵関係を維持する方が先々の利となる。危機を避けて立ち回るための情報を求め、要らぬ危機を招いては本末転倒である。
こと眼前の肉塊めいた〈御宅〉に関し、その実力の一端を知るルイスの判断は、あくまで慎重だった。
ジェシーと艦内を巡ったのち、割り当てられた自室に戻ったアンジェラは、小さな身体をぽすりとベッドに投げ出した。
医務室で一度休んでいるのだから、身体はまだ動くはずなのだが、頭の方が限界だった。〝テオフラスト〟に乗り込んでから、時間にして丸一日程度――あまりに多くのことが起こり、人生の先行きさえも変わってしまっている。
現在と、過去と、未来を思う。
「これが……警兵になって、警兵の中で働くってこと」
このさき航海を共にするクルーたち。ハービス、ジェシー、サナ、アリー、デイヴィッド――そして、ルイス・ルービンシュタイン。
「敵がいて、味方がいて、殺したり殺されたりする。人と人が、命を懸けて戦うってこと――」
初めて身を投じた実戦。初めて直面した本物の〝敵〟。救えなかった命、葬られた過去、哀しみと怒り。ヴァナー・エジモンド。
「カノーヴァの家に生まれた自分を、立場を……人と世界と、大義のために使うってこと……」
父と艦長が推し進める〝世直し〟の計画。
「思ってたのと、ずいぶん……違うなぁ……」
敵も味方も、上官も部下も、みな己の人生を生きている。思想があり信念があり、異なる正義さえ持っている。当たり前のことだ。解っているつもりだった。ただ現実が、想像を超えていただけで。
理由のわからぬ涙が滲む。このまま泣いてしまえば何かに負けるような気がして、ほとんど反射的に、アンジェラはピルケースの蓋を弾いていた。
畢竟このほか、不意うつ涙に抗う術を、少女は知らない。
「ううん、理想は変わってない……変わったのは、きっと私の方……」
シンプルな理想を抱いて、警兵服に袖を通したはずだった。
この〈
優しい世界。夢物語かもしれない。具体的な成算など持ち合わせず、先走った情熱が生んだ空想でしかなかったのかもしれない。――それでも、信じていた。昨日までは確かに、アンジェラ・カノーヴァの内なる羅針は、あの美しい星を指していたのだ。
いまや、輝ける天上の理想に代わり、地上の現実ばかりが心を占める。
足つけて歩むべき大地は
鳥は告げた。この道の果てに、世界の夜明けがあると。
少女はそれを信じる。燃え輝く鳥がこの身に注ぐ愛も、彼方の曙光を望む意義も、信じて歩むことができる。
けれど、大切な何かを忘れている気がするのは、なぜだろう。
「私が、変わったとしたら……それは私が、弱いからだ。
心が弱くて、現実にぶつかって、自分が正しいって信じられなくなってるから……」
星はもう見えない。足元に目を取られるうち、見失ってしまったらしい。
暁を目指す歩みの先に、あの眩い理想を再び見出す日は来るだろうか。
――がんばれ私、正義の味方になるんだ。
薬効にまどろむアンジェラが、意識を手放す直前に思い出したのは、いつか己を励ました言葉。
その決意は、物語の中を生きた誰かに、少しだけ似ていた。
ときに銀河標準暦一〇一四年、四月七日。
十八歳のアンジェラ・カノーヴァは、かくして試運艦〝テオフラスト〟に乗り、星の大海へと旅立つ。
眠る少女は、未だ知らない。己の生まれた理由も、課せられた真の使命も。
あまりに未熟で、純粋だった。甘く、
変わらぬ心を持つことこそが、人の強さだと信じていた。
(第一話『ロールアウト』 完)
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