ボリス・パデレフ(1)
連邦主星〝ハル・シオン〟、CJPO本部ビルの一角。
武骨な金属製のキャビネット。小物一つ置かれていない
「……そういう次第だ。当面は身を隠した方がよかろう。
むろん、〝
外見年齢は四十代。筋肉質の長躯。プラチナブロンドの短髪。彫りの深い顔に、厳めしい表情。眼光するどい灰色の瞳が、瞬きもせず投影窓を見据えている。
男の名は、
将官としては最年少に近い若手ながら、CJPO内に着々と己の派閥を築き上げている、彼もまた
「お前の〝名誉除隊〟にも泥を塗られた形だが、すぐには汚名を拭ってやれん。許せ、オーラシュトーノ」
《なあに、見せかけばかりの〝名誉〟だ。中身はとっくに損なわれていた。返上して構わんさ》
画面の中の男――もと邏将、エマーネル・オーラシュトーノはニヒルに笑う。
くたびれたシャツにキャップ帽、ラフな格好でくつろぐオーラシュトーノの背後、昼の陽光が満たす空は黄褐色。
ハルニカの中央交換局を経由する汎用回線ではない。
《それにな。貴様のところに残した記録、ディミトロフ翁がうまく使ってくれたようじゃないか。あれでドレクスラーには一泡くらい吹かせたんじゃないかね》
謹厳な武人の顔を崩さずにいたパデレフが、微かに投影体の頬を緩める。
かつてフォルグ星圏救援艦隊の司令官を務めたオーラシュトーノは、パデレフと同期で士官に上がり、
争いを好まぬ性ゆえか、戦闘指揮の手腕は凡庸だったが、兵站にかけては魔術的なまでの管理能力を有し、それゆえ災害救助部隊の運用をも任された男である。物資や人員の迅速な輸送・展開を期待しての配役に違いなく――そんな人物が土壇場で命令を差し替えられ、難民鏖殺の汚れ仕事を押し付けられたのが、あの〝ハロルド禍〟最終局面だった。
禁制技術の魔病を全銀河に撒き散らさぬための、必要最小限の犠牲。これも警兵の義務と己に言い聞かせ、迷いも疑いも強いて押し殺し、彼は命令に従った。必要最小限にして幾億もの、無辜の民。声の震えを隠して、号令一下、殺戮した。
そうして任務を完遂した直後、先遣艦隊の部下がもたらした情報から、彼は真実を悟る。何もかも、無用無意味の虐殺だったと。
ただ一人の〝生存者〟、ヴァナー・エジモンドの虚ろな目を覗き込んだ、あのとき――警兵として歩むべき道を指し示してきた、
将官への特進からほどなく、オーラシュトーノは心的外傷による名誉除隊の形でCJPOを去った。だが単なる落伍者として終わるつもりも、彼にはなく。
避難民全滅の真相については、情報統制のため、徹底した箝口令と検閲が敷かれた。CJPOのライブラリに収められる作戦記録も、単に「救助は間に合わなかった」ことだけを記す内容へと書き換えられた。
そうなることを予期したオーラシュトーノは、退役前に当時の記録類を可能な限りバックアップし、秘密裏に保管していた。航海日誌、作戦ログ、音声、映像の類に至るまで。
当然、露見すれば重罪となる。しかし彼は誰にも気取られることなく記録を持ち出し、CJPO内部の改革勢力を糾合していた旧友パデレフに、そのコピー一式を託した。
この情報が、また新たな情報を得るための取引材料となり、もう一つの改革勢力たるカノーヴァ派の手へ渡ることで、結果的にエジモンド事件の早期解決へ繋がる……などとは、むろん知る由もなかった。
二十余年の時をまたぐ、運命とも呼ぶべき事象の連鎖。
もっとも、ボリス・パデレフはそのような因果に感傷を覚えるたちではない。よぎった歳月に意識を残すことなく、彼は続ける。
「シングラル七機を使い捨てにさせられて、一泡で済むなら大した強がりだ。しかしそれ以上に、ドレクスラーの伏せ札を引き出したという事実そのものが大きい」
《向こうの手に、〝都合のいいタイミングで湧いてくるテロリスト〟があると確信できたわけだからな。〝テオフラスト〟はいい仕事をしてくれたよ》
苦笑ぎみにオーラシュトーノが言い、パデレフは首肯する。
主星系を襲った〝陽動攻撃〟の全容について、すでに彼らはおおよそ見当をつけていた。独自の調査手段を持つのは、なにも企業連やカノーヴァ派だけではない。
「トマス・カノーヴァが、懐刀のディミトロフをわざわざ艦長に据えて送り出す艦だ。ドレクスラーの刺客を始末した手際から見ても、〝テオフラスト〟が単なる掃き溜めの試運艦であるわけはない。
何をやろうとしているのかは、今のところ見当もつかんが……情報を仕入れておくに
《なんだ、スパイでも潜り込ませてあるのか?》
誰の顔を思い浮かべてか、パデレフはかぶりを振った。
「やつの性分で、そういう器用な真似はできん。が、だからこそクルーの信用も得やすくなる……。
ディミトロフとは事前に話がついている。あの艦に乗せたのは、半ば公然の〝連絡役〟だ」
CJPOにおいて、パデレフの率いる派閥――そのまま〝パデレフ派〟と呼ばれることが多い――は現在、カノーヴァ派と消極的共闘状態にある。
目指すところが違うために、最終的には対立することが分かっているものの、共通の大敵を打倒するまでは互いに表立った対立を避ける。過去さまざまな戦場で、あるいは議会の党派抗争で表れてきた期限つきの休戦協定。いまなお珍しからぬ常道の戦略であり、パデレフとてこの点で独創を誇る気はない。
然れども、あくまで消極的。あくまで期限つきの共闘。
いずれ雌雄を決するときのため、多少なりとも手の内を探っておく必要はある。そう認める程度にはパデレフも、トマス・カノーヴァとその一派を警戒していた。
《敵の敵は味方……そのまま連立協調路線というわけには、いかんものかね? 彼らとて連邦の閉塞を打破しようという点では、貴様の同志みたいなもんだろう》
「カノーヴァ派と我々の利害は、確かに途中まで一致している。が……奴らのやり方では結局、手ぬるいのだよ」
カノーヴァ派にしろパデレフ派にしろ、表向きは単なる警兵のグループであるから、
その観点で推し量れば、カノーヴァ派は支分国の自治権拡大とCJPOの規模縮小を目指す、リベラルな改革勢力であると総括できる。
パデレフにとって、水と油も同然の相手だった。
「分権化も軍縮も、愚民のご機嫌取り以上のものにはなり得ん。そのような責任なき政治屋と結託すること自体、奴らに
われわれ
得心を示すように、オーラシュトーノが顎をさする。
《前へ進む分には同舟できるが、その先で右へ行くか左へ行くかは決定的に意見が分かれる……といったところか》
そんな二派で曲がりなりにも共闘が成り立つのは、〝このままでは連邦が亡びる〟という危機意識を共有しており、より優先度の高い敵がいるからに過ぎない。
「何をおいても〈
《引退した俺はともかく、現役警兵の貴様が〝わが一党〟などと言っていたら、そりゃ軍閥政治へ一直線じゃないのかね》
面白がる口調でオーラシュトーノが指摘すれば、パデレフはいっそ傲然たる態度で頷きを返した。
「企業も政府も機能不全を起こしているのだ。軍閥に御鉢が回ってきたとて、もはや驚くには
《……イリーナを俺に預けたのは英断だったよ、パデレフ。貴様のやり方は敵を作りすぎる》
娘の名前を出されると、怜悧な謀略家の顔から一転、パデレフは不服と自嘲の混ざった表情になる。
「あれは……元気にしているか」
《元気も元気だ。ついこの前も、地元の六面リバーシ大会に飛び入り参加して、優勝を掻っ攫っていった。
話したければ、いまからでも呼ぶが――》
「今はいい。あれのゲーム好きは、母親に似たのだろう。アナスタシヤにも、そういう才覚があった……」
妻アナスタシヤの死を機に、オーラシュトーノへ預けて十年。ときおり通信で話はしても、一度として
だから、だろうか。普段なら考えもしないような連想が働くのは。
「――トマス・カノーヴァはあの〝テオフラスト〟に、自分の娘を乗せているそうだ」
《ん……そうなのか。いきなりどうした?》
「別に深い意味はない。どういう心境なのか、想像してみようと思ったのだがな。できなかったよ」
娘を危険から遠ざけるため、辺境で隠棲する友のもとへ送った自分。
娘を己の策動に巻き込み、危険の只中へ送り出したトマス。
もしもトマスが、無関心ゆえにわが子を手駒として使えるのなら。それは単に冷淡な性格であって、ありふれた人間性の一つと言える。
だが、もしもトマスに子を愛する人並みの心があって、その上で使えるものは娘でも使うと決めているのなら。それは強靭な意志の力であり、敬意を表すべきものである――そのように人を評価してしまうのが、パデレフという男の
「あの男、もしかすると私以上の覚悟を決めているかもしれん」
《ほう。負けそうな気がしてきたかね?》
「馬鹿を言え。〝心の強さ〟で勝敗が決まるなど、現実逃避の
現体制は論外として、トマス・カノーヴァにも、ニコラス・ノースクリフにも勝ちを譲る気はない……イデオロギーや政体ではなく、人類の存続を真に考えている
窓の向こうのオーラシュトーノは何も言わず、神妙な顔つきをしている。その沈黙は、パデレフがこうまで己の大義を豪語する理由、彼の根幹に関わる過去を知るがゆえ。
かつて、〈
生還者は四十五名、うち正気を保っていた者は半数以下。その中で、最も深い階層から戻った一人こそ、後の邏将ボリス・ヴァシリエーヴィチ・パデレフである。
それゆえ彼と、彼が競争相手とみなす他勢力の指導者たちの間には、決定的に違う点が一つあった。
民主か専制か、企業か国家か、といった統治の形態論ではない。保守か革新か、自由か秩序か、というような政治傾向の話でもない。いわんや能力、家柄、人格などともまったく別種の――もっと根本的な、人類の未来を思い描く前提条件ともいうべき認識。
他の誰もが、人類宇宙を内部完結した〝全世界〟と見ている中で。
ただ一人、パデレフだけが〝外敵〟の存在を想定している。
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