アンジェラ・カノーヴァ(10)

「トマス閣下が、ご当主ではないのですか? 〝本家〟とは……?」

 困惑するジェシーの声に、――と、アンジェラは場違いな安心を覚えた。

 高位警兵を輩出してきた武門の家。そう知られているカノーヴァが実は分家で、本家はまた別にある。ミハイロヴィチは予め知らされていたようだが、このことは本来、一般に知られていない情報のはずだ。

の主導とか、〈劫院クロノン〉の脆弱性を衝けるのはとか言ったのは、こういうわけでね――

 彼女こそ計画の要だ。仮に、他の重要人物をすべて味方にできたとしても、当主シャーロットを落とせなければ、〈劫院〉の分断策は失敗する》

「それほどの影響力がある方、ということですか? いったい、どういう立場の……」

 トマスは頷き、腹心の老将を見やった。

《ユーリ、カノーヴァ家の掌管技術を覚えているかな》

「その名を呼ぶなと言ったはずだぞ――

 詳しくは私の職位でも閲覧できん情報だが、カテゴリとしては軍事系の禁制技術だったと記憶している。カノーヴァが武家たる所以だと」

「軍事系――それが、この〈金竜機関ファフニール・エンジン〉ってやつですか」

 重要人物リストの先頭を胡乱げに眺め、ジェシーが推測を口にする。

「邏将補でも閲覧制限が掛かるとなると、高位の禁制技術兵器でしょうか? もしかしてとか」

「それの管理者たることで、カノーヴァ本家は銀河貴族相手にも絶大な影響力を持ち得た、とも聞いている。――ここで詳細を説明してくれる気はあるのかね、トマス?」

《あ、うん。まず、謝らなきゃならないことがひとつ。うちの掌管技術が軍事関係っていうのは、表向きの話カバーストーリーだ》

「……またそれか。必要は理解しているつもりだが、いったいどれだけ隠し事が出てくる」

 手を合わせ、申し訳なさそうな顔をしてみせるトマス。白髭も豊かなミハイロヴィチの前でそうしていると、祖父にお叱りを受けている孫のようでもある。

 今の今まで嘘を吐かれていたというのに、愚痴めいた苦言をこぼしこそすれど、トマスを疑う様子は見せないミハイロヴィチ。場違いな感傷と自覚しつつも、この老将が父に向ける信頼の篤さが、アンジェラには我がことのように嬉しかった。

 同時に〝本家〟のことは、それだけ信じてくれる友に対してでも、父が今日まで隠してきたほど重大な秘密なのだと再認識する。

 だからこそ不可解だった。


 ――地球時代アース・エイジ以来の支配者だった国家権力を失墜させ、企業連が牛耳る財閥経済の世界を築き上げた、みたいなもんだからな。


 ルイスは何故、これを知っていたのだろうか?

《ヤバい軍事技術を封印してるんですって言っておけば、みんな勝手に怖がってくれて、追及をかわしやすいからね。表向きはそう説明してるんだ。……ある意味、大量破壊兵器より危ない技術だけど》

 危ない技術。を、アンジェラがそんなふうに思ったことはなかった。人類の窮地を救い、恒星間にまで広がる文明を生かしてきた偉大な技術だと、素直に信じていられた。昨日までは。


 ――星間企業を憎む人間からしてみれば、さ。


 ドレクスラーがやったこと。それを罪にも問えない体制。歪んだ社会を営々と維持する〈劫院〉の存在。

 そうした事実を突きつけられてみて、ルイスの言った意味がわかる。ただ誇らしいとは、もう思えない。同じくらいに、怖い。

金竜機関ファフニール・エンジン〉が世界を変えてしまった結果が、今ある著しい権力の不均衡だというなら――それはカノーヴァ一族の罪だ。

《アンジーには教えておいたね。うちのを……復習も兼ねて、二人に説明してあげなさい》

 水を向けられ、アンジェラの肩がびくりと跳ねた。

 いま、この話の流れで、本家の真実を明かせば。ミハイロヴィチもジェシーも、自分を蔑むのではないか。として。

 利己的な恐れだった。そうと自覚していても、意志力で容易く乗り越えられるものではない。

《……アンジェラ。おまえが警兵になりたいと言ったとき、僕が反対したのを覚えているかい》

 口を開けずにいた娘を、優しく諭すように。

 低く真剣な声で、年経た少年が語りかける。

《もし他の職業を選んでいたなら、僕はこの陰謀におまえを巻き込むつもりはなかった。

 どう転んでも血が流れ、人が死ぬことになる暴力の企てだ。もとより暴力装置である警兵が、一族の者とはいえ民間人を……おまえのようなやさしい子を巻き込んでいいものじゃない。当主の説得も、僕だけでなんとかするつもりだった……》

 警兵になりたい、と最初に言ったのはいつだったか。

 もう何年も前の話だ。まだ父の方が年上に見えた頃。憧れとともに伝えた〝将来の夢〟を、赤毛の少年は寂しげな苦笑で受け止めた。


 ――それは、やめてほしいなあ。

 ――危ないし、つらいし、いやな思いをたくさんするよ。

 ――他の仕事じゃ、駄目なのかい。


 自分が返した言葉を、十八歳になった今も、アンジェラは覚えている。

《だけど……おまえは警兵になった。僕の背中を追って、警兵になってしまった》


 ――ほかの仕事じゃダメ。

 ――だって、わたし、になりたい!


 幼き日の己の声が、遠く耳の奥にこだまするのを聴いて、アンジェラは震えた。

 自分が父を追い込んだのではないか。

 この巨大な策謀の渦に、自ら足を踏み入れてしまうことで。

 そう気づいてなお、強いて己を律し、彼女は語りかけてくる父に向き合い続けた。ここで目を背ければ、きっと警兵になったことを後悔してしまうと、解っていたから。

《カノーヴァ家に生まれ、僕の娘として育ち、警兵になったのなら……おまえはいまこそ、力持つ者の義務ノブレス・オブリージュを果たさなければならない。

 ――怖がらないで、アンジー。お父さんが一緒だ》

 最後にふわりとやわらいだ父の声に、背中を押されて。

 深く息を吸い、記憶のまま、アンジェラは禁忌の正体を諳んじる。

「カノーヴァ本家の掌管技術、〈金竜機関ファフニール・エンジン〉は……無制限発行型・自律均衡性オートバランシング暗号通貨クリプトカレンシー〝カルム〟の、発行・取引管理システムです」

 一瞬の静寂の中で、ジェシーがつばを飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。

「カルム、って……銀河経済圏の、実質上のじゃないですか!」



 アンジェラ・カノーヴァが一族の秘密を知ったのは五年前、十三歳の誕生日のこと。

「アンジー、通貨の〝強さ〟は何で決まると思う?」

 娘を書斎に呼び出したトマスは、そんな問いかけから話を始めた。

 父の表情は真剣だった。唐突であっても、真面目に取り組むべきテーマに違いない。前提を呑み込んで一考し、アンジェラは確認する。

「……為替レートを基準にした、投機的な意味での〝強さ〟じゃないのよね?」

「もちろん。ここでいう通貨の〝強さ〟は、価値が安定していて、交換財として広く利用できる、そういう〝実用性〟のことだ」

「だったら――」

 トマスの言葉はヒントというより、ほとんど答えを言ってくれたようなものだ。

「――まさしく交換媒体としての価値を保証する、の強さ。それがそのまま、お金の強さということになるんじゃないかしら」

 すでに外見年齢では娘よりも幼い父親が、満足げに頷く。

「そうだね。国家が発行する法定通貨なら、たとえばその国の経済力や軍事力を信用の根拠とすることで、お金の価値は承認される。発行主体の安定が、貨幣価値の安定に繋がるわけだ。

 逆に言えば、治安の悪化や産業の弱体化なんかで国が不安定になると、通貨の信用も揺らいで、価値が下落する。発行主体が破綻してしまえば紙幣は紙くず、電子マネーはジャンクデータに早変わり。こういった仕組みは、地球時代アース・エイジから変わらない」

 未だ体系的な経済学など修めていないこのときのアンジェラにも、父の言うことは理解できた。価値の承認。信用創造。一般教養レベルの話だ。

「この意味で言えば、最強の通貨とは、その時代における基軸通貨キーカレンシーを指すことになる。さて……じゃあ現代の基軸通貨は?」

「リナールじゃないの?」

 問い返すアンジェラに、父はかぶりを振った。

 統一銀河連邦には三種の法定通貨がある。おおよそ技術レベル帯ごとに流通範囲が分けられ、上から順にリナール、ペイド、ペイシス。さらにそれぞれが少額決済のための補助単位を持つ。たいていは支分国ごとのローカル通貨とも交換レートが設定されており、様々な価値体系を緩やかに仲介している。

 しかし、トマス曰く――

 最上位の法定通貨であり、主星系含む中央でも広く流通するリナールが、そのまま銀河経済圏の基軸通貨なのかといえば、そうではないという。

「まだ買い物くらいにしかお金を使わない末端消費者のおまえには、あんまり馴染みがないだろうけどね。三つの法定通貨とは別に、この銀河にはカルムがある」

 さっそく星系ネットへ接続し、技術管理者家系の高いクリアランス・レベルも活かして、関連情報を検索する。

 出てきた資料に、アンジェラはさっと目を走らせた。

 ――暗号通貨〝カルム〟。

 国家の発行する法定通貨ではなく、企業が基幹システムを提供する暗号資産の一種。なんら公的な権威による価値の保証を持たず、純粋に利用者間の承認によってのみ貨幣として機能する、文字通りの通貨――で、あるらしい。

 娘が探し当てた資料に補足を入れる形で、トマスは説明を続行する。

「実を言うと、うちの本家が管理している技術ってのが、このカルムなのさ」

 それまで何度訊いてもはぐらかされてきた、〝本家〟の力の源を唐突に明かされ、アンジェラは驚愕と困惑を等分に表すような顔をした。

「これが……カノーヴァ家の掌管技術で……現代の基軸通貨?」

 アンジェラはさらに資料の先を追う。

 カルムが開発されたのは地球時代アース・エイジ末期。当初は、を導入しただけの企業通貨に過ぎなかった。

 それが〈大喪失グランド・フォーフェト〉後、離散紀ディアスポラージュの始まりとともに不動の価値を確立し、以後現在に至るまで星間世界の中心的優位通貨ハードカレンシーであり続けている……。

「いくら企業の力が強いとは言っても、連邦の発行する法貨より強力な企業通貨なんてもの、あり得るの?」

 十三歳のアンジェラの疑問は、トマスの言う〝末端消費者〟としては自然なものだっただろう。このときは知らなかったことだが、中産階級以上の人口比率が高い主星系ですら、日々の買い物も給与の支払いもリナールだけで済ませてしまう市民は多いのだ。

 そんな娘の問いに、幼い父はまた頷く。

 緩やかに、やさしく、どこか厳かに微笑みながら。

「あり得るのさ。なんせ、高位禁制技術の粋を集めて実装された、だ」

「お金に使う表現としては、ひどく大袈裟ね」

 苦笑をこぼすアンジェラに、トマスは肩をすくめて返した。

「ほんとのことだからしょうがない。実際、カルムを最強たらしめている要素はいくつもある。

 量子もつれをハッシュ生成アルゴリズムに組み込むことで実現した、完全な耐衝突性と即時決済の両立……グループ直営の分厚い担保市場リザーブマーケット……消費財と交換財の二面性が、無制限の民間採掘マイニングと合わさって生まれる、価値の自律均衡特性……。

 けれど最も本質的な強みは、なによりも、という一点に尽きる」

「超光速通信?」

 意味を掴み切れず、アンジェラは首を傾げる。

 トマスもまた書斎の天井を仰ぎ、どう言えば娘に伝わるだろうかと思案するふうであった。

「つまり……カルムはお金であると同時に、量子転送回線のリアルタイム兌換券トークンであって……恒星間ネットワークを結ぶ汎用超光速通信は、すべて行われているんだよ。

 厳密に言うと、超光速通信そのものを実現してるのはカルムじゃなくて、そのデータセットに組み込まれた可測エンタングル量子束――いわゆる〈双珠ジェム〉なんだけど、これだけ持ってても実用的な通信網は構築できないからね。やはり、本家の〈金竜機関ファフニール・エンジン〉あってこその大規模ネットワーク、ということになる……」

 またぞろよくわからない専門用語が出てきたぞ――と不満を込めてアンジェラが睨みつければ、トマスはばつの悪そうな微笑とともに、己と同じ色をした娘の赤髪を撫ぜるのだった。

「……ともあれ情報は力であり、通信はその伝達経路。だからこそ、無時間・無限遠の情報通信を提供するカルムは、その価値に絶対無比の信用が置かれているんだ。通貨カルム自体が最速の送金手段でもあるしね。

 いわば〝データ本位制〟時代の本位貨幣として、これ以上は考えられないほどの〝強いお金〟ってわけさ……」

 結局、この日アンジェラがカルムの技術的基盤などを理解することはなかった。トマスもそこまでは期待していなかったであろう。

 ただ、子供なりに漠然と察したこともある。

 本家が管理しているものは、単なる造幣技術や通信手段ではない。そもそも禁制技術などという枠に収まる代物でもない。

 それはきっと、社会の在り方を決めてしまうような、途方もなく巨大な力――。



 時は現在、試運艦〝テオフラスト〟艦長室。

 トマスは質量のない身体で歩き回りつつ、初耳となる二人の理解度を推し量るように問いかける。

《警兵である君たちにとっては、いまさらな話だとは思うけど……カルムの技術管理者であるということの意味は、わかるだろう?》

 であると同時に、

 その基幹技術を一手に掌握するカノーヴァ本家が味方につけば、確かに星間企業体群への影響力は絶大なものとなろう。経済や金融の専門家ならずとも、それくらいの想像はつく。

 ジェシーもミハイロヴィチも、口を開こうとしない。想定外の巨大な情報量を投げつけられて、自分が置かれた状況の再解釈に手間取っているものと見えた。

 自分が何か言うべきだろうか、と逡巡するアンジェラをよそに、トマスは続ける。

《そもそも、〈劫院クロノン〉の成り立ちを聞いて疑問に思わなかったかな……どうして星間企業たちは、かつて地球を支配した国家群から覇権ヘゲモニーを奪えたと思う?

 武力で簒奪したわけじゃないよ。合法的に、んだ。

〈特異点戦争〉で弱体化したかつての超大国たちは、貨幣価値を保証する信用すら維持できなくなっていた。『ドル札じゃケツ拭く紙にもならねえ』なんてジョークが残ってるくらいで――あ、ドルっていうのは地球時代アース・エイジの通貨単位のひとつね? まあとにかく、どうにかこうにか地球圏を脱出しても、そのままだと貨幣経済の機能不全やら、旧国家勢力の主導権争いやらで、播種船団が空中分解しかねない有様だったのさ。

 でもそうなる前に、銀河貴族の始祖たちが解決に乗り出した――》

 明かされるは更なる秘史。

 かつてアンジェラの前で語られ、彼女にカノーヴァ家の一員たる誇りを抱かせた、大いなるパラダイムシフトの物語。

 もっとも、以前は『企業による危機解決の美談』として聴いた話が、いまはトマスの語り口に遠慮がないせいか、まったく別の物語に聞こえる。

《彼らは来たるべき宇宙進出の時代を見越して、戦前から大量のカルムを保有していてね。通信資源としての価値を強みに、企業主導の経済圏を構築していく一方、播種船団を運営する旧国家群主体の暫定政府に働きかけて、国家機能の切り売りに合意させてもいたんだ。

 私設軍備権、統治代行権、なにより禁制技術の超法規的管理特権……すべて莫大な額のカルム取引で、国家から企業へ売り渡されたものさ。政治家だって、そりゃ企業に国以上の権力なんか与えたくなかったに違いないけど、船団が四散して人類種そのものが絶滅するよりは、マシだと思ったんだろうね。

 で、このとき共謀してカルムの寡占体制を布いたグループが〈劫院クロノン〉の原型になり……国家の権能をカネで買い叩くプランの音頭を取ったのが、当時金融情報工学フィンテック系コンツェルンの親玉だった〝星華シンファ銀行〟。カルムの発行・口座管理を行う唯一の機関にして、超光速通信の中央交換局を併設する、銀河経済圏の心臓――

 お察しの通り、現代まで続くカノーヴァ本家のフロント企業だ》

 半ば予測していたこととはいえ、アンジェラは胸の奥に重い塊が落ちるような心地がした。

 ルイスが言うようなであるかはともかく、やはりカノーヴァ家には、〈劫院〉というポスト国家時代の怪物を生み出した責任がある。

 父はその責任を果たすためにこそ、〝世直し〟を始めたのかもしれない。あるいは、後ろめたさから逃れるための〝贖罪〟を。そうした感情は、アンジェラにも理解可能なものだった。

「……よくもまあ、これだけの秘密を抱えておきながら、武門などと嘯いてきたものだ」

 ミハイロヴィチの口から、重い溜息が吐き出される。

「いささか回り道の多い話だったが、なるほど納得はできた。カノーヴァ本家が〈劫院〉に多大な影響力を持つ理由……星華シンファがこの銀河の実質的な〝中央銀行〟であるなら、星間企業に対して取れる手は多かろう」

「加えて〈劫院〉の実質的な創始者一族とくれば、カルテル内部の話とはいえ、歴史的・伝統的な権威もあるでしょうしねえ」

 最大のギミックが明かされたことで、この陰謀に勝算を見出したのか。早口に呟くジェシーは、アンジェラから見ても興奮を隠しきれていない。

星華シンファの経営血族……ろくに情報がないと思ったら、そっか、カノーヴァか……うん。盲点だったけど、これなら大艦隊も超兵器も必要ない。口座の凍結をチラつかせるだけで勢力図を動かせる。融資や預金にカルムが使えないだけならまだしも、超光速通信まで止められるとなると……」

《クシウス嬢も、ご納得いただけたかな?》

 呼ばれてようやく我に返ったジェシーは、気まずそうに背筋をただしたのち、真面目くさって頷いた。

「これだけのジョーカーを持ち出されちゃ、さすがに無理とも言えませんねー。確かに本家の御当主を口説き落とせれば、大勢は一気にこちらへ傾くでしょう。

 となれば、シャーロット殿の〝説得〟に実際どれほどの成算があるのか、そこにすべてが懸かってくると思いますが……こんな重要人物がわたしたちに、そもそも会ってくれるでしょうか?」

 一般市民が相手なら、警兵の強力な捜査権にものを言わせて押しかけることも――行為の是非はともかく――不可能ではない。

 しかし銀河貴族となると、逆にCJPOの強制捜査すら拒否できてしまう。特権の格が違うのだ。

《もっともな懸念点だ。けど、少なくともうちの当主に関しては、アンジーが〝テオフラスト〟に乗ってくれたことで、ある程度ハードルが下がっていてね》

「どういう意味だ?」

 ミハイロヴィチが問うと、それを待っていたと言いたげに、トマスは破顔した。

《本来、星華の頭取でもあるシャーロットに面会するのは、簡単なことじゃない。他の銀河貴族でさえ、よほど差し迫った要件ありと認められない限り、アポが取れないくらいさ。

 でも、なら話は別だ。たとえ分家の子であっても、〈焔髪ファイアブロンド〉を持つ者が訪ねてくるなら、シャーロット・カノーヴァは必ず会う。本家の家訓なのか、現当主の個人的な信条なのかは知らないけど、とかくなっている。

 僕が自分で行かなきゃならないようだと、移動手段やスケジュールの調整が難航するところだったんだけど……今回は試運艦の任務にかこつけて、クルーの一人としてアンジーを送り込める。おまけに当主シャーロットは、アンジーのことがいたくお気に入りだ》

「えっ、私?」

 突然、自分がキーパーソンになると言われ、困惑するアンジェラ。

 血筋のおかげで面会資格を得られる、そこまでは解る。しかし〝お気に入り〟というのが理解不能だった。

「あの……お父、いえ上級邏将? 私は本家の御当主様にお会いしたことなど、一度もないと思うのですが……」

《うん。実は、おまえが小さい頃の写真を本家に送ったことがあってさ。どうも当主どのがそれを見て、『この子めちゃくちゃ可愛いから一度本家に連れてきなさい!』みたいなことを言ってたらしいんだよね。いやーシャーロットおばあちゃんも見る目あるなー》

「えぇ……」

 当主の反応はいかにも当然のもの、と言わんばかり。得意げに胸を張るトマスに、アンジェラの中で黒々と渦巻いていた懊悩や緊張が、たちまち霧散してゆく。

 神秘のヴェールの奥で恐ろしげに膨れ上がりつつあった当主の影も、孫の写真を子にねだる老人のようなエピソードを聞かされては、まるで普通の人ではないかとさえ思えた。

《そういうわけだから、交渉は好印象でスタートできるよ。がんばってね、アンジー!》

「うーん……いいのかなぁ……そんな子孫可愛さにつけ込むような真似して……」

 とはいえ、老人を騙して悪事を働こうというのではない。不正をただす力の持ち主に、その行使を願い訴えるだけ。やることは真っ当な交渉と言える。

 そして、その老人がいかに巨大な権力を持とうと、〝普通の人〟であるなら話は通じるはずだ。説得は可能であるはずなのだ。

 少女は頷く。焔の色をした髪がきらめいて、揺れた。

「……でも、うん。わかった。私しかできないことなら、やります」

 同じく〝普通の人〟であったヴァナー・エジモンドとの対話が、悲劇的な物別れに終わったことは、アンジェラの中に真新しい傷となって残っている。

 そんな彼女にとって、父とともに一族の罪を贖うという使命は、まさにいま必要な救いだった。自分が警兵であることの肯定、ここに在る意義をくれる道標であった。

「……力持つ者の義務ノブレス・オブリージュ。そうでしょ、お父さん」

 他人の敷いた道を歩く決意なら、済ませてきたはずではないか。

 自分の力で切り拓いた道でないとしても、正しい行き先へ通じていると信じられるなら、アンジェラ・カノーヴァは歩けるはずだ。

 歴史年表の狭間に隠された虐殺。虚構に飲み込まれ埋没してゆく復讐。あのような悲劇の連鎖を、二度と繰り返させないために戦うのだと思えば、ためらいは心臓の熱に融けて、消えて――。

 娘の視線を受け止めたトマスは、その姿を一瞬のノイズに揺らがせると、面白がるように笑った。

《おや、思ったより決意が早いね。急な話ばかりで、もっと説得に時間が掛かるかと思ってたけど……何にせよ、おまえがやる気を出してくれるなら、僕としては嬉しい。

 とはいえ――今日は計画の概要だけ伝えるつもりだったから、アンジーとクシウス二等哨尉は、このへんで本来の仕事に戻ってもらって構わないよ。細かい話は、主犯である僕たち年寄り組で詰めておくからさ》

「そんな――」

 いささか唐突に話を切り上げようとするトマスに、アンジェラは微かな反発を覚えた。

 人を勝手に謀反の企てに引き込んでおいて、いざ覚悟を決めてみれば、肝心な話の途中でまた除け者にしようとする。連邦法上は成人である十八歳にもなって、未だに子供扱いされていると感じたのだ。

 食い下がろうとするアンジェラを、ジェシーの耳打ちが止めた。

「行こ、アンジェラちゃん。オペレーター席の設備とか、まだセットアップしてないでしょ」

「先輩、でも――」

「艦長も上級邏将も、わたしたちを信じたからこの話をしてくれた。万一にも外へ洩れたらみんなが破滅する、危ない話を。その上で、聞かせるべきことは全部聞かせた、って判断したから退出を促してる。なら、ここはわたしたちが上官を信じて従うべきとこじゃないかな」

 新しい後輩に威圧感を与えぬよう、注意深く抑制された柔らかい声。その気遣いが、アンジェラをいくぶんか冷静にさせた。

 父を交えて実家がらみの話をしていたからか、また己を特別視する甘えに囚われていたらしい。

 少し考えれば、子供扱いされたくないなどという要求は、親を意識した子供の感情そのものだと解る。いち三等哨尉が、邏将クラスの作戦会議に割って入れると思うことこそ、本来おかしいのだ。

「……わかりました。すみません、行きましょう」

 退室をされなかっただけでも、将官二人にまで過分な配慮を強いていたのだと、遅まきながら気づく。特権意識。思い上がり。昨日まで自分の中にあると思ってさえいなかった傲慢さに、またも募る自己嫌悪と羞恥。

 赤く染まる頬を隠すように一礼し、アンジェラは小走りに艦長室を出る。ジェシーが後に続き、こちらはどこか気の抜けたような一礼を残して、扉を閉ざした。

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