アンジェラ・カノーヴァ(9)

 アンジェラの肌を、ふわりと包むようにして、風が撫でた。

 物体の動きや空調が起こした風ではない。空間そのものが静かに揺れて、波打つ空気が微風となったものだ。

「これ……縮天航法リプレイサー・ドライブ? もしかしていま、んですか?」

 ただでさえ足の速い試運艦が大いに急いだ結果、通常一日かかる系内航路をほとんど翔破し、すでに星系内転移点マイルストーン付近まで来ていることは把握ずみだった。

 だからといって、まさかいきなり跳ぶとは思いもしない。事前の艦内アナウンスくらいはあって当然だ。転移時の微弱な重力震とて、予告なしにぶつけられれば、どのような事故を生むとも知れぬ。

 しかし、いま感じたのはわずかな空気の動きだけ。足下から伝わる艦体の揺れも、内臓が浮くような独特の落下感もない。

 仮想視界で航路図にアクセスしてみれば、艦の座標は大きく値を変え、確かに主星系の外へ出ている。

「すごい。定期便の転移リップでも、もっと力場のうねりが分かるのに」

「連絡艇で回収した、正規の操舵手の仕事だ。が本艦の質量分布に慣れれば、そよ風ひとつ起こさず跳べるようにもなるだろう」

「またなにやら腕利きを引っ張ってきたみたいですねえ」

 ジェシーが感心した様子で頷く。ミハイロヴィチはというと、見慣れぬ描画効果エフェクトの秘匿回線で外部への呼び出しを始めている。

「優秀なクルーが揃ったのは、私の功績ではない。これから話を聞く男のおかげだ」

 よく見れば超光速回線、しかも記録に残らない非正規の仮想閉域網VPNプロトコルだ――そのことに気づいたアンジェラは、立体画素が象る妖しげな暗号化パターンに、すっかり眼を奪われてしまう。警兵の任務で、こんなものを使うことがあるのか。

「もしかして、例の情報屋さん……だったりします?」

 なにか覚悟を決めたような表情で、ジェシーが問う。ミハイロヴィチは思いもよらぬことを聞いたふうに、片眉を上げた。

「〝クイズマスター〟は我々の黒幕フィクサーだが、おそらくCJPOの人事権までは持っておらんよ」

 数秒を置いて、招待インヴァイトコールを受け取った何者かが、密やかなOKを返してきた。

 艦長室のローカル領域スフィアでメモリ確保アロケーションの処理が走り、ちょうど一人分空けられていたスペースに、魔法陣のごとき結界を可視化する。

 ここに、誰かがのだ。

「直接の命令系統としては、我々全員のボスということになる男だ。銀河貴族としては付き合いやすい方だが、あまり子供扱いしてやるなよ。

 それとカノーヴァ三等哨尉、

 その言から、アンジェラが来訪者の正体を察するのと同時。

 現世うつしよならぬ方角から飛びきたった一条の雷光が、〝テオフラスト〟の装甲と防壁アイスをすり抜けて艦長室にし、結界円の中に小柄な人影を現出せしめた。

 燃え揺らぐ炎と見紛う光彩は、工芸の域に達した遺伝子操作の所産たる、きらめく赤髪。

《やあ、どうも、第一三五七試験技術運用部隊の諸君。……長いから〝テオフラスト〟隊にしようか。超光速通信は高くつくことだし》

 その少年は、アンジェラよりも少し幼く見えた。

 実際は彼の方が五十近く年上だ。親子ほども離れている――などとナンセンスな冗句は、さすがに誰も口にしない。

上級邏将シフ・フィザーダム、トマス・ベルナルド・カノーヴァだ。いちおう、君たちのであるデータ収集プロジェクトの、総責任者ということになっている。

 クシウスくんとは初対面だったね。僕らの共犯者になると決意してくれたそうで、うれしいよ。地獄へようこそ》

「……っ!?」

 トマス・カノーヴァ。武家と呼ばれる閥族の男には到底見えぬ、むしろ文弱を絵に描いたような、繊麗の美少年であった。


《やあアンジー。お父さん、かわいい娘を撫でてハグしてキスしてあげたいのはやまやまなんだけど、これデータ量をギリギリまで落とした投影体なもんで、温度も触感も伝えられないんだ。またの機会にね》

「……本題に入ってください、カノーヴァ上級邏将」

《反抗期かな?》

 恥ずかしさを堪え、せいいっぱい事務的な表情を維持しようと努めるアンジェラ。父はこんなに子煩悩さを隠せない親だっただろうか。仕事の忙しさゆえ、あまり家にいない人だったが、たまの休みに帰ってくれば、確かに自分を猫可愛がりしてくれた気もする。

「それが七十近いの勤務態度か。大概にしろ、トマス。

 問題意識の共有はおおかた済んだ。あとは、これからどうするという展望の話になる」

 階級は下だが、年齢は倍近く上のミハイロヴィチに〝じじい〟呼ばわりされ、トマスは小さな唇を尖らせる。

《いやあ、矮星族ってのはどうしてもねえ。若者気分が抜けなくて……。

 ともあれ、こうして君たちが主星系を出てくれたおかげで、ようやく信号諜報シギントを気にせず話せる。手早くいこう》

 茶目っ気を表に出していた少年の顔が、すっと真剣みを帯びた。

《うすうす察してるとは思うけど、君たち〝テオフラスト〟隊の本当の使命は、新兵器の実地テストなんかじゃない。……いや、実際ほとんどのクルーはただの巡航データ収集だと思ってるだろうけど、そこに僕らが裏の任務を仕込んだ形だね》

 父がこうして出張ってくるまで〝うすうす察して〟などいなかったアンジェラは、気まずさを顔に出さないよう努力した。

 試験技術運用部隊として検証業務に従事しつつ、希少な矮星族ドワーフの警兵として広報向きの活躍をしてみせる。それがこの航海における自分の使命だと、ごく正直に思っていたのだ。

 当然〝裏の任務〟などという話は事前に聞いていないし、内容の見当もつかない。

「先ほど仰っていた〝世界を変えるための話〟……上級邏将が発起人だったわけですね。艦長は、もう委細をご承知なのですか?」

 上級邏将の前では折り目正しくしようと決めたのか、言葉遣いを少し丁寧なものに改めて、ジェシーが訊ねる。ミハイロヴィチは「いいところに気付いた」と言いたげな目で、首を横に振った。

「私が事前に聞いていたのは、試運部隊の業務にかこつけて何人かの要人と接触を図る、という概要だけだ。少しでも漏洩のリスクを削るためにな。

 よって詳しい話は、お前たちとともに、これから初めて聞く」

 系外へ出てから作戦説明ブリーフィングを行うのか、と一瞬アンジェラは驚く。しかし考えてみれば、ミハイロヴィチがあらかじめ全容を了解しているなら、超光速通信でトマスを呼び出す必要はない。

 表向きカバーの任務で艦と部隊を動かし、主星系を離れたところで正式に通達を受ける――かねてよりそういう取り決めだったのだろう。指定時刻まで作戦内容の閲覧が許可されない、封緘命令のようなものだ。

 それだけ機密性の高い任務、ということでもある。

《その概要に嘘はない。安心していいよ。

 君たちに頼みたいのは、言ってみればだ。知識、武力、技術、人脈……さまざまな意味での重要人物たちに声をかけて、味方に引き入れてほしいのさ。

 来たるべき日、〝本当の敵〟と戦うためにね》

 本当の敵。

 甘やかされた記憶しかない父の口から出たその言葉は、どこか冷たい質感で、アンジェラの首筋を撫ぜてゆく。

《先のエジモンド事件において、君たちはほんとうに素晴らしい働きをしてくれたよ。

 本部が想像もしなかった犯人像にいち早くたどり着き、逮捕もしないうちから――うちの娘の暴走ではあるけれど――〝ハロルド禍〟の最も深い真相を探り当てた。大企業ドレクスラーの、とてつもない悪事だ。そのために差し向けられた刺客も、きっちり返り討ちにしてみせた。現場レベルでは大勝利と言っていい。

 じゃあ、なぜ君たちは、真実を手中に収めていながら、ドレクスラーを追い詰められなかったのか? ――わかるかい、アンジー》

「えっ、それは……」

 いきなり問いを向けられ戸惑いつつも、ついさっき聞いた話を自分なりにまとめて、アンジェラは答えを紡いでいく。

「彼らがメディアに大きな影響力を持っていて……CJPO上層部とも繋がっているから……私たちの打つ手を、すべて潰してしまえる」

《うんうん、そうだね。要はってことだよ。

 ドレクスラーは間違いなく、銀河系最大最強の企業グループだ。人、モノ、金、情報――質的にも量的にも、動員できるリソースの桁が違う。あの手この手で官民に働きかけて、黒を白にしてしまうことができる。

 でもさアンジー、どんなに大きくたって、企業そのものはだ。つまり、権利能力を保証するのは連邦法なんだ。だったら法のもと、企業訴訟としてドレクスラーを告発する手はなかったのかな?》

 知識と状況への理解度をテストされているのだ、とアンジェラは察する。いまこの場で、量子転送回線の高い通信料を消費してまで口頭試問を受ける謂れは解らなかったが、学生時代から試験は得意な方だ。

「上級邏将。相手が通常の企業であれば、訴訟による解決も可能ですが、こと相手が銀河貴族の傘下となれば、法的措置は無意味かと」

《どうしてかな?》

「禁制技術管理者の、を発動できるからです」

 トマスは片目をつむり、「ん~」と可愛らしい声で唸ってみせる。およそ立場ある成人男性の所作ではない。

《逮捕されない、ってのも正確じゃないんだけどな……まあいいや。

 連邦中央議会の信任を受けた禁制技術管理者は、その業務を遂行する上で。管理者が運用員に任命した人員、および運営する管理団体等についても、同様の保障が適用される……。

 と、確かこんな文言だったはずだけど、要するに。その配下の企業も、ふつう企業犯罪として立件できるほとんどの罪に問われない――ちょっと報告書をミスって、何億人か虐殺しちゃった、とかね》

……!?」

 アンジェラの抗議は、トマスの振った手に遮られる。

《きょう訴状を上げてたら、ドレクスラーはそんな感じで棄却させただろうってことだよ。せっかく手にしたカードを無駄に晒すくらいなら、最初から訴えないのは正解だ。

 ――さて、これで問題点は明らかになったかな? 単純に、真実を世に広めようとしても、ドレクスラーは実力でそれを捻じ伏せられる。ならばと本来弱者が頼るべき法に目を向ければ、超法規特権を持つ〈万象庭園アーレブリュート〉一門の前では、法廷が開きもしないときている。

 僕が思うに、今回の事件は、連邦が抱える腐敗と閉塞の縮図だ。人を殺すとか企業を爆破するとか、そういうテロルじゃ解決しない。もっと根本的な、システムの改善が……が必要なんだよ》

 ぞっと、痛みにも似た戦慄が、肌の上を走った。

 それは嫌悪や拒絶とは違う、自分が巨大な渦の前に立っているのだという、畏怖に近いもの。

 父たちがこの銀河にどんな絵を描こうとしているか、アンジェラにも解ってきたのだ。

《――とはいえ、〝ザナドゥ〟みたいに民衆を扇動して武装蜂起させるなんてのは、大義がどうあれ犯罪だ。世直しの手段として、スマートな部類とは言えない。

 改革は、可能な限り内側から為されるべきものだと、僕は信じる……そういうわけで、君たちに仲間を集めてもらって目指すのは、あくまでということになります!》

「予想はしていたが、実際に聞くとひどい語義矛盾だ」

 ミハイロヴィチの呆れ顔が、アンジェラに辛うじて冷静さを保たせた。

 そもそもクーデターとは、行う政権の奪取である。敢えて〝合法的〟と称するからには、納得のいく説明が用意してあるのだろう。――というより、父親の叛意を唐突に明かされた娘としては、そう信じたいのだが。

《ことが上手く運ぶ限りは、ほんとに一片の違法性もないよ。まあ、合法って言うよりはなんだけど》

「上級邏将、いったいと戦うおつもりですか?」

 端的に核心を問うジェシーに、トマスは娘の知らぬ微笑みで答える。

《倒すべきは連邦政府じゃない。ドレクスラーでもない。ドレクスラーもまた、〝本当の敵〟の一部に過ぎない――》

 一部、という言葉に、ミハイロヴィチが反応した。

「やはり……実在するのか。〈劫院クロノン〉は」

《あれ、本作戦のスタートまで教えないはずだったんだけどな。自力で辿り着いたの? さすがだね、

「ファーストネームで呼ぶのは止せ。〝その名ユーリ〟は久しく使っておらん。〈劫院〉の名は、パデレフとの情報交換で得たものだ」

《……へえ、危ない橋を渡ったね。で、君は〈劫院〉をどんなものだと理解してるのかな》

 これは事情を知らぬ自分たちに聞かせるための質問だろう、とアンジェラは解した。話に出てきた〈劫院クロノン〉なるものが、どうやらおそらく父の言う〝本当の敵〟なのではないか。

 だとするなら、強大無比のドレクスラーさえもその一部に過ぎぬという、〝敵〟の正体は。

「もともと、個別の営利主体であるはずの企業どもが、妙に息の合った動きを見せることがあるのは、気がかりだった。、とは思っておったよ。

 馬鹿げて聞こえようが、〈劫院〉とは……星間企業体群を束ねる銀河貴族たちの互助組織、あるいはのようなものではないかね」

《なるほど。的は外してないよ》

 驚くことに、トマスは否定しなかった。

 銀河貴族たちの、秘密結社。あまりに稚気じみた響きだ。基本的に人を疑わぬアンジェラの耳にさえ、じっさい馬鹿げて聞こえるのだから、良識ある世の大人たちが真面目に取り合うはずはない。

 、と確信してでもいなければ。

《ただ……秘密結社っていうのはさ、なんというか、がなくちゃ駄目だと思わないかい? 厳格な位階制度とか、強固な宗教的団結とか、世界征服みたいなでっかい野望とか、そういう……組織としての存在意義みたいなものがさ。

 残念ながら〈劫院〉は、そんな可愛げのある集まりじゃない。世界征服なんか。あれはただの、絶望的に巨大なだけの……調なんだよ》



 かつては、理想があったという。

 禁制技術の管理権限を国家群から取り上げた、銀河貴族の始祖たる者たち。彼らは何よりも、まず競争原理を恐れた。

 他者に優越せんとする欲望。他者に劣れば駆逐され、支配されるという恐怖。軍拡、資源開発、市場の占有……あらゆるところに競争があり、テクノロジーの進歩を駆動してきた。その結果が〈特異点戦争〉であり、〈大喪失グランド・フォーフェト〉である。

 技術管制主義の理想を実現するためには、自由競争などという愚挙を許してはならない。

 誰かが、競争原理から人類を守らねばならない――。

 その〝誰か〟となるために、〈劫院クロノン〉は生まれた。傀儡の連邦政府を通じ、政治と経済とを歴史の裏から操り、文明の選択的停滞を維持する影の議決機関。テクノロジーの無軌道な発展を抑止し、この銀河に人類安寧の新たな基盤を築くべく立ち回る、最も崇高なる社会奉仕者ボランティア

 平和のための停滞であった。

 ヒトの営為を守るための権力であった。

 変わってしまったのはいつからか。

 権力は腐敗し、祈りは呪いへと転じた。停滞のための停滞。支配のための支配。ヒトが微睡むべき揺籃であったはずの星海は、いつしか弾圧の檻と化して久しく。

 抗う者が生まれ、多くの血が流れ、さらに抗う者たちが立つ。人は歴史を繰り返した。テクノロジーへの同じ恐れを共有しながら、敵と味方に分かれて殺し合い、野合し、裏切り、果てなき粛清を重ねた。

 そうして、気付けば文明の守護者を自任したはずの者たちが、軋み上げる世界に君臨し、民の血を啜り嗤う、見えざる暴虐の神々と成り果てていた。

 かつては、理想があったという。

 いまや色褪せ、誰も信じなくなった理想が。



《いまの〈劫院〉は、手段だったはずの権力を目的にしてしまった、空虚な自走機関に過ぎない。とはいえ千数百年かけて築いてきた力は本物だから、丸ごと相手取って滅ぼすのも現実的じゃない》

 銀河史の暗部を辿るにしては軽快な声音で、トマス・カノーヴァが語り飛ばす。

 過去はこうであった。現在はこうである。そして未来はこうするつもりだ、と――己の物語に否応なく人を巻き込んでゆく、確信に満ちた生き方の片鱗。驚く思いで、少女は父の新たな一側面を見つめる。

 思えばアンジェラは、父がどんな人間であるのかをよく知らない。

 父親としてのトマス・カノーヴァなら知っている。子に甘く、幼い外見もあって、親であると同時にどこか兄弟のような気安さがあった。しかし上級邏将としての仕事ぶりはどうか。このような権力闘争に関わる策士としての顔を、見せたことはあったか。

 既得権の恩恵あつき階級に生まれながら、この男がなぜ世界を変えようなどと壮大な理想を抱くに至ったのか。娘である自分が、何も知らない。

 それはアンジェラにとって、後ろめたく寂しい気付きだった。

《ざっくり言うと、僕のプランはこうだ――

 一、主要人物キーパーソンを押さえてカルテルを分断する。

 二、比較的まともな連中を味方に抱き込む。

 三、まともじゃない連中を〝巨獄グローセス・ゲフェングニス〟へご案内する。

 以上。の主導で、銀河経済の最上部構造を内部から切り崩し、と粛正するわけだね》

 粗略な言辞で恐ろしく困難な目標を並べる少年に、ミハイロヴィチが現実的な疑義を挟む。

「簡単に言ってくれるが、その絶望的に肥え太ったカルテルを、本当に分断できるのかね。訴追できない輩を投獄するにも仕掛けギミックが必要なはずだ。具体的な成算は?」

《あるとも。それこそ、君たちにお願いしようと思っていた折衝の目的でね……現在の〈劫院〉はを抱えている。そこを衝けるのが、僕たちだけなのさ》

 幻像のトマスは掌を差し出し、その上に抽象化されたピラミッドのような光点群を投影した。

 色分けされた各層には〝国家〟や〝都市〟や〝個人〟といったタグが添付されている。人類文明圏の権力構造を表した略図らしい。

《先に話した通り……銀河貴族の始祖たちは、かつて世界を支配した国家たちの上位に、自らを置いた。それまでは誰も止められなかった国家間の争いを調停し、技術開発競争の芽を潰すためだ》

 最上位にあった〝国家〟が格下げされ、代わって〝企業〟が角錐の頂点を占める。禁制技術管理者たちの運営する、星間企業を指すであろうことは明白だ。

《けれど、旧きローマの箴言にもあるように、〝誰が見張りを見張るのか?〟という問題は残る。連邦法で掣肘できない銀河貴族が、もし暴走を始めたなら、いったい誰が止められるだろう?

 さらなる上位者がいないのなら、しかない――自然な発想として、そうなる。じっさい〈劫院クロノン〉の存在意義の半分くらいは、これだったんだ》

 統一銀河連邦という超国家の枠組みフレームワークを使い、国家以下の権力構造を制御しつつ。

 最上位者となった銀河貴族じぶんたちの中から、技術管制主義の理念を逸脱する者が現れないよう、集団的安全保障の体制を作る――

 地球時代アース・エイジに存在したという、〈国際連合UN〉のようなものか。既知の歴史に照らし合わせて理解しようとしたアンジェラは、しかし決定的な差異にも気づく。

「……でも、〈劫院クロノン〉は銀河市民の承認を得ていない。どんなに実効権力を持っていても、彼らは……」

 娘の呟きを受け、赤髪の少年は満足げに頷いた。

《そう。仮にも法治民主国家である連邦を間接支配していながら、の意思決定機関であること。これが第一の脆弱性だね。

 人類の基本的欲望である〝進歩〟を封じ込めるための存在だから、世論や大衆政治とは切り離された隠匿議決機構でなければならない、って理屈はあったみたいだけど……統治の正当性を担保するものがないから、存在に気付かれてしまえば、僭主として打ち倒されても文句は言えない。

 とはいえ、銀河貴族には支分国以上の私兵を擁する家が少なくないし、〈劫院クロノン〉の議決があればCJPOを動かすこともできる。極めつけは、自らの管理下にある禁制技術を、必要に応じて段階的に解放・使用する権利すら認められている。そんな技術管理者たちの談合を、外部から実力で打ち破れる存在なんてあるわけはない。だから、正当性の問題は棚上げにしてもいいはずだった。

 ――まあ一世紀くらい前から、ニコラス・ノースクリフっていうが出てきてしまったわけですが……彼の〝革命〟は僕らの展望と相容れないから、ひとまず置いとくとして》

 さらりと不穏な発言を交えつつ、トマスはピラミッドの最上位ブロックをさらにいくつかの色相群へと塗り分ける。

《外部から突き崩せないんなら、内部崩壊を狙うのはどうだろうか?

 ――これも、本来なら塞がれていた穴でね。相互監視システムとしての〈劫院クロノン〉が万全に機能していれば、内輪揉めが起きても、それ以外の管理者たちで調停に入ることができるはずだった。

 ところが、歳月を経て〈劫院クロノン〉も変質した……どんなに崇高な理念があろうと、大きな権力を握っていようと、彼らは人間の組織だ。管理者間で影響力が偏り、派閥が生まれることは避けられなかった》

 色分けされた頂上ブロックの中に、いくつかの大きな光点が現れる。それぞれに仮想タグが付けられ、が記されていた。

 アーレブリュート、フェルゼンシルト、オッドバーグ、クロームストライカー、ロートヴァンク――いずれも強大な銀河貴族の門閥である。

 その中にカノーヴァの名を見つけ、アンジェラは世界が暗く霞むような心地を味わう。驚きはさほどない。、という思いが強い。

 父の言う通り、銀河貴族たちによる影の政府が実在するなら――カノーヴァがそこに名を連ねていないはずは、ないのだ。

《多分野の基礎となるような、汎用性の高い技術を持つ家ほど、事業を手広く展開できる。業種間の影響力も強くなる。だからナノテク全般の元締めであるアーレブリュート家は強いし、寿命延長技術を含む生物工学バイオテクノロジーの最上位管理者であるフェルゼンシルト家も、それに次ぐ権勢を誇るわけだね。

 こうした有力家門を中心にまとまった派閥が、〈劫院クロノン〉の中に複数あって、現在は互いを補い合う形で安定してるんだけど……ここに、僕らの付け込む余地が生まれる。さ》

 少年の小さな手の中で、ピラミッドの頂点が二つの塊に割れた。

《集団の中に有力者が生まれ、派閥が形成されてしまえば、相互監視は機能不全に陥る。を止められないからだ。

 それどころか、本来は止めに入らなきゃならない周囲の者さえ、むしろ巻き込まれて争いを拡大させることになる……》

「つまり、有力者同士の派閥闘争という形で内部対立を煽れば」

 話の先を読んだミハイロヴィチが、投影図形に手を入れ、割れたピラミッド上層の断片同士をぶつけ合わせた。

 立体画素ソリッド・ピクセルの塊が砕け散り、光点群が霧散してゆく。残ったのは、ふたたび〝国家〟を最上位に戴く形へと戻った人類文明圏。

「――〈劫院クロノン〉そのものを瓦解させることもできる、と。お前の狙いはこれだな」

《同等の特権に守られた管理者同士が、分には、適法性うんぬんは関係ない実力勝負だからね》

 ゆっくりと自転する多色の角錐をその場に浮かべたまま、トマスは細い肩をすくめた。

《もちろん犠牲は最小限に抑えるつもりだけど……負ければ賊軍だ。過分な遠慮はできかねるし、無血革命とはいかない。警兵としては、せめて民間人に被害を及ぼさないよう努めるのが、最後の線引きだと思ってるよ。

 ただの小競り合いじゃ駄目なんだ。構成員の誰もが無関係でいられないような、カルテルを二分する抗争にまで発展させなければ……これを制してようやく、連邦の内政を浄化する要件が整う》

 納得した様子で、ミハイロヴィチが小さく頷いている。

「なるほどな。〝まともな連中〟とやらを味方につけたいなら、確かにこれは足を運ぶべき用件だ。確かな勝ち筋とそれなりのリターンを見せてやらねば、首を縦に振る者はおるまい」

《いまどき三顧の礼まではいかなくても、一度は会っておかないと、互いに測れないものもあるしね》

 連絡先が分かる相手なら、超光速通信で話すこともできよう。しかし今回、カノーヴァ派は穏やかならぬ暗闘の助太刀を乞う立場であり、相手には大きなリスクを負わせる形となる。

 こちらも同じくリスクを負うという覚悟を示し、信用を得る意味でも、やはり重要人物とは実際に会う必要があった。

「我々が訪ねる人物だが、具体的には〈劫院〉内部で味方にできそうな銀河貴族、もしくはその代理人あたりということでいいのか?」

《それもあるし、敵対門閥を抑える上で役に立ちそうな、外部の有力者もリストアップしてあるよ。ちょっと見るかい――》

 この場に物理肉体を置く三人の眼前に、それぞれ人名のリストが投影される。丁寧なことに、所属や直近の所在地、作戦上の重要度まで付記された資料だ。

 重要度の低い人物まで含めると、総勢二百人近くに上る。全員に会うとなると、表向きの航行スケジュールでは到底時間が足りない。〝テオフラスト〟だけで手が回らない分は、カノーヴァ派の別働隊が担当するということらしい。

 アンジェラはリストを重要度順にソートし、上位数人の名と肩書に目を走らせる。知った名も、知らぬ名もあった。

 星間安全保障シンクタンク〝ロウドロア〟代表取締役会長、パニーラ・イレンセン・メルバーグ。

 リガローク星皇国せいおうこく第一皇子、テオドール・ゴットフリート。

 同国・輝煌きこう騎士団首席参謀、ローラン・ローゼンクランツ。

 マグダレーナ派キリスト教会、主教メレイナ。

 そして、リストの筆頭――

 様々な分野の有識者・実力者が名を連ねる中にあって、ただ一人〝必須〟の重要度を割り当てられた女。

 その名を初めて目にしたであろうジェシーが、首をひねった。

「禁制技術〈金竜機関ファフニール・エンジン〉管理者、カノーヴァ当主……シャーロット・フランシスカ・カノーヴァ……?」

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