ルドルフ・ゲーンハイム(1)
しゅっと小さなスライド音を立てて、独房の扉が開く。
「釈放だ。出ろ、三等巡佐」
収監されていた中年の男――
「思ったより早かったな」
入管ステーションで情報検疫部隊に捕らえられ、警兵服のまま一時拘置区画へ押し込まれてから、およそ六時間。最短でも三日は勾留されるだろうと覚悟していたルドルフにとって、歓喜より不審が先立つ急転だった。
逮捕と同時に切られていた警兵服のパワーアシストや、補助脳の通信機能は確かに
ならばとその場から星系ネットに接続してみれば、事情はすぐに知れた。
「勾留取消請求のサインは……カノーヴァ上級邏将? ははァ、手続きがすんなり通るわけだ」
何らの秘密も複雑性もない。権力による不当逮捕を、別の権力による横槍で取り消させただけだ。
己を自由にした書類を仮想視界で眺めつつ、監房を出る。
「押収した装備や私物類はまとめてある。速やかに退出し、警務に復帰されたし」
廊下で待ち受けていた看守が、事務的な口調で伝達事項を読み上げる。ルドルフの口端が歪んで、仄苦い微笑を象った。
「尋問中の容疑者を殺害したとかなんとかの嫌疑で、話も聞かず一方的に拘束された件に関しては、釈明も謝罪もなしかね……」
「我々も、一方的に貴官の身柄を押し付けられただけだ。文句は検疫部隊に言ってもらおう」
突然不可解な命令が下ったり、短時間のうちにそれが取り消されたりしているときは、たいてい利害を異にする権力者同士の暗闘が背後にあるものだ。CJPOで暗黙の常識となってしまっている状況判断則を盾にされては、看守を責める気にもなれない。
お互い苦労してるな――と、視線に労りを込めて一礼し、ルドルフは監房を後にした。
「ほお……ふうん……? こりゃ胡散臭い筋書きだなあ。誰が考えてんのやら」
投獄中に進展があったエジモンド事件の状況を、流れてくるログと解禁され始めた報道で追いつつ、ネグリの取り調べを行っていた部屋まで戻る。先に解放されていたらしい部下たちが、廊下に並んでいた。肩肘の角度をざっと揃え、上官の復帰に敬礼を寄越してくる。
「ん。ご苦労。ちょいと中、見せてくれや――」
ルドルフは左右に敬礼を返しながら歩き、そのまま取調室に入る。
当然ながら、ネグリの死体はない。構内ネットワークと環境中ナノマシン群からも情報を取得するが、何のデータも残されていなかった。まるで造成直後の、誰も使っていない部屋のようだ。備え付けられたカメラやマイクの記録はおろか、ヒトが活動する場所なら本来あるべき分子レベルの残留物さえ、きれいに掃除されてしまっている。
「検疫部隊の奴ら、外来の病原体やら攻撃型ナノマシンやらの汚染が疑われるとか言って、
「とにかく全力で空間洗浄。高リスク緊急事態が疑われるときの対応としちゃ、悪くないだろうさ。その分、証拠隠滅の口実としても便利に使われるわけだが」
新品同様に洗い清められた椅子にどかりと腰を降ろし、ルドルフは部下たちの前に文書ファイルを投影した。トマス・カノーヴァのサインが入った勾留取消請求書だ。
「誰か、これ見た奴いるか。俺たちみんなを自由にしてくれた、ありがたーい免罪符の写しなんだが」
「いえ、佐官以上のクリアランス・レベルが設定されていましたので……このサイン、カノーヴァ上級邏将ですか? 縁もゆかりもないお貴族様が、なぜ我々を?」
全員の疑問を代弁したであろう副官の問い。訊かれたところでルドルフには説明できない。刑事寄りの警兵としてそれなりのキャリアを積んできた自負はあるが、追っていたわけでもない銀河貴族が絡む暗闘となると、その政治力学にさほど通じているわけではないのだ。
だが、ルドルフの部隊と直接の関わりを持たないカノーヴァ上級邏将が、どういう繋がりでこの申請を出すに至ったかは容易に推測できる。
「まったくよお。おやっさんには頭が上がらんわなあ……また一つ、借りが増えちまった」
ぼやいたその声で、副官以下一同も救い主の正体に思い至ったらしい。
ルドルフ・ゲーンハイムが〝おやっさん〟と呼ぶ相手は、宇宙にただ一人。
ミハイロヴィチがトマス・カノーヴァと昵懇の仲であることは、秘密でもなんでもない。CJPO内では異端者の寄せ集めと見られている、弱小派閥〝カノーヴァ派〟の領袖がトマスであり、ミハイロヴィチはその腹心あるいはナンバー2として、実働を担う立場にある。
ルドルフ自身は組織内政治を厭い、恩師の派閥とさえ一歩距離を置いた付き合いを続けてきた。無党派のはぐれ者だ。カノーヴァ派にとってみれば、最大勢力たる保守派の意向に逆らってまで助ける義理はない。
それでも部下ともども助けてくれたのは、畢竟ミハイロヴィチの個人的な厚情なのだろう。そう察せられるからこそ、未だ師に面倒を見てもらっている己が情けない。
佐官となり、後進を指導する立場になった。齢五十を超えて、いつしか一人前の警兵を名乗れるつもりになっていた。
何を思い上がっていたのか。これではまだまだ、半人前だ。
「……お前ら、時間外ローテーションで〝ハロルド禍〟の情報集めるぞ。このままお蔵入りにしてたまるか」
エジモンド事件に関しては、すでに捜査の一切を凍結するよう上から命令が出ていた。しかしこの場の誰にも、従うつもりがないのは明らか。
巨大な犯罪の影を目にしながら、それを暴くどころか隠蔽に加担し続けるなど、およそ警兵のあるべき姿ではない。
「また
「大人が格好のつかない仕事してたら、後の世代が続いてくれねえだろうが」
ミハイロヴィチに警兵の職業倫理を叩き込まれたルドルフが、その教えを受け継ぎ伝えた次代の若者たち。
かつては皆、荒んだ目をしていた。そういう連中を集めたのだ。いま頷き笑う彼らの瞳は、理念に生きようとする者の、澄んだ愚直さを共有している。
半人前の三等巡佐であっても、この一事だけは天に誇れる。
政府のでも企業のでもなく、人民の守護者として立つ兵たちを育てた。今日より明日を、少しだけマシな世界にするための、これとて戦い方の一つ。はぐれ警兵、ルドルフ・ゲーンハイムはそう信じる。
「中央議会、CJPO上層部、星間企業体群……事情を知ってそうな奴を、末端から切り崩せ。金も
……悪党相手なら、遠慮は要らねえ。不良警兵らしく、汚い立ち回りをご覧に入れようや」
当然ながら警兵とて、本来は違法な手段で捜査をしてはならない。部下に無給の時間外労働を強要するのも御法度だ。
しかし著しく集中した金や権力の前では、しばしば法さえ無力になる。
そうした現実を踏まえ、法の機能不全を補うべく〝超法規的警務活動〟を自ら任じた不良警兵集団。それこそがゲーンハイム隊の本質。隊員一同、純粋に正義への意志を抱懐していようとも、公務員としては決して善良でも高潔でもない。清き理想を追い求める、穢れた猟犬のごとき者たちであった。
悪には悪を以てせよ。危険な思想と言ってよい。善悪の見極めを誤れば、単なるダークヒーロー気取りの弾圧者へと、容易く堕する道。ルドルフは百も承知の上で、己の教え子たちを師とは違った形で鍛えた。
犯罪者になろうと、汚職警兵と指さされようと、それが必要ならば行動あるのみ。名より実を。建前よりも結果を。合法性より民の安寧を、正しきが報われ悪が罰せられる社会を、彼は望んだ。
ミハイロヴィチの理想に共鳴しながら、彼に顔向けできぬ道を選んだ。今日までカノーヴァ派に加わらず、孤軍であり続けたのもそれが理由だ。
誰に想像できよう。主星系の裏社会に〝毒牙の狂犬〟と恐れられるルドルフ・ゲーンハイムが、ただ後ろめたかったのだ。
そんな自分を、師父はまた救ってくれた――。
薄汚れた義心と、癒えぬ悔恨を胸に。獄から放たれた男は、自らの意思で、ふたたび闇の中へと踏み出してゆく。
主星系の片隅でまた、ひとつの暗闘が静かに始まる。
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