ミハイロヴィチ・ディミトロフ(5) /           ( )

 ミハイロヴィチ・ディミトロフは記憶の再生を中断し、基底現実へと意識を浮上させた。

 自分がヴァナー・エジモンドではなく、試験技術運用艦〝テオフラスト〟の戦闘指揮所CICにおり、艦長席に座っていることを再確認する。

「……なるほど、これは〝ふざけたクソ犯罪〟に違いあるまい」

 犯人と接触中のルイスから後送されてきた記憶データは、まさに劇薬であった。先遣艦隊の調査データ改竄。〝高強度緊急危機管理手順カルネアデス・プロトコル〟の無意味な発動。すべてがヴァナー・エジモンドの妄想でなければ、二段構えの隠蔽で守られていた真実とは、いわば一つのに他ならない。

 十億の死という結果は変わらずとも、そこへ至る過程がまるで違うとなれば、意味が変わる。必要不可欠の犠牲ではなく、無辜の民への虐殺――二十年余りを経た今でも、連邦の屋台骨を揺るがしうる大不祥事となろう。

 リザレス・ネグリが暗殺された理由も、いまなら推し測れる。

 彼は当事者としてこの件を知っていた。何らかの口止めがあったか、保身のために自ら口をつぐんだかは不明だが、とかく秘密を固く守って、今日まで生きてきた。だがエジモンドの共犯者として逮捕されたネグリが、尋問の中ですべてを吐いてしまえばどうなるか。

 どうともならない可能性の方が、高かったはずだ。これほどの陰謀を隠し遂せてきた何者かが、汚職警兵ひとりの証言を揉み消す程度の工作、事後でもしくじるとは考えにくい。それでも、は小さなリスクを看過せず、先んじて潰す道を選んだ。あるいは今も数多く存命するかつての先遣艦隊クルーに対し、〝ハロルド禍〟の闇を掘り返そうとすればこうなる――という見せしめを企図したものかもしれぬ。

 結果的に、陰謀者たちの取った対応は正しく、しかし成功しなかったと言えよう。大いなる穢れた秘密が、他でもないミハイロヴィチ・ディミトロフの手に渡ってしまった現状こそ、その証明である。

「クシウス、エジモンドの記憶を解析に回せ。データの正当性検証が最優先だ。バックアップも忘れるな」

「そのへんは艦長があいだにやっときましたよー」

 呼ばれるのを待っていたかのように、ジェシー・ロックウェル・クシウスの投影体が傍らへ出現し、解析結果を差し出してくる。神妙な顔つきは、エジモンドが寄越した記憶の内容まで、すでに了解済みであることを示していた。

「ハッシュチェーンの連続性、量子エンタングルメント・ヒストリ整合性、ほか主要なチェック項目をすべてクリア。改竄も合成もありません。なまの知覚データから生成された、本物の記憶です。

 ……新人ちゃんのスタンドプレーから、だいぶヤバいネタが出てきましたねえ。どうします、これ?」

「どうもせんよ――とりあえずはな。我々はまず、目の前で進行中の事件を処理せねばならん。どれほどの大規模犯罪であろうと、過去の別件についての本格的な捜査は、後回しだ。

 ただ、我々がこの情報を手に入れたことは、察知されんようにしておけ」

「ま、そんなとこですよねー」

 思いがけず手に入った大犯罪の証拠。ミハイロヴィチとて、捨て置くつもりは毛頭ない。だが、これほどの巨悪を打倒するには、証拠物件ひとつ手にした邏将補程度の力では、到底足りない。

 いまは、まだ届かぬ。いずれは、必ず届かせる。

 独りではない。トマス・カノーヴァと〝Q〟をはじめ、同志がいる。〝真の敵〟と戦うために得るべき力への道筋も、すでに見出している。

 そのためにも、警兵の本分を愚直に果たしてゆくことこそ、ミハイロヴィチ・ディミトロフの役割ロールである。〝政治に関心を持たぬ、叩き上げの老警兵〟という虚像を、当面は演じてみせる必要があった。

「……先ほどまでに観た記憶は、エジモンド自身の動機にまつわる部分だった。本件における目下の最優先事項、禁制技術の入手過程についての情報は、この後の歳月にこそ収められているだろう。

 を再生する。バックアップは任せたぞ、クシウス」

「あ、じゃあこっからはわたしも潜りますね」

「なに――」

 返答する前に、ジェシーの没入ジャック・インに引きずられ、ミハイロヴィチは再び過去の宇宙へと遡ってゆく。



「……情報提供に感謝する。自分が何をやってしまったのか、すべてが隠蔽される前に知ることができた」

 難民たちの鏖殺が完了し、錯乱状態にあったヴァナーが暴れる気力すら失くしたころ。彼は救援艦隊旗艦へ移送され、司令官じきじきの事情聴取を受けていた。

 艦隊司令、一等巡佐コルダント・フィルエマーネル・オーラシュトーノ。

 外見年齢は四十歳ほど。精強な肉体と、深い理知を湛えた目の男。しかしこのとき、彼の肩は怒りの重さに震え、瞳はどこか投げやりな虚無を内包していた。

 防疫のためと政府が下した決定に従い、良心の呵責を敢えてねじ伏せ、救うべき民への攻撃命令を発した。それが虚報に踊らされた無為の虐殺であったと知れば、まともな人間はこうもなろう。ヴァナーはぼんやりと霞のかかった頭で、目の前の人物を値踏みしていた。

 ――

 一緒に恨んでくれ、とレナは言った。問題は、誰を恨めばいいかだ。確かにオーラシュトーノは虐殺の最終命令を出したのだろう。その結果、レナは死んだ。直接の仇と考えることも、できる。

 だが彼も末端に過ぎない。走狗であって、黒幕ではない。

 悪いのは誰だ。

 恨むべきは。憎むべきは、誰だ――。

 譫言のようなヴァナーの話と、介添として同席するネグリが口しげく挟んだ補足説明を聞き、オーラシュトーノが導き出した解は、誰もが知る星間企業の名であった。

「消去法で行けば、仕組んだのはドレクスラーだろう」

「一等巡佐、そりゃどういうわけで……?」

 ネグリの抽象的な問いに、返されたのは単純な推理。

「貴官ら先遣艦隊の調査要員が〝救助可能〟の結論を出していたなら、それが真逆の報告にすり替わるタイミングは二つしかない。

 本隊で調査結果を受け取り、最初に開封したか。さもなくば、ナノテク関連の技術管制オブザーバーとして先遣隊に同行し、レポートの最終チェックを担当していた、ドレクスラーの社員かだ」

「いや、確かに奴らならかもしれませんが……いったい何のために?」

「金儲けだよ。たぶんな」

 ネグリが絶句する。ヴァナーはというと、意味を理解できていなかった。

 ――あれほどの破壊と殺戮で、

「ロジックとしては難しい話じゃない。主星系に急報が入って、四半日も経たないうちに算盤をはじき終えた、奴らの人非人にんぴにんぶりには脱帽するが……しかしまあ、艦隊司令ともあろう者が、あんまり憶測で陰謀論じみたことを言うのも、立場上よろしくないからな。

 今回の一件で、フォルグは星間国家として自立できないほどのダメージを受けた。ここからの復興状況を見ていろ。それで、俺の予測が正しかったかどうか、わかる」

「そんな……憶測でもなんでもいい、聞かせてくださいよ! これじゃあ、こいつが浮かばれねえ。あんまりだ……!」

 かぶりを振るオーラシュトーノは、この短い会話の中で二十歳も老け込んだかのように見えた。

「――すまんな、ネグリ警兵長。俺はもう……疲れた。愛想が尽きた。

 CJPOメガリスにいる限り、銀河貴族と腰巾着どもの腐ったシナリオに付き合わされる。だったら、この世界を良くするためには……別の戦い方を選ぶしかない。今回の件で、それがわかった」

「待ってください……巡佐! オーラシュトーノ一等巡佐っ!」

「〝高強度緊急危機管理手順カルネアデス・プロトコル〟の発動さえ、機密扱いになるそうだ。というやつさ……〝事故死〟したくなければ、お前たちがあそこで見たことは今後、決して口外するな。記録にも残すな。俺も、そうする」


 このあとエマーネル・オーラシュトーノは、恒星間疫病流行インターステラー・パンデミックを未然に阻止した功績により、生きながらにして二階級特進の栄誉を得る。

 だが、とはいえ、彼ら自身に罪があったわけではない難民たちを。そのことで心に傷を負い、主星系へ帰還後、彼は名誉除隊の扱いでCJPOを去る。以後の行方は、杳として知れない。

 そうした顛末は後にネグリから聞いたもので、ヴァナーにとってはどうでもよいことだった。肝心なのは、真に憎むべき仇の目星がついたこと。

「なあ、オイ……奥さんは確かに、仇を討ってくれっつったけどよ……一等巡佐もああ言ったことだし、頼むから、馬鹿な気は起こすんじゃねえぞ」

 オーラシュトーノによる取り調べの後、ネグリは必死の形相で、ヴァナーに誓いを立てるよう迫った。

 復讐など考えるなと。誰も恨まず、人生をやり直せと。

 レナが言いかけて否定した、〝善く生きるリヴィング・ウェル〟という未来を、敢えて選べと説いた。

「巡査の読みが当たってるとしたら、相手が悪すぎる。俺ぁ、これでも警兵だからよ……企業連がどんだけヤバい力を持ってるかだって、あんたよりは詳しい。そん中でも、ドレクスラーは別格だ。

 絶対に――いいか、絶対にだ――奴らに喧嘩を売るな。無理だ。勝ち目はねえ。

 ドレクスラー・コーポレーション。

 ナノテク産業の支配者。あらゆる工業分野に不可欠の技術基盤を有し、銀河系最大の企業グループを統べる、神のごとき持株会社ホールディングカンパニー

 知ったことではなかった。

 敵がどれだけ強大であろうと、関係ない。皮肉にもネグリの気遣いが、ヴァナーに進むべき道を明視せしめた。もはや決意は揺るぐことがない。これより生きるすべての時間が、怨念の器として戦うべき余生。

 いかなる手を使っても、何十年の時を費やしても、必ず復讐を成し遂げる。レナと、フォルグの宇宙そらに撒かれた億万の死者のために。

 かくて新たな物語の中へ己を投じたヴァナーは、その第一歩を、偽りの誓約で以て記す。

「……ああ、わかったよ。星間企業と戦うなんて、僕には無理だ。

 悔しいし、許せないけれど……無駄死にすると解ってて復讐に生きられるほど、僕は強くないし、愚かでもないよ」

 安堵の息をつくネグリに、ぎこちなく微笑みかけながら、ヴァナーはそれとわからぬような嘆息で応じた。

 知り合って間もないが、彼のことはもう友だと思っていた。あんなことにならなければ、家族ぐるみで友人付き合いをしていく未来もあり得ただろう。

 いまは、ただ残念だった。

 これからは――いまこの瞬間からは、本当の友ではいられなくなる。使命を果たすための道具として、この男の善意と弱さを利用していかなければならなくなる。

 それが、ヴァナー・エジモンドの新しい役割ロールだから。

 この凡庸な演者アクターが唯一生きるべき、復讐者としての〝シナリオ〟なのだから――。



「エジモンド氏、だいぶ自分を追い詰めちゃってますねー。を考えれば、無理もない話ですけど……」

「奴の心情を慮ることは、我々の目的ではない。この場面では、オーラシュトーノ一等巡佐の言動こそ注目に値する」

 復讐鬼としての新しい自我を、砕けた心の残骸から再構築しようとするエジモンド。その孤独な背中を、ミハイロヴィチとジェシーが未来から見ている。

「検閲される前の作戦ログ原本にさえ、ここまでの事実が記載されていなかったのは、情報そのものの危険度が段違いだったからだろう。

〝必要に迫られての除染〟であれば、機密として保持する価値もある。だが、倫理を顧みぬ営利の虐殺となれば……記録を残した者も、それを閲覧した者も、ともども命の危険に晒される。

 ましてや相手が、ドレクスラーとなればな」

 その社名を唱えるミハイロヴィチの顔に、驚きの色はない。どこかで予期していたが、本当にそうであってほしくはなかった――そのような、忌まわしげな納得が表れている。

「ドレクスラー・コーポレーション……ナノテク絡みの陰謀とくれば、まぁ正直、真っ先に浮かぶ容疑ではありますが……〝金儲け〟ってのは、どういうことでしょう。

 感染症予防の名目で難民を殺戮するなんて、とんでもないことをわざわざやらかさなくても、どうせ回ってくる復興利権でクリーンに儲けられたんじゃありませんか?」

「災害特需で一時の儲けを得ることなど、奴らにはどうでもよかったのだろう」

「はあ……?」

 不本意そうに訝るジェシーを、曾祖父ほども年の離れた老将は、常ならずいつくしげに窘めた。

「この件について無理解を恥じることはない、クシウス。お前の感覚は健全だ。ただこの銀河には、十億の殺人を〝とんでもないこと〟とも看做さぬ、経済の怪物が巣食っている。

 おそらくはエジモンドも、この先でを見たのだ。オーラシュトーノから聞いただけでは想像もできなかった闇の、結実せる成果を……」



 それからの記憶は、ひどく断片的なものだった。

 人の記憶は現在に近づくほど鮮明になるはずであるのに、ヴァナー・エジモンドの人生はあの日から、まるで空疎な白日夢の寄せ集めに過ぎなかったかのようで。


 フォルグ星圏での〝除染〟が後始末まで終わると、艦隊は撤収を始めた。

 そのさなか、佐官以上の警兵が持つ司法代行権により、旗艦内でヴァナー・エジモンドの略式裁判が行われた。

 オーラシュトーノの配慮で刑は大幅に減じられ、高位技術の密輸という重罪ながら、判決は懲役五年。収監先も悪名高き〝巨獄グローセス・ゲフェングニス〟ではなく、地元ネンティスの一般刑務所へ送られることが決まった。世間の目に触れず、中央やドレクスラーに気取られるリスクも低い。内々の処理だからこそ可能な厚遇であった。

 ヴァナーがそれに感謝することはなかった。

 難民たちを撃ったCJPOも、彼らに合法的虐殺を命じた連邦政府も、結局は敵だ。

 粛々と反省を装い、憎悪は悲しみで押し隠して。不幸な運命に拉がれるばかりの、哀れな寡夫を演じた。

 別れ際に、ネグリから連絡先を教えられた。刑期を終え、社会復帰を果たしたら、自分を訪ねて来いと。きっと力になるからと、長年の親友にするような約束もされた。

 ヴァナーはただ苦笑で応えた。微かな罪悪感がよぎり、瞬く間に砂となって、消えた。


 連絡艇で護送され、ネンティス星邦主星、ラダンへ戻った。

 ほんとうならレナと帰ってくるはずだった故郷。いまはひとりだ。これからも、ずっと。

 両親は生きているはずだが、技術犯罪者となった息子に、会いには来なかった。


 監獄の中では大人しく、目立たぬように過ごした。

 決められた生活サイクル。変わり映えのない刑務作業。日々思うのはレナのこと、復讐のこと。思い出を愛でては、殺戮の光景を呼び起こし、愛と憎しみが風化せぬよう、心に刻み続けた。


 一月ひとつき二月ふたつき――。


 一年、二年――。


 瞬く間に歳月が過ぎ、気づけば刑期は終わっていた。

 何ら得るものなく空費した五年を背に、刑務所を出る。

 その時間が変えたものはヴァナーではなく、外の世界。

 フォルグ星圏で起こったナノマシン・ハザードは〝ハロルド禍〟と呼ばれるようになり、極大技術災害の一つとして、歴史の教科書にも載るようになっていた。

 だが事件の詳細な記述はなく、救援艦隊が難民を――無意味に――虐殺したことなどは、一語として触れられていない。代わりにあらゆる資料で強調されていたのは、復興中のフォルグで始まり今なお続く、奇跡のごときについて。

「先進、技術、特区……? なんだ、これ」

 過ぎた五年の空白を埋めるべく集めた情報は、過去の惨劇に対する一般化された哀悼と、それを押し流そうとするかのような称賛。称揚。賛辞の雨。

 ドレクスラー・コーポレーション主導による復興支援。採算を度外視した集中的資本投下。すべては人道への奉仕。最大級の規模を誇る星間企業としての、社会的責務遂行のため。

「待てよ」

 喪失した行政機能を立て直し、一刻も早く人類居住圏として星間社会に復帰すべく、フォルグ星圏はとして再編されることが決定。ドレクスラーをはじめとするいくつかの星間企業へと分譲、直轄管理されることとなり――。

「待て、待て、こんなの――」

 テクノロジーの守護者たる〝銀河貴族〟の御膝下に入ったことで、法定技術レベルの大幅な引き上げも承認された。ナノテク、重力制御、準永久機関――三種の神器と呼ばれる高位技術のすべてが利用可能。主星系に次ぐ先進技術が認可されたことで、激減した人口は急速に補填されつつある。

――」

 新生フォルグの民は未曽有の技術災害テクノハザードを乗り越え、深い悲しみをバネに、いま復興を超えた発展の湧昇流に乗っている――。

「フォルグの、だと……だと……復興を超えた、……?」

 ――金儲けだよ。たぶんな。

 秘密裏の事情聴取で、オーラシュトーノが投げやりに放った言葉。昨日のことのように覚えている。今日まで半信半疑だった。いくらなんでも、そんなに安っぽい悪が実在するのかと。

 小市民ヴァナー・エジモンドにとって、億人単位の死とは世界のパラダイムを永久に変えてしまうような歴史的事件であり、いかなる意味でも経済活動の枠外に置かれるべき事象であった。いっそカルト的教理に基づく儀式か、イデオロギー的な粛清とでも言われた方が、まだしもリアリティを感じ得たかもしれぬ。あれほどの犯罪、ひとつの星系世界を滅ぼすような陰謀を企む者たちが、その強大な権能をただカネのためだけに行使する、などというナンセンスに比べれば。

 しかし、現実はだったのだ。

 復興特需。理屈はわかる。ナノテク災害の後始末を、ナノテク産業のトップが請け負い、莫大な需要と雇用が生じたことだろう。ドレクスラーの株価も跳ね上がったことだろう。いったい銀河系全体で何億、何兆リナールの金が動いたか。一介のもと鉱山技師には、想像すらできない。

 想像すらできなくとも――所詮は、金だ。

 数値化可能、計量可能、交換可能な価値の象徴物トークンに過ぎない。

 十億の生命を、十億の死を、ドレクスラーはただのに換えたのだ。そこまで構図を単純化して、ようやくヴァナーは納得を覚えることができた。どこか失望にも似た味の、奇妙な納得だった。

「こんなっ、ことが……赦されるはずがない、赦されていいはずが……」

 喉と手を震わせながら、ヴァナーがとっさに探したのは、怒りを共有できる誰かの声だった。という度し難い愚行に手を染め、金に換えてはならぬものを市場原理の天秤に乗せたドレクスラーを、糾弾する市民の声があって然るべきではないか。

「誰か……」

 誰かが、戦っているのではないか――と思いたかった。

 あれほどの虐殺、完璧に隠し遂せたはずはない。自分が獄中にいる間も、あの場から逃げ延びた誰か、あるいはCJPO内部からの告発者、リークによって知り得た第三者……誰かがこの巨大な不正義に対し、戦いを挑んでいるのではないかと。

「いないのか、いるだろう、誰か……!」

 広告業者の打った仰々しい復興PRキャンペーンが、映像や全感覚記憶の形でも、星系ネットに垂れ流されている。ヴァナーはそれらを観て、追体験して、日が傾くまで食事も忘れ、がむしゃらに歩き回った。


 ――そうして、巨悪ドレクスラーを断罪する声は、ついに見つけられなかった。

「……ふ、っく、へはは」

 擦り減った衝動の跡形に、ひとつの悟りが滑り落ちてくる。

 誰も戦わなかった。真実を告発しなかった。あるいは、自分以外にあの日のフォルグから生還した民間人など、最初からいなかったのかもしれない。

 夢の終わりを見たはずなのに、自分はまた、甘い夢の中へ逃げ込もうとしていたのだ。

 ――しっかりしろ。僕しかいない。

「ドレクスラー……ハハハ、ドレクスラー、ドレクスラーァァ……!」

 戦えるのは自分だけ。当然ではないか。これはまったく私怨に基づく私戦、勝ち目のない無謀な闘争なのだから。

 誰かを頼れるつもりでいたのか。誰かが「お前こそ正義だ」と認めてくれることを期待していたのか。心底くだらない、気の迷いだ。

 甘えるな。縋るな。誰もお前を助けられない――かく自己批判を繰り返し、ヴァナーは五年前の転生を再演しようとする。

 弱者のままでは戦えない。何度でも己を殺し、復讐者へと生まれ直さねばならない。あの日、決意した通り。

 一人でやるのだ。

 ヴァナー・エジモンドが、独りで戦うしかない――。



「災害特需というのは、必然的に復興が終わってしまえば終息するものだ。先進技術を有する系外企業が、被災地を永遠に食い物にすることなど、あってはならぬし、出来もせん。通常であればな」

 ぶつぶつと呻きながら歩くヴァナーを、斜め上の空中に浮かんだまま、ミハイロヴィチとジェシーが追う。

「しかし――連邦政府の要請を受ける形で、信託統治領としてに編入してしまえば、企業はその地を合法的かつ恒久的に所有できることとなる。フォルグをまるごと吸収できれば、星間国家ひとつ分の、意のままにデザインできるが手に入るわけだ。企業連にとっては、一度きりの特需で得られるあぶく銭など比較にもならん価値がある」

「そのために、当地の住人をほとんど殺し尽しても、ですか……?」

 仮想空間にいながら、日ごろ茫洋としているジェシーの顔は蒼褪めていた。理解したのだ。ドレクスラーのシンプルな貪欲さが、どれほどの狂気を秘めていたか。

「連邦支分国が企業の直轄領となり、技術レベルの大幅な引き上げまでも行うには、被災地の産業、経済、生活、政治……あらゆる社会基盤が全面的に崩壊するレベルの、明白な〝介入の口実〟が必要となる。

 、奴らはのだ」

 事後調査により、〝ハロルド禍〟の始まりは完全な偶発事故であったことが判明している。感染経路、病原体の来歴、いずれも検証可能なデータが早期に出揃っていた。

 そのことも手伝ってか、事態の悪化にドレクスラーの関与があったなどと、世間に疑われることはなかった。当然であろう、とミハイロヴィチは思う。誰がこんなタイムスケジュールを想像できるというのか。

 たまたま飛び込んできた惑星間疫病流行インタープラネタル・エピデミックの急報を受けて、救援艦隊が編成されるまでの、のうちに。

 データを集め、検討し、リスクリターンの計算を終え――行動計画を作成し、人員を手配し――事前から事後にわたる社内外の情報統制を含めた、諸方面への根回しも済ませ――そうして何食わぬ顔で、先遣隊に自社のオブザーバーを乗り込ませるところまでやってのけた、などと。

「まったく怪物じみた有能ぶりだと思わんかね。オーラシュトーノが〝人非人〟と呼んだのも頷ける。時系列を確認したとき、私は震えたよ」

「当時のフォルグは、低位技術圏ですから……ドレクスラーにとっては、自社と直接取引できない人口がごっそり削れても大して困らない、みたいな経営判断だったんでしょうか」

 おずおずと応じるジェシーの推測に、老将は重い頷きを返す。歳月が叩き上げた堅牢な自制。その内側で、ミハイロヴィチの怒りはすでに明確な指向性を成しつつあった。

「まさに、経営判断だ。十億の殺害は奴らにとって、犠牲コストですらなかった。レポート一つ改竄するだけで排除できる、開拓予定地の雑草かなにかだったのだろうよ――」

 ドレクスラーも、その経営血族たるアーレブリュート一統も、いまは手が出せぬ強大な敵である。だがトマスや〝Q〟と共に連邦の腐敗を正してゆくならば、いずれは対峙するときが来る。

 その意味で、ヴァナー・エジモンドは同じ敵と戦う先駆者でもあった。警兵として追い詰めるべき犯罪者でありながら、ミハイロヴィチはこの男の中に、自分が辿り得るかもしれぬ失敗の道筋を見ていた。

「ここでエジモンドは、一人で戦う決心を固め直した……最も無謀であるはずの道を、選んでしまった。

 だが、ここからだ。執念だけでは、十七年後の中央襲撃には届かなかったはず……」


 ヴァナーがこのとき、かつてレナと暮らしていたころほどに冷静であれば、別の道を見出し得ただろう。

 フォルグ崩壊の真実を報せる最初のメッセンジャーとして、いずこかの有力な反連邦勢力に身を投じてもよかった。たとえば〈解放星団リベレーション・クラスター〉。革命義勇軍〝ザナドゥ〟。はたまた、暗黒星雲に潜むという宇宙海賊ギルドでも、数多の地下組織と繋がりを噂されるマグダレーナ派キリスト教会でも、一定の成果を上げただろう。

 だが、このときの彼は冷静からほど遠く――また自省の余裕を取り戻す前に、最も致命的な出会いを果たしてしまう。

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