アンジェラ・カノーヴァ(5) / ヴァナー・エジモンド(1)

 迂闊だった。

 痛恨の念とともに、ヴァナー・エジモンドは直近の己の行動を顧みる。焦るあまり判断力を欠いていた。まるで自分が何物にも邪魔されないような、すべてが都合よく運ぶような気がしていたのだ。

 レナと暮らすうち、自分まで物語の中を生きているつもりにでもなっていたのか。度し難い錯誤。彼女が現実を劇的に彩る主人公ヒロインだとしても、その夫である自分までが、運命に祝福されたヒーローになれるわけではないというのに。

 だからこそ、こうして避難民たちの船団を目前に捉えながら、自らがCJPOに拘束されるような失態を犯しているのではないか――。

「そう不貞腐れなさんなって。なにも武器や毒物を持ち込もうとしたわけじゃなし、身内があそこにいるってんなら、情状酌量の余地も認められるだろうさ。目的は俺たちと同じだからな」

 仮想スクリーンを顎でしゃくり、若い男の警兵が苦笑を投げて寄越す。投影された艦外風景には、魔病の嵐が吹き荒れるフォルグ中央から離れようと押し寄せてきた、難民船団の群れなす灯光が映っている。

 あの中に、レナとその両親がいる。

 いるはずだ。無事に脱出できていれば。そうでない可能性は、ひとまず考えない。

「感染状況の調査が済んで、本隊が救援物資を持ってきてくれりゃあ、あんたも奥さんと面会ぐらいさせてもらえると思うぜ」

 ヴァナーを元気づけようとしているものか、若い警兵はしきりに楽観的な予測を口にする。が、そもそも船団へまっすぐ飛び込もうとしていたヴァナーを、人型全領域戦闘機シングラルで個人艇ごと拿捕したのはこの青年である。励ますくらいなら、そもそも逮捕しないでくれ――と恨み言を言いたくもなる。

 もっとも、捕らえた犯罪者は艦内独房に叩き込むのが通例であるところ、誰も使っていないからと居住区画の空き部屋を提供してくれたのも、この青年である。監禁される環境が多少マシになっただけとはいえ、すでに破格の便宜を図ってもらっている身では、あまり強くも出られない。こんなときでも小市民的な気性から逃れられない、ヴァナーの限界だった。

「そうなるといいね……でないと、無駄な違法行為をいくつも重ねてまで駆けつけて、あげく技術犯罪者になった甲斐がない」

「だーかーら、腐るなって! なんなら、本隊を指揮してるオーラシュトーノ一等巡佐に直訴してみてもいいぜ。あの人は話の分かるタイプだ。ワイロは効かねえが、事情を正直に話せば、うまくすると執行猶予は付けてもらえるかもしれねえ」

 ヴァナーの屈託をよそに、知ってよいものか怪しい内部情報までぺらぺらと話してくれる青年警兵。左手薬指に投影された光のリングは、既婚者であることを示す古風なサイン。妻を救いに来たというヴァナーの事情を知って、なれなれしいまでの共感を示すのは、あるいは彼もまた愛妻家であるからか。

 爾後、彼とは長い付き合いになる。このときのヴァナーは、むろん知らぬこと。しかしこの瞬間を顧みるアンジェラ・カノーヴァにとっては、作戦ログに非業の運命が記された男の、若き日の姿だった。

 当時の階級は警兵長パトルディア・レアッド。軽薄ながらも悪意はないと感ぜられる、その警兵の名を、リザレス・ネグリという。



《リザレスはさ、いいやつだったよ――ひとりの人間としては、すぐに好きになれたし、僕はずっと尊敬もしてた。あんなことになった後でさえ、ね》

「……けれど、あなたは彼を利用して、裏切って……そのせいで、ネグリ哨尉補は死んだのよ。口を封じたい誰かに、暗殺されて」

《そうか……けれど、わかるかな、警兵さん……ことと、こととは、べつに矛盾しないんだ》

CJPOわたしたちじゃなく、ネグリさん個人のことも、恨んでいたの?」

《彼があのとき、僕を捕まえなければ。もしかしたら僕は、船団に潜り込んでレナを救出し、このあと起こる惨劇の場から逃げ遂せたんじゃないか……なんて、思ってしまうとね》

「そんなこと――」

《いや、わかってるよ。実現性の低すぎる、都合のいい妄想だってことは。でも、リザレスに捕まった僕が彼女を助けられなかったのは事実で、それは変えようのない一〇〇パーセントだ。

 一方、あの場で捕まらなかった僕が彼女を助けられた確率は……どんなに低くても、。実現しなかったからこそではあるけれど、可能性は残されていたんだ。

 それを意識してしまえば、僕を無力な傍観者の席に押し込んだ彼のこと、恨んだって仕方ないだろう……》



 フォルグ星圏で、人造疫〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉による大規模ナノマシン・ハザード発生。その報を聞いてすぐ、現地のテクノロジー・レベルでは対処しようのない事態だと、ヴァナーは察した。

 以前レナの家族への挨拶で訪れた際に、いろいろと不便な思いをしたからわかる。ナノテクが認可されていないフォルグでは、首都の大病院であっても、傷口を塞ぐ程度の低位医療分子メディキュラーすら常備し得ないのだ。起源を離散紀ディアスポラージュにまで遡るという、禁制技術そのものの分子兵器に対抗する術など、あるはずがない。

 あるとすればCJPOの施設くらいだが、初動で感染拡大を抑え込めなかった以上、いまさら少々の医療分子メディキュラーを持ち出せたところで、焼け石に水だろう。外部コマンドによる制御を受け付けないナノマシンを、最小限の被害で止める手段とは、具体的に言えば対抗分子機械カウンター・レプリケーターの投入であり、その成否を分けるものは物量である。圧倒的な物量で呑み込み、ただし続ける。これが叶わねば、周辺環境ごと焼き払うような破壊的手段に訴えるしかなくなる。当然、渦中にいた人間は助からない。

 CJPOの救援艦隊が向かっているとの報道もあったが、主星系からフォルグまでは遠い。次元暗礁の配置から、転移航路にも中継点が多く、艦隊の到着には最短でも一か月程度かかってしまう。中央集権的な技管主義体制の弱点が露呈した形だ。中央のテクノロジー・レベルでなければ対応できない技術災害が、遠い辺境星系で起こってしまえば、政府は中央からはるばる対応部隊を派遣するしかない。現地や近隣の駐留部隊にできることといえば、せいぜいが航路の封鎖。暴動の鎮圧。情報統制。災害そのものには、手が出せない。

 つまりはこれよりひと月あまり、フォルグは死地と化す。人間だけを殺す知性化ウイルスが跋扈し、予防も治療もすべのないまま、さりとて系外へ逃げ出すことも許されぬ広漠たる閉鎖環境。生半の紛争星域など比較にもならぬ危険地帯であり、疑心とエゴ、差別と迷信の渦巻く地獄が現出しよう。

 これが知り合いの一人もいない他所の星間国家で起きたことなら、ヴァナーは黙祷のひとつも捧げつつ、市民的無関心を貫いただろう。あるいは場所が同じフォルグでも、レナと二人で家にいるときにニュースを見たなら、彼女の両親の身を案じつつ、事態の推移を見守ろうとも思えただろう。薄情なようだが、それが普通の人間の反応というものである。素人の身で、軍やレスキューを差し置いて災害現場に飛び込もうなどと考えるのは、度し難い愚者か狂人か。わが身ならぬ他人のことなら、ヴァナーとてそう考える。

 問題は、そんな場所に、まさしくいま、ことだった。

 出張中の夫に先んじて、彼女はフォルグの実家へ帰省していた。「あとでちゃんとカオ出せよ」と事前に言われていたし、むろんヴァナーもそうするつもりだった。難なくそうできたはずだ――旧きナノテク兵器の再起動による疫災などという、馬鹿げた事態が勃発しなければ。

 いまやフォルグと繋がるすべての正規航路に、CJPOの非常線が張られている。人型全領域戦闘機シングラルを含む星間航路警備部隊による、強硬な実力封鎖だ。民間人が押し通れるものではなく、試みれば撃沈されても文句は言えぬ。なにしろ事は単なる疫病ではなく、第二種禁制技術による災害である。

 それでも、ヴァナー・エジモンドに〝座して待つ〟という選択肢はなかった。

 愚かでも、狂気の沙汰でも、無意味でさえあっても。ここでレナのために行動しなかったなら、きっと生涯自分を許すことはできない。

 行くと決めるや、使えるカードを迷わず選ばず全て使い、ヴァナーは二つのものを手に入れるべく動いた。渡航制限をすり抜けてフォルグ星圏へ向かう方法と、〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉に打ち克てるナノ薬剤である。前者は仕事用の個人艇でレナのもとへ駆けつけるため。後者は万一レナやその家族が罹患していた場合に、即座の治療を施せるようにするためのもの。

 そうして調達したのが、連邦の公式データベースに載っていない闇ルートの航路情報に、ネンティスでは最も強力な汎用医療分子メディキュラー〈アスクレピオスの杖〉だった。

 どちらも民間人が易々と手に入れられるものではない。危ない橋をいくつも渡った。技師としてあちこちの量子鉱山へ赴く中で知り合った、宇宙海賊まがいのアウトローたちを頼ったのだ。刑事の夫が犯罪者と取引するなど不祥事に違いなかったが、背に腹は代えられない。

 頭を下げ、ときに土下座し、すべからく大枚をはたいた。子供の養育費にしようと貯蓄していた定期預金の口座まで空にして、ようやく航路と薬を確保できたのは四日目のこと。

 いかに焦ったところで、恒星間航行には短くとも一週間以上を要するのが常だ。ネンティス星邦・惑星ラダンから、フォルグ星圏の入口まで、正規航路でも二週間。情報を買い取った非正規航路は多少の回り道を挟むため、十七銀河標準日程度は見込まなければならない。そのうえで準備にかける四日は、必要経費と割り切った。連邦の救援艦隊より一週間も早く着けるなら、やる価値はある。

 まったく勝算のない賭けというわけでもなかった。報道によれば、現地では難民たちが星間船に分乗し、分子兵器に汚染された星圏中央から避難する動きを見せているという。おそらく彼らは系外へ脱出しようとして、転移航路の入口でCJPO現地部隊の封鎖に引っかかるだろう。そこで止まっていてくれれば好都合だ。フォルグ中央の実家にいたはずのレナが、難民船団に上手く乗り込めていれば、転移航路の入口で会える可能性は充分にある。あると信じる。

 かくて、ヴァナー・エジモンドは己の愚行を自覚しながら艇に乗り込み、一路敢然とフォルグを目指す。


 道行きは順調だった。

 違法航路ということで、そこらのガス天体の影から宇宙海賊でも飛び出してくるのではないかと心配したのだが、どうやら杞憂だったらしい。考えてみれば、海賊が網を張るのは民間船舶が通りそうな航路である。渡航制限を破ってまで裏ルートを使い、エピデミックの渦中にあるフォルグへ向かう船があるなどと、誰が予想し得よう?

 その順調さが、油断に繋がったのか。

 幾度目かの転移リップでようやくフォルグ外縁に到達したとき、すでに難民たちの船団は、個人艇のセンサーでも捕捉可能な距離にまで近づいていた。あそこにレナがいるかもしれぬ――と斥力推進機関を全力稼働させ、盛大に重力波を撒きながら最短距離を驀進したヴァナーは、船団とのあいだに布陣した少数のから制止を受けることとなる。

《……オイオイオイ、ちょ、止まれオイ、お前だよそこの個人艇! どっから転移してきやがった? 渡航制限かかってんだろ、もしかして知らねえのか?》

 どこか軽薄そうな若い男の声とともに、一機の人型全領域戦闘機シングラルが出張ってくる。この開けた宇宙空間では、逃げも隠れもできない。せめて探知される前に気付いていれば、艦隊を迂回するコースも採れたものを……。


 その場で臨検を受けたヴァナーは、うまくしらを切り通すこともできず、とっさに隠した〈アスクレピオスの杖〉のパッケージ・キットを難なく発見されてしまう。航法システムのログからは、彼が非合法の航路を通ってここまで来たことが割り出され、技術管制法群のいくつかと星間交通管理法に違反した罪で、現行犯の逮捕と相成あいなった。

 技術犯罪者となってまで、大切な人のもとへ駆けつけんとした男の冒険にしては、画竜点睛を欠く結末と言えよう。しょせん自分は主人公の器にあらず。そう自嘲する一方、ヴァナーは安心してもいた。

 聞けば、船団と転移座標圏のあいだに展開した小艦隊は、救援艦隊からさらに先行して情報収集にあたる調査部隊だという。足の速い艦を集め、長距離転移が可能な船でなければ通れない航路を抜けて、通常一か月の路程をさらに一週間縮めての急派だった。

 主星系の艦隊ならば、自分が持ってきたような高位の医療分子メディキュラーを合法的に運用し得るし、パニックや暴動にもある程度の対処ができよう。技災対応のプロが間に合った以上、素人の出番はない。

 自分が来る必要など、初めからなかったのだ――何事も為さず、為すべきこともなく、冒険は終わった。不思議と気は重くない。自分が無為に前科者となったことを嘆くよりも、ヴァナーはCJPOの迅速な対応をこそ称えたかった。

 これで、あとはレナの無事さえ確認できれば。

 被害甚大なる技術災害である。万事丸く収まる、などと口に出しては言えない。されど平凡なひとりの小市民にとっては、被災した家族の無事以上に望むものなど、結局ないのだった。



 レナの安否が分かったのは、先遣艦隊に抑留されて三日目のこと。

 警兵リザレス・ネグリが、避難民たちの現状調査用に割り当てられたアドレスと帯域幅バンドを、こっそり貸してくれると申し出てきたのだ。

「俺は善良な腐敗警兵なんだ。あとで相応の謝礼は期待するぜ」

 ささやかな規則違反の見返りとして、賄賂の要求を仄めかすネグリ。ふてぶてしい笑みの中に、荒廃した職業意識と人間的良心とを矛盾なく同居させる、れたしたたかさがあった。

 そういう不思議な魅力を持った男が、自分よりも年下らしいということを、ヴァナーはどこか信じたくないと思ってしまう。

 劣等感なのだろう。法の網をすり抜けて颯爽と妻のもとへ馳せ参じるつもりが、法の番人にあっさり捕らえられ、あまつさえその警兵当人にこうして気を遣われている。本当に、しまらない男だ。

 苦い自嘲は、諦めで包み隠した。強いて笑うことには慣れている。この人生のほんとうの主人公はレナで、自分は彼女をそばで支える脇役。それでいい。それがヴァナー・エジモンドという人物キャラクターの在り方。いまは己の役を受け入れ、最善を尽くすべく演じ切るとき。

 ヴァナーはありがたくネグリの申し出を受け、難民船団との通信チャネルの一本に潜り込んだ。パーセプション・プロジェクターを拡張現実ARモードで起動。没入ジャック・イン――瞬間、錯綜する通信のネット。艦隊と船団のあいだに展開された仮想空間を、飛び交い絡み合うデータストリームの輝線が埋める。

 ためらいがちに、レナの個人アドレスをサーチする。

 彼女が通信圏内におり、かつ通話可能な状態にあれば、映像と音声で繋がる対話ダイアログウィンドウが開く。相手が圏内に居ないか、の場合は、検索結果0件のメッセージが表示されるだけだ。

 もし、ここで彼女が見つからなかったら。

 別方面への避難船に乗っているならそれでもいい。だが、そもそも逃げ遅れていたら? 〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉に感染してしまっていたら? 検索結果を待つ間、そんな不安ばかりが募る。

 絶望を振り払うように、一心に、祈った。宗教は知らぬ。唱えるべき神の御名も、跪拝すべき聖地も、ヴァナーは持たない。

 ただ、名も無き運命に。あるいはに。

 レナ・エジモンドを主人公として書かれるべき物語の作者に、彼は祈った。――彼女が退場すべき場面は、ここではないと。

 照会クエリーのパケット光が弾けるように飛んで、戻ってくるまでは数秒であったはず。間違いなく、それは人生で最も長い数秒間だった。

 そうして、光と音が。

《――ん? おい、知らない番号で誰かと思ったら、ヴァーニイじゃねーか。こんなとこで何やってんだ》

 清風が吹くように。

 拡張視界に映し出された妻の顔を見て、声を聴いて。ヴァナー・エジモンドは一言も発せず、ただその場で泣き始めた。


「……そう、お義父さんとお義母さんは……に罹って」

《通信越しだったけど、別れは済ませた。……それだけが救いだ》

 夫の予期せぬ登場に驚いたレナは、事情を聴くや「この後先あとさき考えもしねえクソ馬鹿野郎が」とヴァナーを罵り、しかしわが身を案じて駆け付けた彼の愚行に、小さく感謝を付け加えた。

 常と変わらぬ快活さが窺えたのは、そこまで。

 自分が巻き込まれた事態について語り出すと、彼女の声も顔も、次第に暗くなった。巨大な災禍を潜り抜けた人間に共通する、疲弊と虚脱の影。当事者ならぬヴァナーには共有できない、体験の重さがある。

《最近見つかった、外縁惑星のレーンシウム鉱床が出どころだったんだとよ。そこに、なんでか古代の分子兵器が埋まってて――笑えるだろ、どんな運の悪さだよ――掘り当てちまった宇宙鉱夫たちが真っ先に感染。慌てて採掘現場を逃げ出した奴らが中央に戻ってきて、星圏議会が締め出しも隔離も決められないうちに、を拡げやがった。

 そっからは……地獄だった。陳腐だが、そうとしか言えねえ。それもドB級のゾンビ映画じみた、現実感のカケラもない安普請の地獄だ》

 レナが〝ゾンビ〟と言うのは、決して感染者や彼らを恐れる群衆に対する露悪的な揶揄ではない。

 ここへ来る前に最低限の情報を仕入れて、ヴァナーは知っている。〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉とは、まさに人間を生ける屍リビングデッドへと作り変える感染型ナノマシン兵器なのだということを。

《なあ……いったいありゃ何なんだ。アレを作った奴は、何を考えてあんな……意味のわからねえ代物を……》

「僕たちにわかることじゃないよ……あれを作り出したのは大昔の狂人らしいもの。意味なんてなかったのかもしれない」

 禁制技術が絡むため、〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉について市民が知り得る情報は少ない。ヴァナーが断片的に閲覧できた公共データベースの記事には、なんら理解の助けにならぬ来歴しか記されていなかった。

 曰く、離散紀ディアスポラージュを生きた狂える科学者ハロルドが、不死を夢見て密かに研究していたの失敗作である――と。

 本来は生身の他人を材料に、オリジナル・ハロルドの肉体と精神の完全なコピーを生み出すはずのものだったという。それが何らかの技術的不備により不完全な転写しか成しえず、半端な遺伝子改変で壊死してゆく肉体と、脳神経網ごと切り刻まれた人格の残骸だけを無限に再生産する、悪夢の人体造換機構と化した。

 千年の時を経て、その〝失敗作〟がフォルグ星圏に解き放たれた結果こそ、レナが見てきたものである。

 知性を破壊された犠牲者がナノマシンのプログラムに操られ、感染者キャリアーを増やそうと手当たり次第、他人に襲い掛かる。この終末論的光景を、地球時代アース・エイジから続くフィクションの一類型になぞらえ〝ゾンビ映画〟と呼ぶのは、必ずしも彼女の独創というわけではなかっただろう。

《みんな。同じような肌の色、似たり寄ったりの顔になって……譫言うわごとをブツブツ繰り返すんだ。不死がどうの、永遠がどうの……クソッ。あんなの、この先ずっと夢に見るに決まってる。

 はやくおまえに会いたい。画面越しでも投影体でもなく、生身でさ。ここには抱き合って慰め合える相手なんか誰もいない……みんな他人だ。家族も幼馴染も、いなくなっちまった。わかるか、ヴァーニイ。あたしは故郷を失ったんだ。もうフォルグはで、ここじゃ、あたしは独りだ……》

「レナ……レナ! 大丈夫だ、ほら、僕はすぐそばにいる! きみを独りにしないためにここまで来たんだ。僕はいなくなったりしない!」

 いつも強く明るい彼女の弱気が痛ましく、ヴァナーは必死の思いで励ます言葉をかけ続けた。

 忍んで借りている回線ゆえ、データ量の大きい投影体を飛ばせないのがもどかしい。電子的に再現された幻とて、肌と肌でぬくもりを伝え合えれば、いくばくかの慰めにはなり得たかもしれないものを――。



《結局、このとき僕が口にできた言葉はどれも、無意味な気休めばかりだった。後にして思えばね》

 無力な過去の自分を見守る、〝現在のヴァナー〟の表情は曖昧で読みがたい。引き結ばれた口許は苦々しく、それでいて視線は暖かく。後悔と懐古の念だけが、辛うじてアンジェラにも見て取れた。

《そんなものでも、このときのレナには、何も言わないよりマシだと思ったんだ。少しでも妻の支えに――その一念さ》

「実用的な助けにならない励ましでも、心が救われることはあるわ。あなたの言葉は、確かに奥さんの支えになったと思う」

《そうかな……けれど結果を知っていれば、何もかも虚しいばかりだ》

 アンジェラはそれ以上、慰める言葉を継げなかった。

 嘘や説得の方便を弄したつもりはない。すべて本心から出た言葉だ。それでも、現実の重みが変えてしまった男を前にして、しょせん他人でしかない己ひとりの真心などは、あまりに空疎で、無力だった。

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