アンジェラ・カノーヴァ(2)
――第一印象は悪くなかったんじゃない?
未だEAMの薬効下にあるアンジェラ・カノーヴァは、試運艦〝テオフラスト〟の艦長室を出ると、白い廊下を歩きながらディミトロフ艦長との面談を振り返る。
途中、テロ組織の暴虐を伝えるニュースが入ってきたことで取り乱しはしたものの、それ以外の場面では熱意と勉強量とスキルをアピールできたはずだ。
滑り出しは順調。弾けそうな笑みを浮かべ、小さくガッツポーズを作り、少女は艦内マップを掌中に投影する。各ブロックを訪ね、艦の内部構造を把握するとともに、同じ船で生活するクルーたちに挨拶して回るつもりであった。
艦長の覚えばかりめでたくとも意味はない。戦場に立つ矮星族として、己をプロパガンダの旗に供するなら、まずは艦内の誰からも好かれる女にならなくては。
「出航までに一巡するのは難しいかな……医務室とラボと、食堂、機関室、居住区、それと格納庫ぐらいは見ておきたいけど……」
などと呟いていると、廊下の向かいから男がひとり歩いてくる。
男は警兵の制服を着ていた。白を基調とし、袖が広く裾は長い、法と秩序の番人のみが纏うことを許された戦闘服。しかし、その袖の上から両手首をくわえ込んだ武骨な枷が、正規の警兵でないことを示している。
警兵服に、電子手錠。特務兵〝グラディアトール〟の証であった。減刑と引き換えに、前線での兵役に就くことを受け容れた囚人。
犯罪者だ。
その認識に、アンジェラは怯んだ。次の瞬間には、そんな自分を恥じた。
グラディアトールになるということは、自らの命を危険に晒してでも罪を償おうという意志の表れではないか。彼がどのような罪を犯したのであれ、いまは市井の平和を守る戦士のひとり。その決意は、尊い――。
あらためて、少女は近づいてくる男を観察する。
束ねられることもなく、伸び放題の黒髪。ファッションとしてのヘアースタイルではなく、単に長らく手入れを欠いていただけだろう。
浅黒い肌。無精髭。ひび割れだらけの唇。炯々たる眼光はどこか冷めて、見透かそうとするようにアンジェラの瞳を捉えていた。
親しみやすい相手ではない、と感じた。少しばかり、不潔であるとも。
とはいえ、彼もこの艦の乗組員であるなら、今後関わることがあるかもしれない。同じ艦で働く以上、広い意味では同僚ということにもなる。
アンジェラは男の前で立ち止まり、右手を差し出した。
「はじめまして! 私、この艦で
男は枷を嵌められたままの両腕を器用に動かし、ぐいとアンジェラを押し退けた。
そして一言もくれぬまま、笑顔を硬直させるアンジェラの前を通り過ぎていった。
「……あれ?」
規格外の高性能を誇るアンジェラの補助脳も、まったく予想外の事態に現実認識が追い付かぬようなときは、助けにならない。
たっぷり数秒かけて直前の不条理劇を解釈し、様々な角度からその意味するところを検討し、ようやくアンジェラ・カノーヴァはシンプルな答えに辿り着く。
「え……無視? なんで?」
耳が聞こえないのではない。聴覚障害の警兵なら公費で治療を受けられるはずだ。それは本来犯罪者であるグラディアトールとて同じことである。
急いでいたのでもない。男は落ち着き払って歩いてきて、何らの焦りも苛立ちも見せずにアンジェラを退かし、また歩き去ったのだ。
自分に過失があったのなら、まだ理解できる。しかしアンジェラに思い当たる節はない。あの男は顔見知りではないし、挨拶しようとしただけで機嫌を損ねる人間などは想像もできない。
結局、アンジェラの中には困惑と落胆が残る。失敗したのは確かだが、何がいけなかったのだろう、と。
露骨な無視にも怒りを覚えられないのは、彼女の寛大さというよりはむしろ、怒るべき時宜を知らぬ感情の未熟である、と言えた。
全長およそ八百メートルの〝テオフラスト〟艦内には、艦長室や船員居住区のほかにも様々な機能区画がある。
船内病院とも呼ばれる医務室。調理場に食堂。歩兵用武器庫。資料室。仮眠室やレクリエーション用のラウンジ、トレーニングジム。小規模ながらバーまで開店している。
以上はほんの一部に過ぎず、悉くを列挙しようと思えば、一冊の本が必要である。それら艦内施設のうち主要なものを、アンジェラは時間の許す限り訪ねて回り、すでにクルーが立ち働いている部署では如才なく挨拶も交わした。
「サトル・アルナックスです。階級は
「砲術士官、
「アレンス・ガーテ。医務局長だ。矮星族はあんまし診たことないんだが……ま、怪我したら来いや、嬢ちゃん。金持ちだからって特別扱いはしねぇぞ。VIP待遇がお望みなら、袖の下を使いな」
「レイチェル・リンヴァイエフ、医務局長の愛人よ。ついでに医官待遇で助手も兼任してるわ。無免許の雇われ看護師だけど、ヤブの局長より腕は確かだから、医務室の実質的なボスはあたしだと思ってね」
様々なる機能区画があれば、それを運営する乗組員もまた多様である。
アンジェラはクルーたちの個性に圧倒され、ときに面食らいもしたが、概ねうまくやっていけそうだ、という感触を得てもいた。
彼女が特に優れたコミュニケーション能力を備えていた、というわけではない。人為的に調整された容姿とはいえ、可憐な少女が笑顔で挨拶に来れば、邪険に扱うのは存外難しいというだけの話だ。少なくとも、クルーの大半を占める〝普通の人〟にとっては、そうである。
だからこそ、あの男のことが気にかかる。
アンジェラを無視して通り過ぎた、蓬髪のグラディアトール。
「なにか別のことで怒ってたのかな……もしくは辛いことがあって、気持ちに余裕が持てなかったとか……」
本来が囚人であるグラディアトールの待遇は、囮、弾除け、使い捨ての駒――一般にそのような、人間以下のものであるという。あるいはあの男の小汚い風体も、どこか荒んだ雰囲気も、CJPO内部での冷遇や虐待によるものではないか。
アンジェラはひとり空想を膨らませることで、先の理不尽な無視に合理的な解釈を与えた。そう納得してしまえば、取るべき態度も自ずと定まる。憐憫を表に出さぬこと。寛容な接し方を心がけること。
己の推察が見当違いなものであるかもしれない、などと疑ってみる慎重さを、アンジェラ・カノーヴァは未だ持ち合わせない。
最後に訪ねたのは格納庫だった。
二層に分かれた格納庫は、合わせてシングラル四十機を収容可能。艦の規模に比して多い方ではない。八百メートルクラスの巡洋艦なら、運用可能な艦載機の数は五十五が平均値である。〝テオフラスト〟の最大積載数が限られているのは、隣接する研究開発区画が格納庫の容量を圧迫しているからに他ならない。
その研究開発区画を取り仕切る、科学技術部門のトップとも言うべき男がアンジェラを出迎えた。
「ん、どうもね。吾輩はトロックス・ハービス。エルフェンバイン研究所からの出向で、この艦の技術顧問を任されている」
異形の老人である。
五体のほとんどを機械化し、それを隠しもせず
ハード・サイボーグと対面した経験のないアンジェラは、常軌を逸した身体改造の極致を前に、用意してきた幾通りもの挨拶を、しばし忘れた。
彼女とて主星系の健全なる一市民、サイバネティクスに嫌悪感を覚える常識的偏見は持っている。しかしこのとき、ハービスという男が体現する理解を超えた人間性の飛翔に対し、少女の心臓が発振した感情は忌避よりむしろ、神秘に対する畏敬の念と似ていた。
「あ、ど、どうも……アンジェラ・フィオリーナ・カノーヴァです」
忘我の一瞬が過ぎた後、アンジェラに訪れたのは己が鈍感に対する恥の自覚。こうまで不自然な歓迎を受ければ、流石に気付かぬはずも無かった。外部からの出向とはいえ、艦内
自分は――アンジェラ・カノーヴァは、特別扱いをされている。
ハービスだけではない。これまで挨拶して回った各部署のクルーも、思い返してみればどこか、アンジェラを単なる新兵以上のものとして扱ってはいなかったか。
カノーヴァの名に、家紋代わりの
このときアンジェラが最も恥じたのは、己が重要人物としての待遇を受けること自体ではなかった。それは旗振り役を買って出たときから覚悟していたことである。だが、特別視を当然のように受け入れ、この身がすでに神輿の上であると気付けぬような鈍さは、いずれ暗愚と傲慢を生む。それは恥じて省みなければならない。
特別な価値があるのは家柄であり、宣伝効果であり、政治的意味性であって、アンジェラ・カノーヴァが胸に抱く熱い大望ではないのだ。少なくとも、いまはまだ。
「君の配属は艦長から聞いている。TIOなら吾輩の仕事にも関わる部署だ。大変だとは思うが、ま、頑張ってくれたまえ」
「自分で望んだことですから……それに、ただのお飾りで終わるつもりはありません。必ず、みなさんのお役に立ちます」
アンジェラはここでも熱意をアピールしながら、しかしどこか会話が噛み合っていないという感じを抱いた。ハービスも同じだったらしく、ヘッドギアで重そうな頭を傾げている。
先に状況を理解したのはハービスだった。
「――ああ。大変と言ったのはね、矮星族が戦場へ出て云々とかいう、いわゆる政治的任務のことではないよ。君が我が軍のジャンヌ・ダルクになれるかどうかなど、吾輩は興味がない。
そうではなくて、TIOとして君が組むことになるアクターの話だ」
シングラル・アクターは通常、
二人一組、物理戦域と仮想戦域の背中合わせ。アクターひとりひとりに情報支援を行うオペレーターが付き、以てシングラルという最強の物理戦闘ユニットに対する万全のバックアップを確立する。これがCJPOの空間戦闘ドクトリンにおける、最小基本の
アンジェラもまた、TIOとして〝テオフラスト〟に配属される。ペアを組むアクターが誰であるかは聞いていなかったが、戦闘データ分析を総轄する地位にあるハービスならば、シングラル部隊の人事にも詳しいのかもしれない。
「私が担当するアクターに、何か能力的問題でも……?」
「いや、いや! 能力ではない。むしろオペレーターが手持ち無沙汰になるくらいの腕利きだよ。勝手に飛び回らせておけば、一人で戦果を挙げてくるだろうさ」
「それはそれで困るのですが……では何が大変だと?」
「どちらかと言えば、そう――性格だな。奴はTIOとよく揉める」
「性格に難あり、ですか」
アンジェラは意見の合わないパートナーを想像してみる。
悪を知らぬ無菌培養の貴族令嬢とはいえ、これまでの人生に他者との諍いごとが一度もなかったわけではない。気難しい家庭教師や、思想を異にする学友。利害の衝突があり、議論があり、喧嘩もした。
しかし、それらすべては彼女の頭脳で理解不能なものではなかった。最後には必ず和解し、相互理解を深め、乗り越えられる壁ばかりだった。
解り合えない人はいない。解決できない問題はない。不可能とはいつも、困難に挑む人間の能力不足に過ぎない。アンジェラ・カノーヴァが育んできた純白の人生哲学は、まだ見ぬ相棒との未知なる人間関係にも、勇気と希望を持って臨めと告げる。
「大丈夫です! きっと仲良くなりますよ」
「ふむ、頼もしいな。さっそくだが、噂をすれば問題児のご登場だ」
「えっ?」
振り返ったアンジェラの視線を、覚えのある三白眼が捉えた。
「あなたは……さっきの」
弱い人工重力のもと、床を滑るように歩いてくる男。先ごろアンジェラに無理解と困惑を与えて去っていった、蓬髪のグラディアトールに相違ない。
「戻ったか、ルービンシュタイン。ささ、QFIのチューニングをやるぞ。ついでに機付オペレーターとの顔合わせも済ませてしまうがいい」
「この人が、私と組むアクター?」
「さよう。グラディアトールにしてライセンスホルダー。技術実証機〝ノーバディ〟機付エグザクター、ルイス・ルービンシュタインだ。正規警兵ではないゆえ、階級も暫定的なものだが、いちおう
グラディアトールはシングラルに乗せられることもある。当然、この可能性は予期して然るべきだった。アンジェラがそうできなかったのは、初見の衝撃から、彼を〝ともに働く仲間〟と認識できていなかったためである。
勝手に紹介された男、ルイスの浅黒い顔に浮かぶ表情は、どこか憮然として見えた。
「じじいめ、俺に子守を押し付けやがった」
「何だね、艦長の呼び出しはいまさら人事通知を伝えるためか? 優しくするよう念押しでもされたのかね」
「あの……」
「逆だ。いつも通りにやれとさ。わけがわからん」
「ほう、興味深いねえ。誰の差し金やら」
「ちょ、話を」
「こっちも広報局の茶番に付き合うつもりはないがな。それじゃあ、あの新型にさっさと神経を通すか」
「会話に応じて! 頼むから!」
心底面倒くさそうに、ルイスがアンジェラを見下ろす。この機を逃すまいと、少女は畳みかけた。
「私がなにか気に障ることをしたなら、謝ります。でも、せっかく一緒に戦うんだから、もっと普通に話してくれてもいいと思うの。
ええと、それじゃ、艦長から聞いてるのよね? 私、今日からこの艦にTIOとして配属された、アンジェラ・フィオリーナ・カノーヴァ三等哨尉です。
ペアはどうやら、あなたと組むことになったみたいね? 階級は私が上だけど、新任で解らないことばかりだから、いろいろ教えてくれると助かります。実戦に関することとか……」
「必要ない」
羽虫でも払うように遮って、ルイスはハンガーの方へ歩き出した。ハービスが追随し、慌ててアンジェラも後を追う。
途中から人工重力がなくなり、三人が等速で宙を流れていく段階になると、ルイスは行く手に見える白いシングラルを指して言った。
「俺が乗る機体はあれだ。つまり書類上はあんたの担当機でもある。
――が、何もしなくていい。戦闘になったらコンソールでゲームでもやってろ。俺は一人で戦うし、ガキの力を借りるつもりもない」
アンジェラは一言ごとに頭を殴られるような心地で聞いていた。実際に頭痛もしている。しかしこれしきでコミュニケーションを諦める気にはならない。
「……ねえ、本当に私、何かあなたが腹を立てるようなことしたかしら。すごーく刺々しいんだけど、まさか誰にでもそんな話し方ってわけじゃないわよね」
「別にあんたは何もしてないし、腹を立ててるわけでもない。気に入らないだけだ」
「それは、私の家のこと? それとも矮星族が嫌い?」
「生まれなんかどうでもいい。態度だよ」
白磁めいた装甲に手を着き、ルイスが自機となるシングラルに取り付く。後に続いたアンジェラは反論を口にしようとして、刹那、その機体の
「……態度って?」
操手槽へ潜り込もうとするルイスに、追いすがるようにして言葉を投げる。また無視されるかと思ったが、意外にも返答があった。
「アンジェラ・カノーヴァ。お前、警兵として軍艦に乗り込んだくせに、まだ自分が特権階級らしく優遇されて当然だと思っているだろう」
男の黒髪が機内に消える。アンジェラはそれ以上追えなかった。
ルイスに指摘されたのは、ハービスに出迎えられたとき自覚した驕りそのものだ。
密かに恥ずかしがって、反省したつもりになっていた。他人には見抜かれていないと思っていた。
甘かった。
あの男、ルイス・ルービンシュタインは、最初に出会ったときから気付いていたのだ。だからアンジェラの一方的な自己紹介を、一度は無視した。
「……恥の多い一日だけど、いまのところ、これが一番痛いかも」
ストレスには耐えず忍ばずが主星市民の徳である。
アンジェラはキャットウォークの柱の陰に回ると、ピルケースを取り出し、EAMを一錠あおった。
疼くような胸の痛みは薬学的魔法によって除去され、覚めれば忘れてしまう夢の如く、あとには何も残らない。
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