咳が出る

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

咳払いをする

 私の優太が頬を腫らして帰ってきた。


「申し訳ありません。優太くんが喧嘩しちゃいまして」

「……それは、電話で聞きました」


 優太は目に涙を浮かべて唇を尖らせている。私は膝を曲げてゆうたの目線に合わせた。


「おいで」先生の手から離れる優太は、胸に飛び込んで確かめるように顔を擦っていた。


「誰がやったのか教えてくれないんですか」

「大変申し訳ありません。個人情報となりますので」


 私が私じゃないようだった。先生の連絡帳を奪うように手にすると踵を返す。今は先生を許せなかった。ちゃんと見ていなかったんじゃないかって、ひどく詰め寄りたい。


「優太、何があったの」

「……」

「お母さんに言えないの?」


 子供を自転車の前に乗せた。私はペダルを漕いで子供の後ろ髪が視界に入る。


 スーパーで夕飯の食材に入る。レジ袋を片手に自宅のマンションについた。私は鍵を回して明日への支度をする。優太は夕飯を平らげて言うことを聞く。私は優太の純粋さに複雑だった。

 息子を寝かしつけたら明日の用意を早める。すると、そこに鍵を回す音がした。廊下の大きな足音が近づいてきて、扉の前で止まる。


「ただいま」

「優太は寝たけど」

「んっ。ご飯食べたい」


 気持ちを堪えて炊飯器の保温を止めた。私は雑誌に掲載されるような母親になる。


「優太、誰かと喧嘩してきたみたい」

「えっ。そうなのか、大丈夫なのかな」

「最近は相手のこと教えてくれないんだって」

「個人情報だからなー」


 彼は食事中に立ち上がって優太の部屋を開いた。寝顔を確認したら音を殺して閉めてくれる。ご飯が冷めてしまう。


「俺がなにか出来たらいいんだけど。仕事があるから手伝えない。ごめんな、本当は楽させたいんだけど」

「いいって。わかってるから、ほらごはんたべな」


 夫は私に夫の気苦労を分かる妻を演じさせる。下から出ることで私は期待に応えなくちゃいけない。彼は出会った頃と変わっていない私を通して今を知る。それが愛なのか咀嚼できず持て余していた。


 翌日、子供を幼稚園に送ってから仕事に向かう。

 私はお客様の商品をレジ袋に入れていく。牛乳パックと炭酸を下に敷いて弁当を安定させる。持っ手を一つに捻った。そうしたら、遠くに小銭が投げられている。私は手をくの字にして腹の下に持っていく。


「〇〇円お預かりします」


 コンビニで働いてからお金の計算が早くなった。お釣りを滑らせて手に乗せる。確認してからお客様の手に渡した。


「ありがとうございました」

「川嶋さん。先にあがって」

「はい。ありがとうございます」


 私は着替えに手をつけた。すると、同じシフトの方が姿を現す。


「川嶋さん、お疲れ」

「あ、お疲れ様です」

「今日は金曜だから人が多かったね」


 そうですねと笑えば何もなくなった。ただ沈黙が苦しくて助けを求める。


「お子さんって喧嘩したことありますか?」

「えっ、あるよ。うち兄弟いるし」

「怖くないですか?」

「怖いってのがよくわかんないけど、子供なんて喧嘩して一人前よ」


 ああ、私はダメな母親のままで燻っている。きっと、私は高校生の『不思議ちゃん』から変わっていない。


「お子さん、怪我してた?」

「はい。頬を腫らしてました。……今日も幼稚園に行かせたのは間違いだったでしょうか」

「間違いは私たちが決めることじゃない。子どもの選んだ道に寄り添って挙げられるのが親でしょ。自論だけどね」


 同じシフトの人は子供を大学に行かせている。相談相手の知らなかったことが増えていく。私は他人を分からなければならないんだ。もっと、優太のためにならなければならない。


 「お先に失礼します」


 コンビニのパートを終えた私は自転車に乗っていた。涼しい風を感じながら優太がいる幼稚園に向かう。

 幼稚園は車が所狭しと止まっていた。私は自転車を無断で駐車して入口に走る。


「あー! ゆうたくんのママ!」


 優太の友達が私の太ももを叩いた。注意した方がいいのかわからない。


「あー! 叩いちゃダメでしょ! ごめんなさいね」

「ああ、いえ……」私は苦笑いが精一杯だった。


「まま!」


 優太が私を見つけて走ってきた。ただそれだけなのに涙腺が緩むのはなぜだろう。弱くなる心へ必死に落ち着かせる。子供には弱さが移って欲しくない。


「ねー、まま。発表会があるんだって」


 優太は鞄の中から緑の紙を渡してくれた。シワだらけの告知を伸ばして頭から読んだ。


「かなちゃんやー、ゆうくんもくるってー!」


 優太は風船みたいな指を折り曲げ数える。目は斜め上を向いていた。


「ゆうた、楽しみだね」


 優太は屈託のない笑みで頷いた。「うん!」


 優太は昨日の泣き言を口にしない。屈託のない笑みはきっと乗り越えたんだ。そして、私は先生にバザーのことを聞いた。


「はい。来月の第二土曜日にあります。お子さんの可愛い姿を見てみませんか?」

「休みが取れたら行きます」

「川嶋さん。今回ぐらい休みなよ」

「あ、こんにちは……」


 かなちゃんの母さんが唐突に入ってきた。私と違ってオシャレに気を配っているから、胸焼けを起こしてしまう。


「そうは言われても……」

「優太くんの頑張りを見たくないの?」


 私は掠れた声が出た。言葉にならなくて俯くしかない。子供のために働いているのに、子供の世話ができないなんて本末転倒になる。一体、私は何が欲しかったんだろう。


「ま、まあ。まだ時間はありますし。今日のところは、ね?」


 私は連絡帳を受け取って幼稚園から出た。同じ母さんの笑い声を背中で感じる。私に目をつけませんように。


「ママ、どうしたの?」

「優太、何でもないよ。ありがと」


 子供を自転車の前に乗せた。私はペダルを漕いで子供の鼻歌を聞く。そこで、私の田舎を思い出す。家が密集して隙も見せられない息苦しい場所だった。私は子供に嫌な気持ちをして欲しくない。


 機能と同じくスーパーで買い物する。レジ袋が重いから自転車が傾きそう。子供は昨日を忘れ手を握ってきた。洗濯物のカゴに優太の靴下を放り投げ、洗濯機に押し付けた。その後手を洗い後ろを向く。


「優太、手を洗いなさい」

「わかった」

「わかったなら動いて」


 ぶら下がるタオルを片手に詰める。開けた窓から服を投げていく。優太がタオルを踏んだ。


「手を洗いなさい!」


 窓を閉めたら夕日が目にしみた。洗濯バサミは何も掴めず風に遊ばれてる。私は食材を冷蔵庫に詰めていく。リビングからニュースキャスターの真剣な声がした。


「優太、脱ぎっぱなしにしない!」


 あ、優太の服を洗濯するの忘れた。全てがどうでもよくなってくる。もう眠ってしまおうかな。テレビから年金問題の話が聞こえてくる。


「ママ、ポテチ」

「ご飯入らなくなるでしょ」

「はいる! たべたい!」

「それ昨日も言って残したじゃない」

「たべる!」


 優太は足を上げては下ろし金切り声をあげる。駄々をこねた。「食べたいー!」


「ダメだって言ってるでしょ! なんでいうこと聞いてくるないの!」

「あー! あー!」


 私はお菓子の袋からポテトチップスを抜き取る。ため息交じりにテーブルの上に置いた。優太は私の腕をじっと見てる。


「ご飯食べるって約束して?」

「うん」袋を開けて両手で頬張る。


 根負けした私はご飯を作りたくなかった。何で私のご飯よりポテトチップスを美味しそうに食べてるんだろう。私のご飯が不味いなら言葉にしてほしい。育児は全部うまくいかなくて個人的な苛立ちが募る。母親失格の烙印を私が私につけていた。


「とうさんはー?」

「今日は仕事で遅いんだってさ」

「うん」


 私は台所に戻った。まな板や鍋を戸棚から取り出す。台所は蒸し暑くて季節を呪った。料理は手が覚えてくれている。


「優太ー、台を拭いて」


 私はキッチンペーパーを濡らした。軽く絞ったらテーブルに滑らせる。汚れた紙をゴミ箱に入れて手を洗った。料理を運んで優太を座らせる。


「いただきますは?」


 その時、私の携帯が震えた。優太のいただきますを聞いてから画面を開く。ママ友からスクリーンショットが送られてきた。その内容に目を驚かせる。


『川嶋さんの悪口をかなちゃんのお母さんが言ってたよ』


 気持ちが深い泥に掴まった。正解を探してるのに遠くなっている。最初から間違えていたなら教えて欲しかった。


「ごちそうさまー!」

「もう食べないの?」


 優太はご飯を半分残した。ため息をついてご飯を私の元まで持っていく。


「優太ー。かなちゃんと喧嘩したの?」

「……」

「ゆうた、答えて」

「ゆうたくんのママは、なんで、はたらいてるのっていわれた、なんか嫌だった」



『私は正しい母親になりたかった』


 匿名で書き込んだスレッドに心のないコメントがつく。それでも、私の心を見てくれるから嬉しかった。


『正しい親なんていないよ』


 安っぽい言葉をかけられる。それでも、私は求めていたものだった。子供が子供を育てられない。


「……食器洗わなくちゃ」


 私は言い聞かせている。空の容器を水につけた。


「優太、お母さんね。コスモスの花が好きなんだ」


 優太は私の話を聞いてくれていた。顔がテレビから離れてる。


「優太、二人で明日見に行こうか」

「……おしごとは?」

「大丈夫だから」


 私は不安になると記憶の中で蘇る。子供の苦しそうな咳、耳元で飛ぶ唾。私の心は学生から変わっていない。

 子供が熱を出してから私は無能に成り下がる。体温計は40度を指し示しこのままだったら死んじゃうと胸が苦しくなった。医師が適切な処置をしていただき完治する。入院したときは心臓が止まった。


「ただいまー」

「おとうさん! 早い!」


 テレビから今年流行った曲が流れる。歌詞は言いたいことあるなら後悔する前に叫んどけと恥ずかしかった。


「ね。ご飯食べたい」

「……」

「おーい。聞こえてる? 疲れてるんだけど」


 優太は夫の背中に抱きついている。鬱陶しそうに払い除けるとご飯を自分でよそった。


「おとうさん。発表会に来て?」

「あー、これたらな」

「優太、風呂に入ろ」


 優太は私と風呂場に行った。私は咳払いをする。

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咳が出る 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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