2「時の流れは気まぐれに」




蓮が死を迎えるのは当然初めてだ。『死にたくない』という六文字の卑猥な叫びが蓮の脳を駆け巡る。


 蓮は既に死を覚悟していた──



 あぁ、俺の人生もこれまでか。

 今、右の方向から迫るトラックに衝突しようとしている。つまり、死ぬ直前というわけだ。

 なぜ俺は滅多に渡りもしない横断歩道なんか渡ったんだろう。いつも通りあの陸橋を渡っていたらこんな事態にならなかっただろう。そんな自分が憎くて仕方がない。


 まもなくトラックが俺に衝突しようとしているが、俺はなにもすることができない。したくてもできない。こんな時に映画やゲームなんかであるバリアとかが欲しくなってくる。



 地面とタイヤが擦れあって甲高く、鈍い音がする。その音だけが聞こえている。

 人生で最も聞きたくない音。その音を今、存分に聞いている。


 ついにトラックが迫った。死ぬときが迫った。

 せめて重症くらいがいい。死ぬのだけは嫌だ。


 そんな声が届くわけもなく、ただただ掠れて消えていく。


 あぁ⋯⋯死ん――


 その時だった。目をゆっくり開けると前でトラックが止まっている。何が起きたのかさっぱりわからない。というより立ち上がることもできない。驚いて、足が笑っている。

 辺りを見渡すと歩いていた人、他の車、目の前の電気屋にあるテレビも何もかも止まっている。


 蓮は一度大きく深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がった。

 そして落ち着いてやっとこの状況を理解できた。



 もしかしてこれって――




「――動いてんの、俺だけ?」





 蓮は、再び辺りを見渡す。


「なんじゃこりゃぁ⋯⋯」


 それが今この状況で発することができた精一杯の感想であった。

 蓮は横断歩道を口を開けたまま、足をひこずりながら渡る。

 そして、ずるずるとずるずると歩いて、やっと向こう側の道へたどり着いた──その時だった。


 またあの音が蓮の耳を通り抜ける。あの鈍い音が。振り返るとトラックが急停止していた。そしてトラックの運転手が大慌てで飛び出してきて、


「だ、大丈夫かい? 怪我はなかった? ⋯⋯あれ、ぶつかったような気がしたんだが⋯⋯気のせいか。無事でよかった」


 蓮に怪我はひとつもない。あるのは、あの直前で何故助かったのか、どうして今は時間が動き始めたのか、という複雑な疑問だけ。


「⋯⋯す、すいません。俺の不注意でこんなことに⋯⋯」


「いやいや! こっちこそ悪かったよ! 俺もちょっとばかしフライングしちまってよ」


 そう言って運転手の人はトラックに乗って何処かへ行ってしまった。




 ──あの時一体何が起きたのか?


 ──あの時どうやって時が止まったのか?




 疑問に思うことは他にも山ほどある。でも、今は助かったということに感謝をせねばならない。死ななくてすんだ。それでいい。

 そう思いながら蓮は再び学校を目指す。



 学校まであと少しの距離になってきたとき、蓮はひとつ以前航が言っていたことを思い出した。


『そういえばさ、学校までむっちゃ早く行ける近道があるんだぜ』


 ──それはこの少し薄暗い路地裏だった。



 蓮はいつもの道をそれて路地裏に入っていく。人がいる気配もなく、少しばかり狭い道である。


「⋯⋯ここが近道なのかよ。何かすげぇ遠回りしてる気がするんですけど?」


 歩いていると、何か大きな黒い物体にぶつかった。


「痛ってぇ⋯⋯。す、すいません。ついぼーっとし──」


 その正体は刃物を持った四十代位の男だった。



「丁度良いところに来たなぁ。お前を人質にしてやろうか」


 冗談じゃない。何で俺が人質に? 何でこんなにも不運が連続して次々と俺ばっかに降り注ぐんだ? 蓮は再び起きた不運に語りかける。


「おいガキ、俺が誰だかわかるか? ⋯⋯俺はなぁ、ここ一週間で二十人を殺した殺人犯だぜ」


 ──は? あの殺人犯か? ヤバい、殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない──


 身体が、全身が震える。恐怖で震える。叫びたくても叫べない。

 不運にもここは路地裏である。たとえ叫んでも助けなんかくるはずがない。つまり選択肢は──死ぬ。これだけだ。


「⋯⋯いや、やめた。お前はここで殺してやる。どうやって殺そうか? どう殺されたい? っははははは──」


「⋯⋯こ、殺さないでください。な、なん、何でもしますから⋯⋯」


 蓮は逃げた。生きる道へと逃げた。横断歩道で奇跡的に拾った命をまたこんなところで捨てるわけにはいかなかった。


「ほぅ、命乞いか。そんな奴も嫌いじゃねぇがなぁ! ──だけど」


「────」


「死ね」


 包丁を出した。殺すんだ。殺そうとしてるんだ。俺はここで死ぬんだ。死にたくない。学校へいきたい。家族に会いたい。できるなら──



 ──もう一回時が止まってほしい




 すると蓮はまたあの感じに包まれた。辺り一面の音がしない。あの感じを。

 包丁は蓮の腹の約一ミリ手前で止まっていた。

 蓮は後ろに倒れた。死なないですんだ。また命を拾えた。


「──っはぁ⋯⋯呆れた。何回死のうとすれば気がすむの?」


 蓮の背後から女であろう声がする。何故だ? 俺以外のものは全部止まってるはずなのに。



 そして蓮は尻餅をついたまま後ろを向いた──





 ──目に入ったのは黒く染まった服を着た女だった。




「⋯⋯お、お前誰だ?」


「っはぁ⋯⋯。自分の名前を先に名乗らないなんて⋯⋯。礼儀知らずにも程があるわね」


「⋯⋯っすまねぇ。俺は西山 蓮だ。えっと⋯⋯ひとつ聞くけど時を止めてるのって君?」


「いかにも。私の名前はセレシア」


「セレシアか。⋯⋯いい名前だな!」


 するとセレシアは少し悲しそうな顔をした。


「⋯⋯私の名前はね、本当はないの。でもセレシアって名前で生きてるの」


 蓮はやっちまったと心の中でおもう。余計なことを言ってしまったのだ。


「⋯⋯で、何で俺の事助けてくれたの? それも二回もだけど」


「あ、まだ何にも言ってなかったね。ごめんごめん⋯⋯」


 そして少女は少し姿勢をただして蓮の方をじっくり見てこう言った、




「私は死神。あなたを絶対に死なせないよう命令されてここに来たの」

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