死んだあとの恋人

扇智史

第1話

 血の海から私を救い出してくれたのが、鮎子あゆこだった。



「エアコン、もうちょっと下げてくれる?」

 薬味のたっぷり効いたチャイニーズスープをすすっていた鮎子は、私の呼びかけにうなずいて、クッションの横に置きっぱなしだったリモコンを指先で押す。送風音が強まり、すこし冷たくなった風が室内を流れる。

「寒くない?」

 鮎子は、わずかに傾いた姿勢のまま、訊ねる。彼女のふっくらした顔は、ちょっと角度がつくと、ほどよく頬に影が乗ってアンニュイな気配を漂わせる。左右非対称な大きさの目も、高さに差が付くと、ぴったりのバランスに見えてくる。その角度がベストショットだ、と、私はここ最近の観察から結論していた。

 蒸籠の上の小籠包にお箸をつけながら、私はうなずいた。

「平気」

「ほんとに?」

「鮎子こそ大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 ほほえんで、鮎子は背筋を元のようにまっすぐにすると、額にかかっていた横髪をかきあげて、スープをすすった。私も、部屋の気温に満足しながら、まだ熱の残る小籠包を口に入れた。熱い汁と肉のうまみが口の中で破裂して、一瞬、目の前が真っ白になったような気分。

 これが、おいしいってことだ。

 鮎子が、もの問いたげに眉尻を下げてこちらを見ている。すこし前の彼女なら、自分の食事をさておいて私に「そらちゃん、おいしい?」と訊ねていただろう。それに対する答えがだんだんと変化していったのが、私と鮎子との関係の進展の過程だった。

 今の私は、口の中が熱くてしゃべれないから、無言で彼女にうなずく。鮎子は満足げに笑う。



 私と鮎子は会社の同僚だったけれど、同じ会社にいるときは友達でも何でもなかった。私の方は、正直、話した記憶もない。

 私たちの関係が変わったのは、私が会社を辞め、自殺を図ったときだった。

 当時の恋人に手ひどい裏切りを受け、仕事で上司が起こした大きな失敗の責任を被せられ、実家から結婚や将来に関する苛烈なプレッシャーを浴びせられた。それが一度に起こったせいで、私は、道でつまずいただけでも立ち上がれず、部屋から出ようとするだけで涙が止まらなくなるような状態に陥り、失職した。

 かくして、私は自宅のバスルームで手首を切った。より正確に言えば、手首から二の腕にかけて、6カ所ほど。

 そこへ、鮎子がやってきた。私の事情も何も知らず、ただ、会社においてあった私物を届ける役割をじゃんけんで押しつけられただけだ、と彼女は言っている。

 インターホンを押しても返答がなかったため、他の住人の後ろからオートロックをすり抜けて中に入り、ドア越しに呼びかけ、なおも答えがなかったので、不審に思った、という。いやな予感がした、とだけ鮎子は証言しているし、ほかの理由なんてありそうもない。

 ドアには鍵もかかっておらず、チェーンも外れていた。当時の私には、防犯なんかにわずかな手間さえかける意識はなく、それが幸いした、というべきか。

 私の部屋に入った鮎子が、半開きのバスルームのドアの向こうをのぞき見て、倒れている私を発見し、警察と救急車を呼んだ。

 鮎子のおかげで、私は一命を取り留めたのだった。つまり、これは私が幽霊になったり転生したりした話ではない。



 食後、いっしょに食器を片づけたあと、私は鮎子と寝る。

 女同士のセックスが一般的にどうなのかは知らないけれど、私と鮎子の行為は、あまり極端な快楽を伴わない。男とするときのように声を高めたりしないし、相手の体を侵襲していくような強引さもない。代わりにふたりの間に生じるのは、互いの肌と肉、温度と匂い、触れられる安堵、抱きしめられる歓喜、そういう、静かで長続きする心地よさだ。

 指先と、唇とで、手紙を書くように私たちは楽しむ。

 そしてどちらからともなく、眠りにつく。

 それは、この世からはじき出されそうになる破壊的な快感とは無縁の、静かな活動だった。



「ねえ」

 真夜中。うなじのあたりに、鮎子の声が届いてくる。まどろんだまま私が眠りに落ちきれずにいるとき、彼女はいつも話しかけてくれる。私が死にそうになっているのを察知した鮎子だから、私の眠っているのといないのも、判別できるのだろう。

 鮎子の声が、ふたりのくるまるシーツの中に響く。

「こんなのでいいのかな?」

「……何が」

「セックス。わたし、女同士でつきあうのって初めてだから」

「知ってるし、私もだよ」

「これで正解なのかな? してほしいことがあったら、教えてね」

 普段の鮎子は、いつも不安げだ。自分のしていることがうまくいっているか、正しいことか、その判断をいつも求めているように見える。それは、私の命を救った英断とは正反対の、腰の引けた言動だ。

 でも、それは、私の前でだけかもしれないな、とも思える。

 私がもう一度、死んだりしないように。私をふたたび鬱の底に突き落としたりしないように。

「別に……満足だよ。そばに鮎子がいて、鮎子が私のためにしてくれることなら、だいたい」

「そう」

 鮎子は、そっと私の肩を抱いてくれる。引き寄せられると、ほっとする。真新しいダブルベッドの弾力のあるスプリングより、はるかに優しくてあたたかなものが、私を支えてくれる。

 きっと鮎子はすこし顔を傾けた、あの顔をしているだろう。振り向かなくてもわかる。

「鮎子こそ、もっと気持ちよくなりたいんじゃない?」

 私の小声は、彼女の耳に届いたらしかった。びくっ、と、彼女の細くてまっさらな腕が震えた。

「……私のことは、後でもいいよ」

 彼女は、やっぱり、どこか腰の引けた声音で言う。



 私が入院して、薬で心身を癒しているあいだに、鮎子は身を粉にして活動していた。

 何をどうしたのか、私が退職に追い込まれた事件に関して会社と交渉し、慰謝料をふんだくったらしい。さらには、おろおろと駆けつけた私の家族ともねばり強い会話を続けたという。私を連れ戻したかった母親をなだめすかし、時には激論を交わし、ついには私の再起についての協力を取り付けることに成功した。

 このあたり、鮎子はあれこれ報告してくれたはずなのだが、薬でもうろうとしていた私はあんまり覚えていない。

 それでも、すべてを失った思いで途方に暮れていた私は、鮎子との会話で癒され、鮎子の懸命な行動のおかげでいろんなものを取り戻し、かつて持っていた以上のものさえ得ることができた。

 退院した私を待っていたのは、微妙に額の増えた預金通帳と、鮎子といっしょに住むことになった新しい部屋だった。



「仕事、もう慣れた?」

 ふたりでぼんやりと音楽を聴いていた夜、鮎子が私に問いかける。私は、その他愛ない一日を思い返しながら、答える。

「まあまあ」

 鮎子と住むようになってからしばらくは、忙しかった。鮎子に頼りきりになるわけにもいかない、と思って、私は必死に再就職先を探したし、鮎子の方もそれを後押しした。慣れない新生活のストレスや、入院ですっかり衰えた体力のせいもあって、毎日泥のように眠ったものだ。

 その甲斐もあって、どうにか前と似た仕事を見つけることができたし、職場にも意外と早く馴染むことができた。

 転職した鮎子と、社会復帰した私の生活は、ようやく軌道に乗ってきたところだ。

「疲れたら、休んでもいいからね。困ったら私が何とか言ってあげるから」

「保健室登校の子供じゃあるまいし」

 職に就く前はあれだけ私の背中を押していた鮎子が、ちょくちょく私を甘やかすのは、不思議な感じだった。部屋に流れる音楽に声の高さを合わせて、私は答える。

「けっこう、ちゃんと働けてるよ。鮎子がずっと助けてくれたおかげ。たぶん、かなり、私は回復してる」

 鮎子は、まっすぐ顔をこちらに向けたまま、ほおをかすかにゆるませて笑う。左目のほうがすこし大きい鮎子の笑みは、なんだか、ちょっとつついたら崩れてしまいそうだった。

「鮎子こそ、無理してない? 私の代わりにあなたが倒れたら、元も子もないよ」

 私は、テーブルの向かいに座った彼女のほおに、そっと手を伸ばす。彼女の顔の左側を、その右手で、うまく支えられたらいい、と思う。

 もっちりした肌に私の指が触れると、鮎子はかすかに頬を震わせて、くすっ、と笑い声をこぼした。

「ありがと」



 実家には、ときどき電話をする。いつも謝りたそうな母の声と、いくぶん老け込んだ父の声を電話越しに聴いていると、胸の奥ににじむような痛みを感じる。手首に刃を立てたときの痛みを希釈したようなそれは、激しくはないけれど、ひどく私を苛む。

 かつての母は、自立しようとしていた私をしばしば叱咤し、責めた。それは私を応援するのではなく、私を自分の元に引き戻そうとする行為だったのだとは、後から気づいた。父は、そんな母の行為をとがめるでもなく、私を援助するでもなく、ずっと距離を置いていたように思う。男親と女親と娘とは、だいたいそんな関係だった。

 かつて勤めていた会社とは、もう関わりはない。かつての恋人やその周辺とも、縁を切った。スマートフォンの連絡先も、ラインのアカウントも、名刺も、すべて一掃した。私の許可と確認の元に、鮎子がそれをしてくれた。

 学生時代からの友人とは、たまに連絡を取る。会社勤めになってからは疎遠だったので、私の自殺未遂のことは教えていないし、そのつもりもない。転職し、女性と同居していることを伝えると、みんなちょっとだけ驚く。彼女らと会う機会はまだ作れていない。そのことで、私はまた、薄い痛みを感じる。



 私が部屋に帰ってくると、散らかった部屋の真ん中で、鮎子が呆然と座り込んでいた。ちょっとずつ整理していた段ボールの中身をすべてぶちまけたらしく、夏服とアロマポットと文庫本とがまぜこぜになって床を埋め尽くしている。その真ん中で、鮎子は寄る辺ない様で宙を見つめている。

 ぽかんとドアの前に立ち尽くしていた私に、鮎子が目を向けてきた。

 顔を右側に傾けた彼女は、いつにもまして、というか、今までになく、アンバランスな顔をしていた。

「……ないの」

「何が」

 ドアを閉め、鍵をかけて、パンプスを脱いで部屋にあがる。鮎子はいまにも泣き出しそうな声で言う。

「ブローチ。ワインレッドで、イエローローズの花びらが入ってて、大学の時に買ったの、ずっと持ってて、でもどこにもなくて、」

 彼女の様子を見れば、それがどれだけ大事なものか、そのためにどんな努力をしたか、訊かなくたって分かる。そんなことをいちいち無粋に訊ねて、時間や言葉を無駄にはしない。

 私は散らかった床をかき分け、鮎子の前にしゃがんで視線を合わせる。

 そして、手を伸ばして、彼女の頭をなでた。丸い頭頂部をなぞるように。

 彼女の艶やかな黒髪に浮かぶ天使の輪を慈しむように。

 よしよし、と、赤ん坊をあやすような言葉は、さすがに口にしないけれど。

「どこでなくしたんだろう、せっかく、」

 鮎子の口からぽろぽろと言葉がこぼれ続け、

「空ちゃんと、デートするときの、とっておきで、」

 そう言われて。

「……もう」

「えっ」

 私はたまらなくなって、鮎子を抱きしめていた。いつも、こうしてふれあっているはずなのに、いまの鮎子はずっと頼りなく、溶けかけたマシュマロみたいに不安定で、だからよけいに強く抱いていたくなる。そのゆらゆらと揺れるものは、いつも私を寄りかからせてくれて、その揺蕩うリズムは私を心地よくさせてくれる。

 だけどいまは、腕に力を入れた。鮎子を引き寄せて、告げる。

「いいんだよ。なくなったものがあるなら、また、新しいものを手に入れたらいいんだから」

「……」

 ぐっ、と、胸元に鮎子の額が押しつけられる。仕事から帰ったばかりのくたびれたブラウスの上で、鮎子が、むずむずともがいている。右耳、左耳、耳たぶのちいさくて滑稽な感触が、私の固い胸をくすぐっていた。

 私の心臓の音を、探そうとしているのかもしれなかった。

 鮎子の両手が、私のわき腹を抱きしめてきた。

 胸元から、鮎子の低い声。

「ごめんね空ちゃん」

「いいんだよ、別に――」

「わたし、ずっと、悪い奴だったんだ」

 鮎子は突然、そう言った。

「わたし、ほんとうに、昔の空ちゃんのことは何も覚えてないの。あのときも、貧乏くじで、面倒だなって思ってて。2度も来たくなかったから、無理にでも部屋に入って、荷物だけ放って帰るつもりで」

 彼女が言っているのが、私の自殺未遂の時であることは、言うまでもなかった。

 彼女がオートロックのドアをやり過ごし、私の部屋まで入り込んだのは、単に、自分のためだった。

 いやな予感とか、虫の知らせとか、そんなことじゃなかった。

 そう聴かされても、私の気持ちは動かなかった。それを口にする鮎子の声が、消え入るようにちいさく、私の心臓の上に積もるように聞こえていたから。

 それはもう、過ぎたことだったから。

「バスルームのドアが開いてて、わたし、中に入って、変な匂いしてて、バスタブでぐったりしてる空ちゃんを見て、あわてて起こして、真っ白だった空ちゃんの、ひどい顔を見て、」

 鮎子の背中が、しゃくりあげるように震えた。

「あれって、一目惚れ、っていうのかなあ」

「……」

「この子のためなら、何でもしてあげよう、って。わたし、すべてを尽くしてあげようって。おかしいけど、そう思った」

「おかしくないよ」

 私は言った。

「そうかな?」

「おかしくないよ」

 私は繰り返した。

 それが、特殊な性癖だとか、緊急時の異常な心理だとか、そういうものだったとしても。

 私はそれによって救われたのだから。

 人を救うものは、何であれ、決して間違いではない。

「私は」

 鮎子の言葉を引き取って、続けた。

「病院のベッドで目が覚めた時、最初に見たのが、私の顔を上から見てる鮎子の顔だった。なんか、ずっと呼びかけてた気がしたけど、覚えてないんだよね」

「うん」

「そのとき」

 ちょっと左に傾いて、私を見下ろす鮎子の表情が、目に焼き付いている。

 私が完璧なバランスだと思う、鮎子の角度。

「鮎子のこと、好きになってた」

「……刷り込みみたいなものかな」

「かもね」

 生まれたてのヒヨコが、そばにいたものを親と見なして慕うようなものかもしれなかった。

 それだって、歪な恋なのかもしれない。

 でも、それは私の心を固め、私の魂を救い出した。

 天使ならぬ人の身の鮎子が、死に瀕した私の手を取ってくれたのだった。

 そして、私たちはこうして、そばにいる。愛し合っている。

「明日、いっしょに買い物行こうよ。ブローチでも、何でも、何かお揃いのものを買おう」

「でも、明日も仕事じゃない?」

「休んだっていいでしょ」

「そうだね」

 かんたんに言い合って、私たちは笑う。別に明日でなくてもいいことを約束する。いたずらの計画をするみたいに、私たちは、くすくすと言葉を交わしあう。

「空ちゃん、あったかい」

「私はもう、ひとりでも歩けるから。でも、ずっとそばにいてね、鮎子」

「もっと話したいこと、たくさんあるんだ。好きなもの、大事なもの」

「私は、これからそういうの、たくさん作るよ」



 たぶん、私は一度死んだのだけれど、そのおかげで鮎子と出会えた。

 そして、幸運にも続いたこの恋のなかで、私はいろんなことをやり直していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死んだあとの恋人 扇智史 @ohgi_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ