第7話 未来への魔法(下)

 夜空色の三角帽子にワンピース。おさげ髪をした小さな魔女の足下で、見守るのはニヤリと笑ったカボチャのジャック。


 そんな彼女が持つ、空飛ぶホウキの穂の先は、ジャックと同じカボチャ色。

 白い白い紙の上、カボチャの魔女は大きなホウキを両手で支え、すうっと胸いっぱいに息を吸い込む。

 そして、カボチャ色に染まったホウキの先を、真っ白な紙にそうっとつけた。


 さらっ――。


 紙とホウキが擦れる優しい音とともに、真っ白な紙に鮮やかなオレンジの線が引かれる。

 最初はためらいがちだった樹里の顔は、一瞬で真剣そのものの表情に変わった。夢中でホウキを握りしめ、白い紙をオレンジ色に染めていく。真っ直ぐな線、丸い線、小さな丸、大きな丸――白い世界が、あっという間に賑やかな文字と絵で満たされていく。

 俺はそれを、紙の端でじっと見守っていた。


「おい君たち、何やってるんだ!」


 気付けば、何の騒ぎだと人々が遠巻きに集まり始めている。そのさらに向こうから、異変を察知した病院の警備員が飛んでくる。紙の上にまで踏み込もうとする彼の前で、俺は慌てて両手を広げた。


「待って! すみません、もう少しだけ、待ってください!」

「何を言ってるんだ、こんなこと、勝手にしていいと思ってるのか!?」

「ちゃんと片付けますし、後でたっぷり怒られますから! だから、今だけは待ってください!」


 必死で警備員を押しとどめながら、今までの人生でこんなに一生懸命だったことがあるだろうか、という思いが脳裏をよぎる。

 父の希望するままに、なんとなく生きてきただけの十九年間。勉強は頑張っていたつもりだったが、今思えばそれは単に父の顔色をうかがっていただけ。「父の思うままの優等生」という殻に甘えていただけの俺は、こんなに自分以外の誰かのために必死になったことなんて、一度もなかったのだ。

 だから――今、なおさらここを通すわけにはいかない。これは、俺が自分で考えて、決めたことだから。俺が今、やりたいことだから。


「ここは、通せません!」

「いい加減にしないか! ――おい、手伝ってくれっ」


 警備員が背後に呼びかけた先から、別の警備員が走り寄ってくるのが見える。どうしよう、と焦りが募る。大の大人が二人も来たら、これ以上押しとどめていられない。

 樹里はまだ描いている途中だ。間に合わない、頼むから早く――っ


『えーえーっ、皆さんご存じ大人気ドーナツ店、倉田屋。ハロウィンの出張大サービス! この声が聞えてる人はなんてラッキー、ぜひとも足を止めてご静聴あれ!』


 その時突然、俺のよく知った声が耳に飛び込んできた。ガサツで粗暴なドーナツ店の店主の声。それが今は、やけに気取った口調をしているちぐはぐさが何ともおかしい。でも、それすらも何だか倉田さんらしい。

 俺はもちろん、俺と組み合っている警備員のおじさんも、走り寄ってくる途中の若い警備員も、声のした方向を振り返った。中庭を通り抜けた向こう、病院の入り口付近に、カラフルな販売車が止まっている。そしてその前に立った倉田さんは、片手に持った拡声器を口元に近づける。


『ハロウィンといったら子どものお祭。というわけで、一時間限定、子ども限定のドーナツ無料配布だ! 孫に持って帰りたいおばあちゃんおじいちゃん、子ども心を思い出したい若者諸君も特別にサービスしちゃうぜ。しかし病院だけに、血糖値に困ってる人はやめてくれ、責任持てないからな。さあ、よってらっしゃい見てらっしゃい!』


 周囲のざわつきが増し、俺たちの周りに集まっていた野次馬の何人かが、販売車方へ動き始めた。「お母さん、ドーナツ!」なんていう小さな男の子の声がざわめきの中に混ざる。

 俺の視線の先で、こちらへ走ってこようとしていた若い警備員が迷ったように足踏みを繰り返す。中庭に現れた怪しい二人組を捕まえるべきか、あろうことか病院の入り口で営業しようとしている販売車を止めるべきか、明らかに困っている――そして、彼はチラリとこちらを見た後、販売車の方へきびすを返していった。


 俺はそれらの様子を、呆気にとられて眺めていた。確かに倉田さんには加勢してくれるようあらかじめ頼んであったけど、やる気のない返事が返ってきたから期待していなかったし、ましてやこんな方法をとるなんて夢にも思わなかったのだ。


「翔――できたわ!」


 背後から、元気の良い声が飛び込んでくる。振り返るとホウキを抱えた樹里が、キラキラ輝く目で俺の方を見ていた。目があった瞬間、眩しい笑顔はいっそう顔中に広がり、やがて彼女はこちらへ駆けてくる。

「ね、みてみて!」

 小さなカボチャの魔女が俺の手を引く。そして俺は、煙に巻かれたように立ち尽くしている警備員を置いて、描かれた物を踏まないように紙の上へと進み出る。

 そして、そこに描いてあったのは――。


『おかあさん だいすきだよ』


 そこには、大きなオレンジ色の文字で力一杯そう綴られていた。文字の周囲には、絵が四つ。一つはカボチャのジャック。もう三つは、

「おかあさんと、おとうさんと、そしてわたし、だよ」

 家族の仲良く並んだ顔が、そこにはあった。それは樹里の母への思いに寄り添うように、優しく笑っていたのだった。


「あ、おかあさん!」

 樹里が頭上を指さす。見上げると、五階の一室から窓ガラス越しに髪の長い女性が見下ろしている。その隣には、宮野さんらしきナースの姿もあった。彼女が、樹里のお母さんを窓際までつれてきてくれたのだ。

 樹里がお母さんに向かって力一杯手を振る。お母さんも振り返してくる。遠くて表情はよくわからなかったけど、なんとなく笑っているという確信があった。


 俺も樹里の隣で微笑んで、それから地面の紙へと向き直る。もう一度よく文字と絵を見て、そして気付いたことがあった。

「あれ、もう一つ顔が描いてあるけど……」

 カボチャと家族三人が並んだ横に、よく見ればもう一つ絵が描いてあった。どうやら男性の顔らしい、少し伸びすぎの髪に丸い目をした、どこかで見たことがある気もする顔。


「……これは、翔だよ」


 樹里の言葉に、驚いて俺は振り向く。

「俺って、なんでわざわざ……」

「だって、翔はカボチャの魔女の弟子だから」

 弟子。小さな魔女は確かにそう言った。家来じゃなくて、弟子。


「マホウのうでが上がったみたいだから、家来じゃなくて弟子にしてあげるわ。弟子だから、かぞくみたいなものなのよ。……翔のマホウ、とってもすてきだったのよ」


 恥ずかしそうにモジモジと付け足されたその言葉に、不覚にも一瞬視界が潤みかけた。

 何か奇跡を起こせるわけでも、空を飛べるわけでもない。それどころか、自分の進む道を決めることすらままならない。それでも俺が自分で考えた魔法を樹里は確かに受け取ってくれて、そして、確かに樹里のお母さんに届いた。

 こんな俺にだって、何かをやりたいと思う意思も、やり遂げる力も、確かにあったのだ。


 たまにはハロウィンだって悪くない。

 俺は初めて、そう思ったのだった。

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