第6話 未来への魔法(上)
車の行き交う大通りの歩道。時刻が夕暮れに近づき、ぽつぽつと人も増え始めた頃合い。
その道の先を、小さな黒い背中がトボトボと歩く。
三角帽子の脱げたその姿は驚くほど地味で、本人だけならあっという間に人混みの中に紛れてしまいそう。けれどそんな中、大きなホウキだけが人混みを突き抜けて自己主張し、通行人はぶつかりそうになる度に顔をしかめる。
俺は人々の間を必死にかきわけ、その小さな背中に手を伸ばす。
「樹里! 待てよ!」
指先が小さな肩に届いた瞬間、ビクリと震えが伝わってきて、視界の中で二つのおさげが宙に揺れた。迷惑そうに通行人たちが俺たちを追い越していく中で、立ち止まった俺たちのいる空間だけが、まるで切り取ったかのように静かだった。
そして、おずおずと、小さな魔女は振り返る。
「翔……? どうして?」
会った当初の勝ち気な様子は微塵もなく、そこにいたのは、不安そうに見上げてくる、どこにでもいる小さな女の子だった。すっかり戸惑った様子のその頭上に、俺は息をきらしつつ、そっと三角帽子をかぶせた。
「忘れ物。これがないと、カボチャの魔女になれないだろ?」
「でも、わたしはべつに魔女なんかじゃ……」
もう知ってるくせに。そう言いたげな様子で、樹里は左手のジャックをぎゅっと抱きしめる。
小さく頼りない少女の横に、俺はそっとしゃがみ込んだ。同じ高さになった目線の先で、幼い瞳は泣きだしそうな潤んだ色をたたえていた。
「いーや、お前はまだカボチャの魔女で、俺はその家来だ。今日は十月三十一日だから、ハロウィンの魔法はまだ続いてるんだ」
そして俺は、脇に置いた大きな紙袋を軽く持ち上げる。中から、カサリと何かが擦れるような音がする。
「家来が思いついた飛びっきりの魔法、乗ってみる気はないか?」
樹里は紙袋と俺の顔を交互に見比べて、泣き出しそうな、困ったような、少しほっとしたような、なんとも言えない表情を次々と浮かべる。そして最後に俺の目を見て、ゆっくりとうなずいたのだった。
よし。と俺は勢いよく立ち上がり、ホウキごと樹里の手をつかむ。
「行くぞ。飛びっきりの魔法で、飛びっきりのイタズラをしてやろう!」
***
附属病院の大きな中庭の、コスモスの花壇に囲まれたど真ん中。
そこに、中庭を全部覆うほどの、大きな大きな真っ白な紙を目一杯広げて。
それは画材店から買い占めた大きな紙を、裏から布テープで何枚も繋げただけの陳腐な様相。けれどその白さは眩しいほどで、何も書かれていない様は、ワクワク感すらかき立てる。
この白がこれからどうなるかなんて、俺にだってわからない。だって、今日の主役は俺じゃない。
「樹里、来い! これはお前の舞台だぞ!」
花壇の端で呆気にとられて見守っていた少女に、力一杯左手を振る。そしておそるおそる近づいてきた小さな魔女に、俺は右手のバケツを押しつけた。
「部屋に入れてもらえないんなら――言うこと聞いてもらえないんなら、イタズラしてやればいいんだ。だって今日はハロウィンだ。それくらい、許されたっていいだろ?」
バケツの中には、画材店からかき集めたありったけの絵の具を水と一緒にぶちまけてある。その色は――もちろん、カボチャのジャックと同じ鮮やかなオレンジ色。
年に一度の素敵なハロウィンの色。
「描けよ、樹里。今お母さんに一番言いたいこと、この紙にめいっぱい。お母さんの部屋の窓から見えるように、大きくな」
「え……? かくって、どういうこと? どうやって?」
戸惑うばかりの樹里に、俺はにっこり笑って彼女の大きなホウキを指指す。魔女の必需品であり、本の中では空を飛ぶための道具。それが、今は、
「そのでっかいホウキは、何のためにあるんだ? お母さんの部屋まで飛んでいくことはできないけど……お前の気持ちを飛ばすことは、できると思うぞ」
おれはバケツを紙の上に置く。そしてホウキを樹里の手ごとつかみ、その穂先をバケツの中の鮮やかなカボチャ色にひたす――まるで絵筆のように。
「お前の魔法でイタズラしてやれ、カボチャの魔女!」
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