第5話 魔女の家来の決意
「あの子、〝
俺は中庭の花壇の横を歩きながら、隣を行く女性に問いかけた。宮野さんと名乗った若いナースは、コクリとうなずいて口を開く。
「樹里ちゃんのお母さんは、ずっとこの病院に入院しているの。血液の病気で無菌室にいるから、小学生以下の子どもは面会できなくて……ほら、子どもって雑菌の宝庫でしょ。病院の決まりで会えないことになってるの」
「だから、彼女は魔女の格好に?」
「多分……。ハロウィンの日なら、仮装すれば言うことを聞いてもらえると思ったのかしら。樹里ちゃん、どうやってもお母さんに会いたかったのね」
ハロウィンの日は、魔女の言うことは絶対。そう言っていた樹里の声を思い出す。岩見樹里はお母さんの部屋には入れない。でもカボチャの魔女なら入れると――そういう、ことだったのだろうか。
俺は歩きながら、右手につかんだままの三角帽子に視線を落とした。持ち主に置いていかれた帽子は、どこか寂しそうに俺の手の中に収まっている。
「お菓子を届けたいとも言ってたけど」
「お母さんにあげたかったみたいね。外からの差し入れにも制限かかってるから、渡してあげることもできないんだけど……」
「……そうですか」
なんとなく会話は途切れ、俺は居心地の悪さに花壇へと目を向ける。花壇の上では薄紫色のコスモスが、通り抜ける風にユラユラともてあそばれていた。その様子はきれいでもあり、どこか、寂しい。
「ところで、翔くんはひょっとして天満先生の?」
「え、っと」
いきなり父の名前を出され、俺は言葉に詰まる。でも冷静に考えてみればここは父の職場で、そして残念なことに、うちの名字はやや珍しい。
「天満明は、父です。俺は息子です」
「やっぱり! 多くない名字だから、そうなのかなって。ここだけの話、樹里ちゃんのお母さんの担当は、天満先生なのよ」
――天満先生。
その名を聞く度に、気持ち悪さがこみ上げてくる。
何なんだろう、こんなのってありか? バイト先に押しかけてきた女の子についていった先が父の職場で、そして父の患者の娘だったって?
こんなことですら、まるで父に仕組まれたことのような気がして、不快な気持ちを押さえられない。俺は、いつまでも父のレールに乗せられたままなのか。もはや、レールの上を進むことすらできなくなっているのに。
「あれ、天満先生!」
ふいに前方の建物の影から現れた姿に、宮野さんが声を張り上げる。その人はゆっくりとこちらを振り返って、そして、間違いなく目があった。
会いたくもないはずの父の姿が、そこにあった。
「先生、翔くんが来てますよー」
「いや、ちょっと待って……」
俺は慌てて宮野さんを黙らせようとしたが、既に父はこちらに向かって方向を変えた後で、もう何もかもが遅い。
口ごもる俺に、宮野さんは不思議そうに首をかしげている。ああ、きっとこの人は何一つ知らないのだ。今俺がただのプータローであることも、そのせいで俺と父の仲がどうなっているのかも。
気付けば父は、あと数歩の距離のところに立っていた。逃げ出すこともできず、俺はただ身をすくめる。
「翔……お前どうして」
「ちょっと、色々偶然で……」
ぎこちない会話を交わしたきり、俺たちの間には沈黙が鎮座する。小ぎれいな白衣に身を包んだ細身の父は、神経質そうな目でじっと俺を見て、そして視線をそらした。
会話にもならない会話だったが、それでも随分と久しぶりに交わした言葉であったのは事実だ。
「翔くん、樹里ちゃんの知り合いみたいですよ? ほら、岩見さんの娘さん」
無神経なのか図太いのか、この空気の中を宮野さんは大して気にした風もなく口を挟んでくる。
「岩見さん?」
「白血病の方ですよ。五階の無菌室の」
「ああ」
父の返事はやっぱり短い。病院でもやっぱりこんな感じなのか、と俺は飽き飽きした面持ちで眺めやる。そんな俺に、父はちらりと視線を投げた。
「……あまり、遅くなるなよ」
父は、普段俺が何時に帰っているかなんて知りもしないだろう。なのに宮野さんの手前か、とってつけたような一言を残して、父はさっさと俺に背を向けていた。
そんな言葉ですら、俺にしてみれば久しぶりに父にかけてもらえた言葉で。だからこの時の俺は随分と調子に乗っていたのだろうと思う。立ち去ろうとする父の背中を、思わず俺は呼び止めていたのだ。
「待って、父さん!」
思えば最後に父さんと呼んだのすら、思い出せないくらい前であることに気付く。
「樹里、お母さんにすごい会いたがってて。父さん、主治医なんだろ? 何とかならないのか」
調子に乗っていたのと同時に、俺はすっかり頭から飛んでいた。父は、一度だって俺の――
「面会させてやれという話なら、許可できるわけがない。わかりきったことを聞くな」
――父は一度だって、俺の願いを聞いてくれたことなんてないということに。
いつだって、父が俺に対して何かしてくれるのは、父自身が望んだことに関してのみ。それ以外の俺の頼み事は、決まって一蹴されて終わりだった。
俺は、父にとってただの駒でしかなかった。今だって、そうなのだ。
「……うん」
自分の決めたことに意を唱える息子なんていらない。言う通りにできない子だって必要ない。そう言われているようで、俺はただうなずいて黙り込む。細身の背中は、再び俺から遠ざかっていく――
「それは、お前が自分で首を突っ込んだことなんだろう。……やりたいことがあるなら、自分自身で考えて決めろ」
え……?
俺は思わず息をのんで顔を上げる。父は今度こそ何も言わずに遠ざかり、白い建物の陰に消えていく。俺はただただ立ち尽くしてその様子を見つめていた。あまりに驚いて、一言も発することができなかった。
「翔くん……?」
宮野さんがいぶかしげにのぞきこんでくる。俺はそれにすら、何も言葉を返すことができない。
だって、そんなこと生まれて初めて言われた。自分で考えて決めろ、なんて。
「翔くん、どうし……」
「――いまさら、なんだよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。え? と宮野さんが目を丸くする。その間にも、握りしめた拳の中から熱の塊が膨らみ始めていて、あっという間に全身へ巡っていく。熱くて、苦しくて、息が詰まる。
ふざけんなよ。そう押し殺した声でつぶやいた。そして一度こぼれ落ちた言葉は、もう止まらなかった。
「いまさらすぎんだよ。散々自分の思い通りにしておいて、いざ落第したら、今度は自分で決めろ? なんでいまさらそんなこと言うんだよ。俺が今こうなってるのは、誰のせいだと思ってんだよ。遅すぎんだよ……!」
叫ぶように言葉を吐き出して、こらえきれずにうつむく。そんな俺の背中に、ふいに暖かな感触が触れた。ビクリと肩を震わせて振り返ると、宮野さんがそっと片手を伸ばしていた。
「翔くんとお父さんの関係、今日会ったばかりの私には全然理解できていないのだろうけど……」
宮野さんの目が、真っ直ぐに俺を見る。
「遅すぎた言葉でも、そのまま届かないよりはずっといい。頑なになって、誰かのせいにして、本当にやりたいことを見失ったら、だめ、だと思う」
どきりとした。同時に感じたのは反感だった。
そんなこと言われたって、やりたいことってなんなんだよ。会ったばかりの人間が、勝手な綺麗事言うなよ。俺は、今にもそう口走る寸前だった。
その時、無意識に握りこんだ右手の中で、持ち主のいない三角帽子がグシャリと音をたてた。その感触に、唐突に俺の脳裏に小さな魔女の姿が浮かぶ。母親に会いたくて魔女になった、樹里という名の少女の姿が。
――本当にやりたいことを見失ったら、だめ。
宮野さんの真摯な言葉が頭の中で繰り返される。
俺の、やりたいこと。俺が今――樹里のためにできること。
「……宮野さん。樹里のお母さんの部屋、窓はどこに向いてるんですか」
「え? えっと、確かこの中庭に面していたはずだけど」
唐突な俺の質問に、宮野さんが戸惑っているのがわかる。
俺はふうっと長い息を吐き出した。
今思いついたことが正解かどうかなんて、わからない。でも、ひょっとしたらまだあるのかもしれない。こんな俺でも樹里のためにしてやれることが、まだ――。
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