#6 あまり期待しないでください

 目を瞑ると、遠くなっていく背中が走馬灯のように付き纏い、その姿に釘付けにされた自分に腹が立つ思いだった。

 時計は深夜二時を回ったところだ。

 明日こそは、学校に行かなければならないが、一睡も出来ず、迎えた朝の日差しは僕には不快でしかなかった。

 

 時間が立つと、経験はいつしか思い出に変わり、思い出は記憶へと変化する。

 あれから三週間が過ぎた。世間はすっかり夏色に変わった。

夏休みに入り、就活空気に囚われず、日払いのバイトで小遣いを稼いでは使い、稼いでは使いと、すっかりだらけきった生活を送っている。

 そんな自由な生活とは裏腹に、苦い思い出もぶり返してくる。

長期休みに入り、一観祢神社が一層メディアを賑わせることと、中むつましく、いちゃつく浜見と如月の姿がいつまでもあの経験を記憶へと変化させてくれない原因だろう。


「見せしめか?」

 昼まで寝ていようとしたが、浜見のメールで目を覚まし、『一時間後に一観祢神社近くのファミレスに来い』と有無を言わさぬ内容を言われるままに従った結果、仲良く昼食を取るデート中のカップル席に鞄を叩きつけることになった。

 あれから二人は幾度かデートを重ね、時にはぶつかることもあったようだが、それが逆に二人の距離を縮めていったのだろう。

 そんな二人に睨みを効かすが、まったく効果が無かった。

「そう言いなさるな。今日、お前をここに呼んだのは他でもない。今日が何の日かわかるか?」

 店内、外を見ても一目瞭然である。

「祭りだろ」

 そう、年に一度の夏祭り。いたるところで浴衣姿のカップルがうろうろしている。当然、如月も浴衣である。

「お前はデートしている場合じゃないだろ」

 お前とはもちろん如月のことである。巫女にも関わらず、なぜこんなところ呑気(のんき)にパスタを食っているのか。

「私の換えなんてたくさんいるからね。でも、絶対に換われない人もいる。誰かなんて野暮なこと聞かないわよね」

「誰かは聞かないけど、どうしろというのかは聞いておきたいね」

 今更、今更、今更。

「あんたも知っていると思うけど、このお祭りには巫女が行う巫女舞があってね。巫女舞は結構重要なイベントなんだけど、一観祢さんの様子がおかしいみたいなのよね。神職が言うには、三週間くらい前かららしいけど、何があったんだろうねえ?」

「さあねえ。舞があるのも知らないし、一観祢に何があったかも知らないねえ。でも、新職が三週間も気がつかなかったならたいしたことないんじゃないか」

「気がつかなかったんじゃなくて、聞けなかったのよ。私が言うのも何だけど、神職は娘を避けているっていうか、気を遣っているっていうか、なんか他人みたいな関係なのよね。会話も敬語だし、お互い深いところまで踏みこめていないって言うかねえ」

 如月は納得できないといった表情でアイスティーを一口含んだ。

「家柄なんじゃないのか。ああいう由緒正しい家って、親子でも敬語で話したりするだろ」

「本の読みすぎ? いや、書きすぎで考え方まで妄想になっているんじゃない? そんな家庭は一握りよ。私の周りにいてたまるものですか」

 いやいや、その考えは個人の妄想を超えて、世界を自己中心に見ているような。自分の知らない世界は存在しない、するわけがないという思考。如月の前に宇宙人とか魔法使いとか現れたとしても、こいつは即座に存在を否定するだろう。僕もするけどさ。

「まあ、家柄は置いておいて、僕にどうしろって言うんだ?」

 一観祢とはもう三週間会っていない。それどころか、三週間前に二回会った程度だ。いくら僕が一観祢の悲しい過去を知っていようと、今から僕に出来ることなんてあるのだろうか。それに、僕にどうにかしてもらおうなんて、一観祢自身が思っていないのではないだろうか。

 確かに三週間前から様子がおかしくなったなら、僕に責任があるかもしれないが、僕には責任を負う資格すら与えられていないような気がする。あの時、呼び止めることも出来なかった僕に――。

「どうするかは自分で考えてよね。これは久波のためじゃなくて、一観祢さんのためだと思ったから呼んだのよ」

 一観祢のため?

 それこそ――

「今更だ」

 まただ。今更どうしろというんだ。今更何をしろというんだ。

「本気でそう思っているの? だったら話にならないわ」

 如月は、隣でアイスコーヒーを飲んでいた浜見の腕を掴んだ。

「おっ、おい」

 急なことに抵抗も出来ず、引っ張られていく浜見は余った左手でカバンを掴み、振り向きながら「行けよ」とだけ言った。

 親友の言葉に、賑やかな店内で唇を噛んだ。

 

 気持ちが落ち着かないまま、一観祢神社の中へと足を運んだ。

『本気でそう思っているの?』

 如月の言葉が耳に残っている。

 僕は本当にそう思っているのだろうか。

 本当にこのまま記憶にしていいのだろうか。

 わかりきっていることだった。

 良いわけがない。思い出にだってしたくない。

 そもそも、思い出になることなんて一つも経験していない。

 このまま何もしなかったら、この経験は苦い思い出に変わってしまう。辛い記憶に変わってしまう。

 一人の女性に手を差し伸べることすら出来なかった不甲斐ない記憶に。

 ただ、そうとわかっていても、これからどうすればいいのかわからない。何が最善なのか。どうすれば一観祢のためになるのか。

 会いに行ってどうする?

【元気か?】

【如月に聞いた。調子悪いのか?】

【久しぶり。見に来たよ】

 幾多の反応がシミュレートされ、却下されていく。それもそうだ。僕の頭の中では必ずこう返ってくる。

「何しに来たの?」

 そう。こんな風に腹話術のように口を開けたかもわからないようなつぶやきで、僕を突き放して…………えっ?

 振り向くと、そこには一観祢が立っていた。俯きながら、不安な表情を浮かべながら、一観祢鈴は僕の前に立っていた。

 幸か不幸か、一観祢の出没はかなり唐突だ。

「元気か?」

 考える間もなく、僕は思わずそう呟いていた。


 一観祢と再開した後、僕は関係者以外立ち入り禁止地域、すなわち敷地内にある自宅へと連れて行かれた。

 イメージしていたとおり、立派な和式で、客間として通された部屋には僕が見ても価値などさっぱりわからない掛け軸やら陶器やらが飾られている。

 出された麦茶を少し震えた手でゆっくりと飲み、対面に座る人物を見る。

 どうしてこうなったのかわからない。

 僕の前に座っている人物は凛とした風貌(ふうぼう)に加え、正反対の穏やかささえ伺える男性。その人こそ、一観祢神社の神職、すなわち、一観祢鈴のお父さんである。

「着替えてくる」

 巫女装束に身を包んだ一観祢がそう言ってから、一分もしないうちに神職は僕の対面に腰を下ろし、一観祢が自分用に用意して手をつけなかった麦茶を白々しく飲み干した。

「どうも初めまして。鈴の父です」

 にっこり笑ってそう挨拶されたら、僕も悪い気はしない。

「はっ、初めまして。久波新です」

 自分でもわかる。笑顔は引きつっていただろう。

「本来なら私はこんなところにいる立場ではないんだけどね」

 そりゃそうだろう。祭りの日に神職が家で茶を飲んでいる場合ではないことは僕にだってわかる。

「――あの子が稽古中に急に外に出たから、誰かと会うのかと思ったんだよ。内緒であの子の後をつければ、様子がおかしくなった原因がわかると思ったんだが、私の考えは間違っているかな?」

 どう答えたものか。僕が一観祢と会ったのは偶然だが、原因が僕にあることは十中八九だろう。

「会ったのは偶然です。待ち合わせをしていたわけではありません。でも……」

 言葉に詰まって、視線をずらす僕を見て、お父さんは何も言わずに次の言葉を待っていた。

「――娘さんの過去を聞きました」

 これだけ言うと、お父さんは少し驚いた表情で「そうか」と呟いた。

「あの子があのことを人に言うなんてね。どうやら君は相当信頼されているようだね。まったく羨ましい限りだよ」

「羨ましい?」

 そういえば、如月が親子らしくないと言っていたな。

「君は地元の人かな?」

話の流れがわからないが、「はい」とだけ答える。

「では、この神社が縁結びで有名になったのは、最近のことだと知っているよね?」

「ええ、メディアに取り上げられてからですよね」

「ああ。数年前までは閑散としていてね。それでも、あの子はそんなここが好きだったんだよ。静かで、ゆったりと時間が流れているここがね。でも、私がそれを変えてしまった。あの子にとっては安らぎさえも奪ってしまった張本人だからね」

「でも、娘さんは巫女として立派にやっているじゃないですか」

 正直、掃除している姿しか見たことが無いのだが。

「それは、父。ああ、あの子にとっては祖父への思いが強いからだろうね。それに巫女という立場が都合良いのだろう」

「……逃げるため?」

 父親の前で思わず言ってしまった。

「まあ、私も詳しい事情は知らない。あの件に関しては君のほうが詳しいだろう。君が言うなら多分そうだろうね」

 お父さんにも信頼されたと思っていいのだろうか。

「――そんな辛い過去があるのに、私はこの神社を縁結びなんていう不愉快極まりない神社にしてしまった」

 えっ? してしまった?

「ここは、昔から縁結びの神様を奉っているんじゃないんですか?」

「厳密(げんみつ)に言うと違う。本殿に奉られているのは、わかりやすく言うと家内安全と商売繁盛だね。縁結びはおまけみたいな感じ。家内安全なんていうけど、嫁は早くに息を引き取ってしまったんだけどね」

 衝撃の事実を軽く言われてしまった。

「――そもそも、合格祈願とか安全祈願、安産祈願、そういうのは結構強引な部分もあるんだよ。昔の人が考えたことだからなんとも言えないけど、作ろうと思えば今だって作れる。例えば、偉い武将が戦に勝つために勝利祈願をし、実際に勝った。これは何を祈願すると思う?」

 戦に勝つためということは、戦いに勝つこと。敵を倒す。目標を達成する。そう考えると、

「合格祈願ですか?」

「当たり」

 内心ほっとした。間違えてもペナルティがあるわけではないと思うけど。

「――勝利を手にする。これは受験生にとって願ってもないことだ。でも、こうも考えられない? 誰かを守れるように願った。大切な人の下に戻れるように願った。もしかしたら私利を願ったかもしれない。そのとき、何を願ったなんてそれは誰にもわからないことなんだよ。歴史を否定するわけじゃないけど、私たちはそれを目撃したわけじゃない。文献でしか知り得ない情報は簡単に改ざん出来る。もちろん、それは神に遣えるものの出来ることじゃない。ゆえに私には立場上、出来ない」

「じゃあ、どうして?」

「歴史というのは過去のことだ。過去というのをどの時代まで遡るかは人次第だからね。例えそれが昨日のことでも、それに意味があれば、歴史になるんだよ。ちょっと話が飛躍しすぎたね。簡単に言うと、私はこの神社を守るために新しい神を作ってしまったとでも言えようかな。胡散臭いけどさ」

 全然簡単に言われていない。昨日の出来事が過去になると言われても、

「正直よくわかりません」

「そうだねえ。言い方を変えよう。ちょっとこの神社の存続が危うくなってね。私は、家内安全を願った。亡くなった妻になんだけどね。そうしたらこうなった。神を作ったっていうのは言い過ぎたかな」

 足りない頭をフルに回転させて、その意味を考えた。

 多分、多分だけど、一観祢神社が何らかの原因で存続の危機を迎え、神職がその危機を神頼みといわんばかりに祈った。しかし、神職の予想とは裏腹に家内安全ではなく、商売繁盛のほうが働いて、縁結びのおみくじが異常な的中率を誇るようになった。それが伝え伝わり、ついにメディアで沸騰に。結果として、神社存続の危機を乗り越え、現在に至る。

「……おみくじは商売ですか?」

「結果としてね」

 賑わいを見せることが、神社の商売繁盛ということになり、それがたまたまおみくじだった。ということなのだろうか。巷では有名な縁結びの神社だが、裏話を知れば苦笑いしか浮かばない。

 ふと、浜見としたばかな話を思い出した。

『恋愛の神様だって腰を治す能力くらいあるかもしれないからな』

 これはあながち間違っていなかったのかも。

「随分と優しい神様ですね。いや、奥さんですね」

 皮肉というわけではない。純粋にそう思ってしまった。

「どうだろうねえ。家庭を守ったことは確かだけど、娘には嫌われてしまったからね。独り占めはさせないってことかな」

「……」

 冗談を言われようにも、言葉の出ない僕に気を使ったのか、神職は袴姿に似合わぬシルバーの腕時計を確認し、「おっと、長話をしてしまったね」と微笑みながら、立ち上がった。

 それを見て、僕も反射的に立ち上がる。

「いえ。とんでもないです」

「……君にこのことを話したのは、期待しているのかもしれないね」

「期待?」

「そう。もしかしたら君なら娘を変えることが出来るかもしれない。というのは建前で、娘が変われば、私との仲も睦ましくなるかもしれないからね」

 本音をこうも軽く話してくれるところから本当に期待されているのかもしれない。

「あまり期待しないでください。僕は神様じゃないですから」

「言っただろう? 神様は作ろうと思えば作れるんだよ。君のも祈っておこう。家内安全を。私には前例があるから、もしかしたら……」

 神職は姿勢良く、僕に向けて両手を合わせた。

「やっ、やめてください」

「そうだ。お賽銭を」

 そう言って、財布を取り出したので、僕も祈るようにしてそれを拒んだ。

「そうかい。無利益な神様だ」

 はっはっは、と笑いながら部屋を出て行く神職を苦笑いで見送った。

「ふう」

 一息ついてからもう一度座り、すっかり温くなった麦茶で喉を潤す。

「いい迷惑だわ」

 驚きのあまり、口に含んだ麦茶を噴出しそうになったが、どうにか留まる。

「いたのか」

「さっき来たのよ。あの人は私が立ち聞きしているのに気がついたから出て行ったようなものよ」

 全然気がつかなかった。そういえば、僕って一観祢が話しかけてくるまで存在に気がついたことないな。今度から気をつけよう。

「で、神様」

「神様って言うな」

「それは失礼。どうする? 庭を回る?」

 庭を回るというのはきっと祭りを回るということなのだろう。どれだけ広い庭だ。

「任せるよ。時間もそんなに無いんだろ?」

「ええ。夕方にはまた着替えなきゃいけないから。そうね、三時間くらいかしら」

「じゃあ庭でいいよ」

「刺があるわね。じゃあって、嫌々みたいじゃない?」

「滅相もないです」

「仕方ないわね」

 その言い方もすごく嫌々に聞こえるのだが、いちいちいがみ合っていたら時間の無駄なので、僕が折れることにする。

 それから、出店を一緒に回ったのだが、おいしそうにたこ焼きを食べたり、たわいもない会話で笑ったりと、どこにでもいる普通の女の子だった。

 ただ、射的の標準を僕に合わせた時の笑顔だけは一観祢にしか出来ないだろうと思わせるほど、満面の笑みだった。

「結構楽しいものね。人のお金でお祭りを回るのって」

 当然、僕の財布はすでに空っぽである。こんなことなら素直にお賽銭を頂いておくべきだったのかもしれない。

「それは良かったです」

 世の中にはお金で買えないものがあると言うが、それは、なんなんだろうか。

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