#5 ……だからかもしれない
夜も更けて、辺りは閑散としていた。昼間は賑わいを見せる一観祢神社も、月明かりが辺りを照らすことには、他の神社となんら変わらない静寂に包まれている。
鳥居に寄りかかりながら缶コーヒーを一口含み、月を見ていた。
「様にならないわね」
後方から聞こえる声を聞いて、ゆっくりと腰を上げた。
私服姿の一観祢を見るのは初めてだった。まあ、知り合ってまだ二日だし。黒くて長い髪を一つにまとめ、少し大きめなTシャツとスリムジーンズをラフに着こなしていて、昼間とのギャップに少し見とれた。
「じろじろ見ないでよ。かっこつけていたわりに変態なの?」
「かっこつけているわけじゃないし、変態でもない」
「そう見えたけど? まあいいわ。で、わざわざ人伝で呼び出して何か用?」
あの後、如月が機転を利かせ、一観祢にメールを送り、二人になる機会を作ってくれた。当の本人は今頃、浜見と一緒にどこかにいるだろう。
「さっきの話だけど、あの時、最初に思い浮かんだのは久波よ。でも、あんたは一観祢さんに夢中みたいで、正直勝てる気がしないわ。浜見が私のことを想ってくれているなら、その想いを教えてほしい。虫の良い話だけど、私を夢中にさせてくれるっていうなら付き合ってもいいよ」
本当に虫の良い話だったが、浜見はそれでも良かったらしい。それどころか、うまく口車に乗せられたようで、「任せろ」と気合十分だった。
「ちょっと聞きたいことがあってね」
「聞かれても答える気はないわよ」
まるで、何を聞かれるかわかっているかのような口ぶりだった。あらかじめ如月から何か聞いているのかも知れないとも思ったが、それはないだろう。
「昼間のことだけどさ」
「言っているでしょ。答える気はないわ」
頑なに口を閉ざすつもりなのだろうが、こちらが何を聞きたいかを予想していたなら、なぜこの場に来たのだろうか? 答える気が無いのなら、最初から話す機会など作らなければいい。でも――一観祢は来た。
「答える気がないのに、どうして来てくれたんだ?」
「……」
「本当は誰かに聞いてほしいんじゃ――」
「帰る」
身を裏返す一観祢の腕を思わず掴(つか)んだ。
「待てよ」「離してよ」
強く振り払われた反動で、逆の手に持っていた缶コーヒーを落としてしまった。その瞬間、強い風が僕らを襲った。
カランカランと音を立てて転がる缶。そういえば最初に会ったときもこうだった。缶とペットボトルの違いはあるが、何処まで転がるかわからないそれを追っていると、あの時は一観祢がそれを拾い上げてくれた。
でも、今は違う。その一観祢も僕の隣で、同じように缶の行方(ゆくえ)を追っている。
カランカランと音を立てて転がる缶は、しばらくして止まった。
それと同時に、一観祢の頬に光るものが滑り落ちる。
まるで、月明かりが宝石に輝きを与えているかのような雫はそのままポタリと地面に落ちた。
……泣いていた。
声を殺し、僕に悟られまいとしているのだろうが、鼻をすする音と、腕で瞳を拭う仕草は誤魔化せないようだ。
理由はわからないけど、こういう時どうしたらいいのかわからなかった。
恋や愛を義務にしている人なら、優しく抱きしめるなんて格好良いことをするのだろうが、あいにく僕はそういう恵まれた人種ではない。
何も出来ず、ただ呆然とすすり泣く一観祢を見守ることしか出来なかった。
「落ち着いた?」
場所を移して、境内のベンチ。
近くの自動販売機で買った水のボトルを空けて、俯きながら座る一観祢の隣に置いた。
それを手に取り、一口、二口と飲んでから、もう一度瞼に手を添えた。
「驚いた?」
「少し」と言いながら、隣に腰を下ろす。
それからしばらく沈黙が続いた。正直、何を話せばいいかわからなかった。
そんな不甲斐ない僕を察したのか、一観祢のほうが、噛んでいた唇を開いた。
「あなたの言う通りよ」
何のことかわからなかったので、俯いたままの一観祢を見下ろし、次の言葉を待った。
「――私は好きな人がいなくなるのが怖い」
失恋が怖いというのは誰にでもあることだ。
「――高校生の時、好きだった人がいた。その時はまだ巫女じゃなかったし、恋をすることも抵抗はなかったわ。告白して、付き合うことになって……その時の嬉しさは忘れることが出来ない」
驚きはしなかった。そうでなければ、恋に対して、あそこまで否定的になれるわけがない。知らないことを否定することは知っていることを肯定するより難しい。
「どんなにつらい別れをしたとしても、その人だけが全てじゃない」
僕の慰めに見向きもせず、一観祢は話を続けた。
「でも、私の幸せはすぐ終わった。付き合い始めて三日後の最初のデートの日、彼は……」
一観祢は言葉を詰まらせた。僕は息を呑んだ。
「私を庇って……」
死んだ。と擦れた声で言った。
もう何度見たかわからない涙を拭う仕草が一観祢の辛さを物語っていた。
「人って脆いのよ……車に当たったらすごく飛ぶの。さっきの缶みたいに、コロコロ転がって、止まって、動かなくなるの」
「……」
想像を遥かに超えた話に絶句した。
「何日も泣いた。大好きだった人の顔が頭を過ぎるたびに涙が止まらなかった。そんな私をずっと励ましてくれたのはおじいちゃんだったわ。私はおじいちゃんっ子でね。お母さんは小さいときに亡くなったから、辛いときとか寂しいときはいつも側にいてくれたのはおじいちゃんだった」
もう、何も聞きたくなかった。口を動かすたびに、一観祢の表情は歪(ゆが)んでいく。そんな姿を見たくはなかった。
それでも、僕は何も言えなかった。かける言葉が見つからなかった。
だから、一観祢は続けた。続けさせてしまった。
「――私が部屋で泣いていると、おじいちゃんが私にそっと紙を差し出してきたのよ。それは何百、何千と見てきた一観祢神社のおみくじだったわ。中を見てみたら、おじいちゃんの字で大吉って書いてあったわ。内容も私を勇気付けることしか書いてなかった。でもね、一つだけ理解できなかったことがあったのよ」
そう言って、一観祢はジーンズのポケットから紙を取り出し、僕に差し出した。
それを受け取り、丁寧に折られた茶色がかった紙を開いていく。
「待人のところよ」
待ち人の項目は紙の左下にあった。
そこには一際力強くこう書かれていた。
【待人 苦、乗り越えた先に】
正直、何が理解できないのかわからなかった。これこそ、おじいちゃんが伝えたかったことではないのだろうか。
「辛いことを乗り越えた先に新しい出会いがあるってことだろ?」
いつまでも引きずっていては新しい出会いも見逃してしまう。そういう意味ではないのだろうか。
「私もそう思ったわ。でも、乗り越えるどころか、その二日後におじいちゃんも息を引き取ったわ」
その言葉にまた言葉を失ってしまう。代わりに如月が言った「一観祢さんは難しいかもね」という言葉を思い出す。難しいそころではなかった。
枯れることのない涙が、一滴、また一滴と滴る。
もともと長くはないと言われていたらしい。入退院を繰り返し、余生(よせい)が長くないことを知ると、家で過ごしたいと切実に願ったらしい。少し無理をしてまでも、孫の顔を一秒でも長く見ていたかったからだと聞かされたのは、つい最近のことと一観祢は言った。
「――一つの苦行を乗り越える前にもう一つの苦行が私を襲った。大好きだったおじいちゃんもいなくなった。もうどうしていいかわからなくなったわ。乗り越えられる気がしなかった。だから、私は――人を好きになることをやめた。誰も好きにならなければいい。そうすれば、あんな辛い思いしなくて済む。それに、あの苦しみを乗り越える理由もなくなる。だから、私は巫女になった」
話し終えると、乾いた喉を潤すように水を飲み干した。
本当にそれでいいのだろうか。一観祢は今後、この悲しみ、苦しみを背負って、誰も愛さず、それどころか、一観祢を愛してくれる人さえも、拒絶(きょぜつ)し続けるのだろうか。
「でも、それじゃおじいちゃんは何のためにこの言葉を残してくれたかわかんなくなっちまうだろ。乗り越えてほしくてそう書いたんだろ。逃げるなよ」
人の人生をとやかく言う権利なんて僕には無いかもしれない。でも、だけど、それで困るのは……僕なんじゃないか。そう思った。
「そんなこと何度も思ったことよ。でも、私にはこうすることしか出来なかった。逃げることが進むことより楽なんてわかっている。でも、逃げ続けることが出来れば、それは前に進んだことになる。いつしかそう思うようになっていったわ。もうこの思いを変えられないし、変える気もない」
知り合ってから日が浅いなんてものじゃないけれど、一観祢の性格は大方(おおかた)わかってきていた。
冷ややかな目で睨むこともあれば、少女のように泣くこともある。優しくて、他人のことを思いやることも出来る。それゆえ、自分にも甘くなってしまう。
意思の固さが裏目に出ている。
ならば、逃げられなくしてやればいい。
「そう言って、僕からも逃げる?」
一観祢の眉がピクリと動いた。
「――僕からも逃げるのか?」
もう一度、言った。顔を上げる一観祢の目は、やはり冷ややかだ。
「あなたに話したのはしつこいからよ。自分では優しさとか思っているのでしょうけど、私にとっては迷惑なのよ。ウザいの――」
月明かりでもはっきりわかる充血した目を細くして、威嚇するように、突き放すように罵声を吐いた後、震えた声で「怖いのよ」とつぶやいた。
「怖い?」
聞き返すと、開き直ったのか、
「そうよ! あなたの優しさが怖いのよ! 私に構ってくるあなたが怖い。あなたの言葉、あなたの行動が私を変えてしまうんじゃないかって。私は今のままで満足しているのに、どうして……どうしてよ」
どうしてだろうか。と考えるよりも、口が先に動いていた。それは、考えるまでもなく、答えが一つしかないからだったのだろう。
「気になるから。興味があるから。好き……だからかもしれない」
「……」
「……」
無駄に響き渡る僕の声は、何処まで届いたのだろうか。
周囲に民家や人の気配がないだけ増しだったと言わざるを得ない告白は、一観祢にどう伝わったのだろうか。
恥ずかしさのあまり、唇をかみ締め、悲しそうな目をした一観祢の返答を待つ。
「……気持ちは嬉しい。でも、私はあなたを好きにはならない――なれない。あなたにはもっと素敵な人がいるわ。私にはもったいない」
もっと素敵な人というのは、如月のことを言っているのだろう。
一観祢は同じような台詞を何度か言ったことがあるのだろうと思わせる口ぶりだった。相手を傷つけずに振るテンプレートのような返答は、一石二鳥では身につかない。
でも、それには続きがあった。今考えたような、考え抜いて言ったような言葉。それが引っかかった。
「――だから、あなたの気持ちには答えられない。さようなら」
そう言い残し、背を向け、遠ざかっていった。
小さな背中が暗闇に消えていくのを止めることが出来ず、見送ることしか出来なかった。
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