アイちゃんと獄中死したライオン
部屋に響くインターホンの音がこんなにも楽しみになったのは、二回目だった。午後の三時ごろ、オーブンレンジからチョコレートスコーンを取り出していると、それは鳴る。
「開けてるから入っていいよー!」
そう廊下に向かって叫ぶと、ゆっくりと玄関の扉が開いた。シヅルだ。
「あ、いい匂い……。お邪魔します」
「ちょうどね、今焼けたの! 待っててね!」
テーブルに並べた焼きたてのスコーンを見て、思わずか、姿を見せていなかったツォハルがシヅルの隣から現れる。
「アイくんの手作りかい?」
「うん、そう」
ツォハルは犬みたいに鼻をひくひくさせて、目をきらきら輝かせる。ツォハルは、あたしの料理が好きだと言っていた。これまで色んな、人間のものに対して無関心だったけれど、あたしの料理だけはそうでもないと聞いたから、材料の限界までたくさん作ってみた。食べきれなれば、明日の朝ごはんにすればいいもの。
「すごいね、アイさん、色んなもの作れて。ツォハルたら、今日来るまでの間、またアイさんのごはんが食べたいってずうっと言ってたからね。すごく美味しそうだ、ね、ツォハル」
「お、おい、言うんじゃないよ、もう! ……と、はいえ、事実だからね、ぼくはアイくんのつくるものは素晴らしいと思うし、認めているんだ」
シヅルとツォハルのやりとりは、男と女の間にいるみたいだ。あたしとコンスタンティアみたいにべったりでもないけれど、男同士みたいにドライでもない。コンスタンティアは笑う。
「アイちゃん、将来はパティシエとかになるといいかもしれないわね」
……将来の夢。そうだ、あたしは、昔、ケーキを作るおもちゃが欲しかったんだ。考えたことがなかった。そんな余裕がなくて、何年先のことどころか、一週間後に生きているか保証が全くない世界で生きてきたんだから。
「うん、お菓子作るの好きだし、そんなに美味しいなら、いいかも。シヅルは、将来の夢とか、ある?」
はっとして、シヅルは悲しい目になる、あの目だ、大人の目。全てを諦めた子供の、目だけが大人になった、いびつな表情。
「将来の夢。かあ。アイさんなら、わかってくれると思うけど、僕はそんなことを考えてられるような気持ちの余裕が小さい頃からなくって、多分、大人になるまでに死ぬだろうって思ってたから、わからないや……」
「ううん。あたしだって、今コンスタンティアに言われてそう思ったから。もう、将来を選べるから、考えてみてもいいかもね」
あたしは決めている。どちらかはこの呪われた地に残らなければならない。それなら、あたしが。あたしにはやらねばならない理由が積み重なって、どっちにしろ、この地から動けないのだから。
「シヅルは、学者なんかが向いてるんじゃあないかな?」
ツォハルは笑いかける。
「そうだなあ。前の学校で、いい大学に行けるから勿体無いって言われてたんだ。やりたいこと、好きなこと……。昔、よく、夜に家から放り出されていたんだ。その時、空をずっと見てた。あたりが眩しくて見えないけれど、でも月と、かろうじて少しの星が見えてね。こっちに来て、空をゆっくり見上げてみたら、とっても綺麗だった……」
「じゃあ、天文学者とか、いいんじゃないかしら? それとも、頭がいいのなら、宇宙飛行士にだってなれるかもしれないわね」
コンスタンティアの言葉に、シヅルは強く頷く。
「なりたい。天文学者、いいな。なりたい……」
幼稚園児や小学生の頃、あたしたちは将来の夢を聞かれたはずだった。ピンクのエプロンをした先生に、『アイちゃんは、大人になったら何になりたいの?』と聞かれて、何も知らなかったあたしはなんて答えたんだろう。そもそも答えられたのかな。十歳のころ、半分の成人式ということを学校でやったことがある。将来のことを考えて作文を書いて、たくさんの親御さんと先生の前で発表する。
その時のあたしは現実を見ていた。将来の夢なんて、見てはいけない、見れば苦しむことを知っていた。もちろんあたしのお母さんやお父さんは半分の成人式に来ない。あたしは保健室で、泣きながら書いた作文用紙を握りしめてくしゃくしゃにして、白いシーツの中で、家でしているように震えていたんだ。
「良かったわ、二人がそうやって自分の道を定めていける心の余裕ができるようになって。私はそのお手伝いができるといいと思っているわ。それってとっても素敵なことなんだもの……」
「ぼくはさ。アイくんにも、シヅルにも、頑張れとは言えないよ。今まで頑張りすぎていたからね。でも、希望を持って生きることができるようになったのは、嬉しいな。ぼくもできうる限りの助言をしたい」
悪魔と御使いは優しい。死の匂いとは関係なく、あたしたちの人としての存在を認め、愛してくれる。きっかけが何であれ、今がそうであるなら。
「と、ところで、アイくん。これはいただいてもいいのかい?」
「どうぞ。たくさんあるからね」
ツォハルは椅子に座る。シヅルはとなりに座る。
「飲み物、何がいいかな。紅茶、コーヒー、あと牛乳と……、あわないかもだけどコーラがあるけど?」
キッチンから問う。
「うんと、コーヒー、牛乳入れてほしいな」
と、シヅル。ツォハルは黙っている。
「ああ、ツォハル、わからないのか。同じのでいいよ。美味しいから、大丈夫」
「わ、わかった。アイくんが出すものなら何でも美味しいだろうからね」
そのやりとりがおかしかったのか、コンスタンティアはくすくす笑っている。あたしもにやつきを背中で隠しながらコーヒーに牛乳を入れ、せっかくだからあたしもと三人分を用意したあと、ゲームのコントローラーを机に置く。
「セッティング済みだよ! おやつ食べながらするゲームはね、最高なんだ」
スイッチを押すと現れる起動画面に、シヅルは声を上げる。
「わあっ、すごい……」
おそるおそる、黒の、シヅルのコントローラーに触れる。手元とテレビ画面を見て、口を開けっぱなし。……ずっと、欲しかったし、やってみたかったんだよね。あたしもそうなると思うもの。ゲームのタイトルのアイコンを押すと、音がなって、ロード画面になった。喉仏の目立たない首が、ごくり、と動く。
暗転。現れたタイトル画面。
「あ、アイさん。ありがとう。今日、その、持ってきたんだけど……」
鞄の中から財布を取り出して、あたしがあの日渡したぶんと同じだけのお金。
「え、半分でいいんだけどな」
「おじいちゃんがさ、二人で遊ぶものならそれくらい買ってやるって! と、いうか欲しいならおじいちゃんに言いなって笑ってた」
「はは、そっか。わかった」
欲しいものを欲しいと言えないあたしたち。欲しいものを欲しがってはいけなかったあたしたち。普通の子供たちは、なにかの記念日にものを買ってもらえるのだろう。誕生日に買ってもらったおもちゃを自慢する子。
あたしの誕生日って、いつだっけ?
あたしって、誕生日を祝ってもらったことがあったかな。
あたしって、本当に生きているのかな。あたしがおかしいのかな? あたしがいないのかな。
あたしはいない。そこには、誰もいない。夕方のブランコは揺れているだけで、そこにいるはずのあたしを周りは見ないように、知らないふりをするから、あたしはいなくなる。この地球から、宇宙から。あたしのことを考えてくれる人がいなくなれば、あたしはいないのだ。
「アイちゃん。アイちゃん、大丈夫?」
目を開けた。コンスタンティアの綺麗なカナリヤの声が頭に響いて、あたしは現実に戻る。焼きたてのマフィンの香りと、心配そうにあたしを見るツォハルとシヅル。
「……どうしても、ぼくにはわかってしまう。アイくん。アイくんの感じていることを、ぼくもひしひしと感じているよ。これからは、他の人間や悪魔は死んでしまうかもしれないが、ぼくは、ずっとずっとずっと、アイくん、そしてシヅル、コンスタンティア、皆を覚えているよ。精神は永遠に生き続けるんだ」
ツォハルはあたしの手を握る。暖かくて、人の体温がした。ゆるいウエーブのかかった金髪が、蛍光灯に照らされてきらきらと輝く。あたしの苦しみを吸い取っていくように、どんどんと不安があたしの体から抜けていく。
たくさんの、邪魔な日々の不安と、苦しみ。ツォハルはまとめて取り払う。コンスタンティアが狙われることも、シヅルを救ったことも。あたしがあたしでなくなることを止めることもできる。
ツォハルが手を離すと、重たくなった胸が軽くなったようだった。
「アイさん、ツォハルはすごいんだ。ぼくは力になりきれないけど、ツォハルならたくさん考えて、解決に導いてくれるんだよ。僕もそうしてもらっていたんだ。だから、ツォハルが必要なら、僕も協力するよ」
「私は、ずっと隣にいるわ。アイちゃん。私にはそれしかできないけれど、私にしかできないことだから」
優しくされることに、未だに慣れない。こうやって接してもらって、本当にいいの? あたしがそうすることはできる。あたしは痛みを知っているから。いろんな痛みを、大きなものから小さなものまで。
あたしは怪我をして、そのまま血を流しながら、体を引きずって生きていた。それをコンスタンティアと出会ってから、ゆっくりゆっくりと止血していた。
その血を知っているから、あたしやコンスタンティアはシヅルを気遣って接することができる。けれど、あたしがされると、嬉しいけれど、こそばゆくて、不思議な気持ちだ。甘えることを少し躊躇する。
怪我人どころじゃない、精神的に四肢を切断されたような気持ちで、芋虫みたいに這って生きてきたことを隠し、普通の人間として振舞って嘘をつくのはひどく苦しい。
実際に手足のない子供ならば、大人たちは助け、慈悲をくれるはずだ。そんな生き物なのだから、彼らは、彼女らは。
うまく生きていけないのを、無い手足を使って必死で這って進んでいることを、あざ笑って、馬鹿にして、殴りつける。そんな生き物なのだから、彼らは、彼女らは。
理解しろとは言わない。経験したことのないことはわからない。あたしだって、普通の人生がわからない。人間を馬鹿にすることはいけないって、義務として学ぶことにあるはずなのに、心の弱った人間を攻撃するのは、それは彼らが動物だからに違いないのだ。
あたしも、そうでないあたしも、そう思っている。たとえ言葉が通じても、それは自分が心地よく生きることしか考えていないのは、動物だからに違いないからだ。
「アイさん。つらいなら、休む?」
「ううん! 大丈夫、遊ぼ!」
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