アイちゃんとセイレーンの呼び声

 アキラとそのまま手を繋いで、アパートに帰ってきた。玄関に置かれたおもちゃ屋の袋に飛びついて、さっそく接続してみる。

 いつもやっていたのがファミコンだから苦労したけれど、携帯で調べながらなんとか家のテレビに画面をうつすことができた。

 おじいちゃんが買ってくれたテーブルは四人掛けで、そして、テレビも大きい。一人だから大きいのなんていらないと言ったけど、大きい方がいいといって買ってくれたものだった。

 遊びたいけれど、シヅルと一緒にやっぱり、最初はやりたいな。設定を終わらせて電源を切ると、もうすっかり夕方だった。

 飴を口の中で転がしながらおもちゃに悪戦苦闘するあたしを眺めていたコンスタンティアは、もういちごミルクを食べ終わってはちみつに移行している。

「いろいろあって、疲れちゃったな。ご飯どうしよ……」

 ヒーローアニメの服を着たの男の子、アキラの覚悟と刃。くったりと椅子にかけると、コンスタンティアは飴を差し出してきた。

「アイちゃん! これ、とっても美味しいわ」

「ん、そっか。ありがとう。気に入ったんならよかった」

 緑の手から飴を受け取って口に入れると、甘みが一瞬で頭の中をぐるぐる回っていくみたいで、相当疲れたんだな、と、ふっと息を吐いた。

「お腹減ったのなら、私が何か作りましょうか?」

「ううん、いいや、今日は。食べない」

 あまりそういう気分でもないし、昼間たくさん食べたし。暖かい羽布団にぐったり横になるのを、コンスタンティアはベッドに座って、あたしの頭を撫でる。

「そう。本当は食べて欲しいけど、無理やり食べるのもよくないものね」

「飴が甘くておいしいよ」

 じんわりと溶けていく甘さは、まるで、愛を感じているときのあたしみたいだ。愛されていると、全身がとろけそうなくらいに幸せに浸れる。撫でられていると、気持ちがよくなってゆっくり目を瞑る。

「アイちゃん、変わったわね。はじめて会った頃よりずっと、ずっと、優しくて素敵で可愛らしくなったわ。やっぱり、友達ができたからかしらね……」

「そうか?」

「ええ。言葉遣いも柔らかくなったし、すごく優しくなったわ。でも、少し寂しくもあるの。私は以前のアイちゃんが好きで一緒にいて、ああ、もちろん、前のようにしてと言ってるんじゃないわ。でも、私とこうやってお話する時間が減っていくのは、アイちゃんの幸せを私は願っているから、嬉しいのだけれど、やっぱり寂しい気持ちになるのよ」

 確かに、シヅルやアキラと話をしはじめて、コンスタンティアのことは放ったらかしだった。

「ごめん、それはあたしが気遣うべきだった」

「違うの。今のままでいいのよ、シヅルくんたちとたくさん遊んで欲しいわ。私にはできないことだから。……ごめんなさい、言うべきじゃなかったわ。閉まっておくべきことだった。忘れて、アイちゃん」

「いや、忘れられない。あたしの一番はお前なんだから」

 揺れるカーテン、揺れる緑の髪、揺れる異形の影。一番揺れているのは、そのどれでもないんだ。

「……アイちゃんが幸せなのが、私の幸せなのは変わらないわ。いつだって。アイちゃんが楽しそうにしていると、私も楽しいの。でも、その、私ってこんなに醜い心の持ち主だったかしらって、アイちゃんは誰のものでもないのに、私のものなんじゃないかと、錯覚してしまうことがあるわ。きっと、二人で過ごした時間が長いからよね」

「今のあたしは縛られない。だけど、そうだな、前に話したように、あたしがこの世界に嫌気がさした時は、その時はおまえについていきたいと言ったし、今も思っている」

「そう。嬉しい。そうね、悪魔になる方法を、私がその時どんな状態でいるかわからないし、アイちゃんは少し大人になったから、教えてあげる。人間が、悪魔になる方法。シヅルくんや、アキラくんに言っちゃだめよ。ツォハルはいちばんだめだわ」

 それは落ち着く方法でしかなかった。解決法ではなかった。あたしとコンスタンティアが手を繋いで歩いてきた道、いくつもの分かれ道に、黒くて太いマジックペンで書いたようなはっきりとした道が現れるだけだ。

「悪魔の体液を体にいれるの。一番簡単なのは、血を飲むことよ。それからこの世の大地を、この世の海を、空を、生き物を全て憎みながら命を落とすのよ。それでも、誰だってなれるわけじゃない。深く憎んで、それで死んで行かなくちゃならないの。だって、悪で、魔なんだもの」

「……おまえは、元々、人間だったのか?」

「いいえ。私の両親は悪魔よ。それは、リリンと呼ばれるわ。リリンは弱くて、はかないの。何も恨んで生きていないから」

 憎むのは簡単だ。あたしはこの世が嫌いだから。それでも、数少ない友人のシヅル、アザミ、アキラ、ツォハル……、それからおじいちゃん、コンスタンティア。以前のあたしなら簡単だったろう。助けを求めて叫んで手をのばしても、その手を見ながら嫌らしくくすくす笑う大人の顔を覚えている。

 でも今は、本心で笑いかけて、あたしのことを気にして、考えて、行動してくれる人たちがいる。あたしはその人たちのことも憎めるかと言われれば、もう難しい。あたしは、コンスタンティアと一緒にいたいという気持ちが一番強いけれど、大事なものをたくさん見つけすぎた。

「アイちゃん。私はとっても嬉しいの。アイちゃんは、いつまでもアイちゃんでいてほしいわ。アイちゃんのまま、優しくて賢い大人になってね。私の方が、もう子どもかもしれないわね」

「コンスタンティア」

 名前を呼ぶ。あたしが上書きした、コンスタンティアという名前を呼ぶ。起き上がって、腰に抱きついて、そして呼吸をする。コンスタンティアのにおいは、少し獣っぽく、そして、女のにおいがするんだ。

 大きな膝の上。見上げると、優しい、そう、慈愛にあふれた顔をしている。こんな悪魔が悪魔なんて呼ばれることはおかしいと思っていたんだ。本当に悪魔なのは、悪魔なんかじゃなく……。


 ベッドの隅に置いていた携帯から、黒電話の音がする。急いで目をやって、番号を眺めたけれど、あたしは約束を忘れていなかったことに安堵した。コンスタンティアが携帯をとってくれて、あたしはそれを受け取った。

「もしもし、橘です」

「あ、アイさん? 僕です、シヅル」

「うん、わかってるよ。ありがとう、後で登録しておくよ」

 遊びの約束をまたする、はずで電話番号を教えたけれど、シヅルの声は落ち着き払って、真剣な様子だった。

「その、灰淵さんとはどうだった?」

 ああ、そのことを気にしてくれていたんだ。

「これは、あたしからは話せない。いずれ、シヅルにも聞かせるって言ってた。とても大事なことだから。だから、アキラは、優しいから、本当は……。誤解しないでね」

「そ、っか。わかったよ。僕も覚悟はしているんだ。そして、少しだけど、僕のほうもツォハルと話をして、わかったことがあってね。おじいちゃんにも悪魔か御使いがいるはずでしょう? でも、おじいちゃんのそばには全く気配がないってツォハルが言ってた。でもきっと、おじいちゃんにだって誰かいるはずだって、ツォハルが探したんだ」

 そう、おじいちゃんは人ならざる者と、この地を守っているはずなのだから。

「いたの?」

「……僕にはわからなかったけど、ツォハルは見える、いるって言ってた。多分、見えない術をコンスタンティアさんみたいに使ってるんだと思う。池にいたんだ、大きくて、長い竜が池にいたって」

 どうして側にいないのだろう? その竜がおじいちゃんの悪魔か御使いなら。池を邪悪な力から守るために、しなければならないことは。

「……そっか。ありがとう。おじいちゃん、すごく頑張ったんだね」

「そうだよね……。おじいちゃんが不安そうにしてるのは、僕は来たばかりだし、わからないし見てないけど、きっと不安だと思うんだ」

 決意、血のさだめ。産まれたからには、しなければならないこと。それがあるだけで、他の人間より生きる価値があると思える。どんなに酷い目にあっていても、自分と、自分を信じてくれる人がいるから。

「そのあたりは、アキラと、おじいちゃんから話があってからにしよう。あたしたちが変に嗅ぎ回って余計なことしちゃうとまずいから。で、明日、今度こそさ……」

「あ、いいの?」

「もちろん。お昼どうする?」

「うーん、また、って迷惑そうだし、おじいちゃんも僕にごはんをって張り切っててね……」

「ふふ、そっか。じゃ、おやつ時に来て。おやつ用意してるから。ツォハルは食べるかな?」

「食べると思うし、食べたがってたよ。人間のものにあまり興味がなかったけれど、アイさんのご飯はすごく美味しかったんだって」

「そう、ツォハルにありがとって言っといて。じゃ、切るね。また明日」

「わかったよ。おやすみなさい……」

 電話が切れて、すぐに番号を登録し、またベッドのすみに置いた。コンスタンティアは、優しい顔と、悲しい顔をする。なぜかはわかってる。

「変なこと考えてる?」

「え! あっ! そうね、変なことかも。ふふ……」

 体温は冷たい。心は暖かい。さらさらの緑の髪に、手櫛をいれてみると、一度もひっかからない。

「あたしのこと信じて。あたしはおまえを信じたから」

「わかってるわ。信じてる。愛してる。でも、自分が信じられないの。こんな、思いになるなんて思わなかったから」

「それでもいいさ、あたしはどんなおまえだって受け入れるって、あの時さ、決めたんだ……」

 喧嘩したとき、あたしは大切なものを失ったけど、もう一つの大切なものを失いたくなかった。あたしはまた孤独に戻ることだけを恐れていた。理解者を失うこと、毎日顔を合わせて、話をして、一緒に眠る相手を失うことを、ひどく恐れていた。

「あたしは、コンスタンティアのことを、この世で一番愛してるって、知ったんだよ」

「あ、アイちゃん……」

 たとえ心で通じ合っていても、言わなければ不安になるし、隠したい気持ち、わざわざ言葉にしたくない気持ちもある。でも、声にしたい気持ちだった。コンスタンティアは顔を赤くして、氷の涙を流す。あたしはそれをすくうみたいに、頬にキスをする。

 そのままベッドに倒れこんで、見つめ合いながら、ゆったりとした時間の流れの中で、睡魔が二人をさらっていくのを待つだけだ。

 いつか来る日を恐れたりしない。それがあたしの生きる道なら、あたしはそれを奪われたくない。あたしは決意の力を持っているはずだから。

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