アイちゃんと黄金色の遠い記憶
部屋に戻って、シヅルがゆっくりとお寿司を食べる間、ほんとうにふつうの話をした。学校は一週間後から、あたしと同じ学校に通うらしい。シヅルは、成績がよかった。両親に勉強することを強要されていたようだったから。
シヅルの両親がどうなったのかは、聞かなかった。聞けなかった。死んだのか、はたまた、あたしのお母さんのように病院にいるのか。それとも、……。きっとアキラや、灰淵が知っているのだろう。
「アイさん、あの、……」
「どうしたの?」
シヅルの背後をじっと見てみるけれど、何もいるとは思えない。あたしには白狐さまとやらが見えないのだろうか。シヅルは、たとえばコンスタンティアのような『人に知られない存在』のことを知っているのだろうか。一度二人きりで、話をしてみたい。
「今日は、ありがとうございます……」
頭を下げるシヅルの姿が、痛々しい。
「おじいちゃん、ありがとうございます。これから、お世話になります」
「気にするな。家族なんだから」
家族。おじいちゃんと、シヅルと、あたしなら家族って言ってもいいかな、と思う。お母さんとお父さんは、あたしにとって恐怖を与える存在だった。ただ、脅されて、生きるために媚びたり、隠れたりしていた。あたしは嫌でも、シヅルの言葉の弱々しさや、ちょっと目線をはずして話したりするところから、シヅルが本当に苦しんでいたことがわかってしまう。あたしもそうだったし、今もそんな所があるから。
「アイス、買いに行かない?」
シヅルに声をかけると、驚いた様子で、また、すこし悩む。
「いいんですか?」
そのシヅルの答えに、おじいちゃんはおだやかな表情を見せた。二人の孫たちが仲良くしようと手を取り合うのは、おじいちゃんからしたら、本当に嬉しいんだろう。
「ほら、これで、二人で行ってきなさい」
そう言って、シヅルの手に千円札を握らせた。シヅルはまるではじめて見たもののように、お札をまじまじと見る。シヅルの過酷な過去が、生活が嫌でも見えてしまう。
「ここで暮らすんなら、コンビニの場所早めに知っといたほうがいいでしょ。行こ?」
正座しているシヅルに手を伸ばす。触れて、くれるかな。あたしのことを信じてくれるかな。あたしがシヅルだったら、怖いと思うけれど。シヅルはそっとあたしの指に触れて、それからゆっくり手を握って立ち上がった。強いんだ。シヅルは、まだ心が死んでいない。
手をゆっくり引いて、玄関へ歩いていく。あたしはいつものクロックスで、シヅルは紺色のスニーカーに足を入れて靴紐を結んだ。
「アイさん、ありがとう。僕なんかに、気を使わせちゃって」
「気にしないで。ゆっくりでいいよ」
きゅ、と、丁寧に紐が結ばれる。指先は白くて、妙にきれいだ。シヅルが立ち上がると、ふわっとセミロングほどの髪が浮いた。さらさらとした髪は、思わず触れてみたくなってしまうほどだった。
あたしが少し先を歩いて、シヅルは少し後ろを歩く。思えば、コンスタンティアがいないのって、久しぶりだ。コンスタンティアはあたしを家から出してから、ずっと一緒だった。シヅルの背後にいる、白狐さま、って?
「アイさん、あの、……」
あたしがどう切り出すか悩んでいると、シヅルのほうからあたしを止めた。振り返って、古い街灯に照らされるシヅルを見る。このあたりは住宅街ではあるけれど、住んでいるのは老人ばかりで、夜になると出歩く人はほとんどいない。
「なに、どうしたの……」
あたしは、はっと目を見開いた。シヅルの背後に人がいる。金色でゆるくウエーブした髪、青い目、白い肌。外人だった。紺色のポンチョのようなものに、白いパンツに、茶色の長いブーツといった姿をしているが。あたしには、わかる。この人間が人ならざるものだということを。
あたしに向かって歩いてくるものの、コツコツと、するはずの足音はない。近くで見ると随分綺麗な顔をしていると思う。垂れた目、悪魔の赤い目とは違う、アイスブルーの透き通ったような眼球の色。
「こんにちは、アイくん。で、いいね?」
男なのか、女のかもわからない。男にしてみれば顔は綺麗で、ポンチョからちらりと見える細い腰は男には見えないし、かといって胸や尻が大きいわけでもなく、うっすらとしている。声だって高いのか低いのかも判別できない。背は、おそらく百七十前後のシヅルより少し高いくらいだった。
「あ、そうだけど、おまえは……」
唾を飲んだ。あたしの肌が震える。本当の答えを、聞いてしまうこと。コンスタンティアの、敵。
「怖がらなくても、いいよ。ぼくは君のことを気に入ってるからね。シヅルと同じくらい、いい死の香りがするよ。落ち着く香りだ。まるで、ラベンダーの香りのようだね」
あたしの顔にぐいと近づいて、まじまじとみる。シヅルはそれに近づいて、腕を引いた。
「びっくりしてる。やめてあげて」
「ああ、ごめんよ。あまりにいい香りがしたから。ええっと、ぼくはツォハルって言うんだ。いろいろ名前を使い分けているんだけどね、シヅルには本当の名前を伝えてるけど、普段はツォハルって呼ぶよ。だからツォハルって呼んで」
ツォハル、と名乗った謎のいきもの。いや、生き物といっていいのか、ツォハルのまわりにはキラキラとした光の粒が舞っていて、神々しい。まるで、あたしなんかが顔を上げて話すのが失礼にあたるのではと思うほどに。
「そ、そう。ツォハル。よろしく」
「よろしく。ええと、きっと君はぼくが何なのかわからないから、怖がってるんだよね。そうだな、なんて言えばいいかな。きみや、きみの連れていた悪魔より存在のステージが三つばかり上の存在、だと言えばいいのかな。概念に近い、んだよね……。ま、それでも、こうやって言葉を交わせるんだから、良い友人になれるといいなと思っているよ」
「あたしの、悪魔!?」
ツォハルには、コンスタンティアが見えていた。コンスタンティアはわからなかった。コンスタンティアよりも上の存在。
「ああ、なんだか弱そうな悪魔を連れていたよね。きみならもっと、強い悪魔だって従えさせることができるのに」
「ねえシヅル。ツォハルとどうやって出会ったの?」
ツォハルはなぜかうれしそうに唇を釣り上げた。シヅルは足元を見て、それからツォハルはシヅルの頬に手を伸ばす。
「僕はね、その。アイさんが、同じだって思ったのと、同じことを思ってた。ここに来た理由、とか。……僕はお風呂に沈められていたんだ。息ができなくて、くるしかった。そしたら目の前が光ってね……、いつの間にか、お風呂の水が鉄臭くて、顔を上げたら血塗れだったんだ。後ろを振り返ったら、ツォハルが立っていて、僕に手を伸ばしてきて、立ち上がったんだ……」
ぞっとした。あたしの記憶が蘇る。シヅルは続ける。
「よくわからなかったよ。足元には、知らないおじさんの死体があった。よく、わからなかったよ。ただ、ツォハルが、助けてくれたってことはわかったんだ。家の中のガラスが割れてて、お風呂から出たら、お母さんと目があったんだ。でも、話さなかった。シャワーで血を流して、服を着て、その間ツォハルは僕に大丈夫か、って、話しかけてくれてた。頭を乾かさないまま、僕はツォハルとマンションから出たんだ。すごく、気持ちいい、風が吹いていたんだ」
コンスタンティアと、外で跳ねまわったあの日。戻りたくない血塗られた過去。ツォハルは、コンスタンティアとはまた違う何かなのはわかるけれど、なんなのかはわからない。
「ぼくは、シヅルが好きだから。死んでほしくなかったんだ。それだけだよ。それから、シヅルは怖がっていたから、ならぼくがそばにいて、落ち着けばいいかなって。ぼくには色々やることがあるんだけれど、この体はツォハル、って呼んでいて。ツォハルはシヅルのそばにいることにした。それだけだよ」
うっとりとした顔でツォハルは、シヅルに触れる。コンスタンティアの、呪いをあびた身体とは違う神聖なもの。ツォハルは、たとえるなら、彫刻家がていねいに作り上げた神々の石像のような。そんなイメージを持つ。人間が届かない、悪魔でさえも届かない領域のもの。
「アイさんも、そうなんでしょう……?」
「ま、まあ、変わらない。そんなとこだね」
そう答えると、シヅルははっとする。あたしの隣に光の粒がかたまって、大きな、赤い角のある女が這い出してくる。コンスタンティアだ。コンスタンティアは黙って、ツォハルを見ている。今はツォハルのことが見えているらしい。
「あなた、アイちゃんをどうしたいの?」
「うん? どうもしないけど。ぼくはシヅルのそばにさえ居られればいい。逆に、さ、シヅルの邪魔をきみがするなら、きみみたいな弱い悪魔、ぼくは指一本あれば消してしまえること、わからないわけではないだろう?」
コンスタンティアは身震いする。そう、コンスタンティアが逃げた原因はツォハル……! でも、争う必要なんてないのに。コンスタンティアはあたしが好き、ツォハルはシヅルの側にいたい。同じじゃないか。
「アイくん、ぜひ、今すぐ契約を破棄することをおすすめするよ。きみならもっと強くて頼りになる、そう、ぼくのような存在が守ってくれるはずさ」
「やめて、やめてよ! アイちゃんに余計なこと吹き込まないで! この、悪魔……!」
「余計な? 真実だろう? アイくんの器にはもったいないよ。ま、決めるのはアイくんだ。ぼくだって、シヅルに離れてくれと言われればそうするしかないし。……さ、二人の邪魔だ。ぼくは消えるよ」
そう言ってツォハルはあたしたちに背を向けると、いつの間にか消えてしまっていた。アスファルトにうずくまるコンスタンティアに、あたしは手を伸ばす。あの日と逆。
「心配するなよ。コンスタンティア……。あたしがこんなことで、おまえのこといらないって、言うわけないんだからさ」
シヅルも駆け寄って、コンスタンティアに頭を下げた。
「ごめんなさい、コンスタンティアさん。ツォハルは、ちょっと、正直者すぎることがあって。悪気はないんです。いいひと、なんです。だから、その、あとで、叱っておきます……」
シヅルの手が、コンスタンティアに触れた。触れられる。二人でコンスタンティアを起こした。コンスタンティアはシヅルに、小さな声でありがと、と言った。
それは、いつもあたしに言うようなトーンと、口調と、気持ちではなかった。それを聞くことで、あたしはコンスタンティアの重い想いを、思い知らされる。
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