アイちゃんとハイドロジェンの悲鳴

 フローリングに体を横たえて何時間も経った。窓からはぎらつく嫌な太陽の光が差し込んでいる。今日は、学校に行かない。

 腕と足は自由に動くはずなのに、起き上がって何かしようとも思わない。凍りついたみたいだ。幼い頃を思い出す。嫌なことが毎日あるから、羽布団にもぐりこんで時が経つのをひたすら待っていた。嫌なことが終わるまで、少しだけでも悲しみを忘れられれば動けるから。

 ただひたすらに、眠って、目が覚めてを繰り返している。多分、おそらく、夢の中なのだけれど、コンスタンティアの綺麗な、カナリヤの鳴き声みたいな美しい声が頭の中で鳴り響いている。いつもいつも聞いている声が、夢の中でぐわんぐわんと脳みそを叩いてるみたいだった。

 アイちゃん、好きよ、大好きよ。愛してるわ。聞き飽きたことば。コンスタンティアが何度も何度も愛してるわと言うけれど、あたしなりに考えて出した愛の解釈は、思いやりで、大切にすること。

 あたしはコンスタンティアにそう思えているのかは、わからない。でも、アザミに対しては、そうだったのだと思う。寄り添ってみたい、触れてみたい、仲良くなりたいと思ったから。あたしは、アザミに愛を知らされた。そしてこれまで愛を説いて、自分なりの理解に導いてくれたのはコンスタンティアだ。

 あたしは空っぽだった。水と、それ以外のいろんなものでしか無かった。人間として生きていく知識を、教えられるべきだったことを十分に教えられなかった。知ったのは、怖い時は布団に潜り込んで意識を上に持っていくことだった。そうすると自分が俯瞰に見える。怒られている、怒鳴られているあたし。それを聞いて止まっているあたし。抵抗して口答えでもすれば殴られるか蹴られるかわからない。だから、あたしはあたしを上から見る。あたしはあたしを他人にする。心をできるだけ守るために。それだけは嫌でも学んだんだ。

 空っぽだったあたしに、水を注ぐみたいに、愛以外にもたくさんの知識や感情を教えてくれたのはコンスタンティアだった。コンスタンティアは美術品や、文学作品が大好きだ。音楽も、映画も、テレビも大好きだ。一緒にゲームをしたこともあったっけ。お父さんが置いていった、古いゲームだけれど。コンスタンティアはコントローラーに触れられないから、あたしの後ろで一緒に謎解きをしたり、軍を動かして戦争に勝つための助言をしてくれた。

 娯楽を受け入れて、時間をそれに使い、悲しかったことを思い出さなくてすむ。他人の作り上げた悲しみは心に潤いを与える。自分へ直接与えられる悲しみは、乾ききって大地が割れていく。

 あたしは、また、罪をかさねたんだ。あたしは間違う。真っ暗の闇の中を手探りで歩いている。夜目のきくコンスタンティアがあたしの手を引いて正しい道に連れて行こうとしてくれるけど、その道はイバラの道だったり、ぬかるんだりしている。そこで間違っているんじゃないかとあたしが叫ぶんだ。正しい道が必ず楽なはず、ないのに。それにコンスタンティアだって、いくぶんか夜目がきくけれど、間違ってしまうことがある。それを、あたしは、手を引いてもらっている立場で怒鳴りつける。あたしがしていることは、あたしが傷ついてきたことと同じじゃないか。

 取り上げられた包丁。やっと起き上がると、コンスタンティアはじっと、後ろで、あたしの様子を見ているようだった。

「アイちゃん。具合はどう? なにか、食べやすいものを作りましょうか」

 どこか、よそよそしい。

「いや、いいよ」

「そう。欲しくなったら言ってちょうだいね。私は、離れていたほうがいい?」

「そこにいていい」

「あ、アイちゃん……」

 まさか、そう言われるとは思わなかったらしい。あたしは間違う。間違うけれど、間違ったことで正しかったことをこの身で知ることができる。それの繰り返しが、人間として育つことなんじゃないかと思ったから。

「コンスタンティア。ごめん。あたし、ひどいことした」

「そんな、いいの。気にしないで。アイちゃんがどう思っていたって、私はアイちゃんが大好きで、アイちゃんのためになりたい」

 少し近寄って、いつもの距離よりも遠いけれど、心のつながりはきちんと感じることのできる距離だ。

「じゃあ、そうだな。あたしは、あたしの人生を生きてる」

「そうね」

「あたしが間違うことを恐れないでほしい。あたしは間違って学んで、賢い人間になりたいから。あたしの選択に、……言っちゃあわるいけど、おまえは関係がないだろ?」

 どう言われるか怖かったけれど、コンスタンティアは優しい。いつもの、優しい顔。伸ばす手は赤いし、あたしにとっても血に濡れているけれど、あたしのために流した血だった。

「ええ。干渉しすぎてはいけないって、私もあの人と学んだはずなのにね。アイちゃんが間違って辛い時は慰めてあげる。ココアのクッキーを焼いて、食べましょう。紅茶も入れて。私はそばにいるわ。私はアイちゃんの逃げ場所になれればいいと思っているの」

「いまで、十分なっているよ」

「私も、間違って賢くなりたいわ。アキラに離れろって言われたけれど、一緒にいることは間違いではないわよね?」

 コンスタンティアが居なくなれば、本当にあたしはひとりぼっちだ。あたしはアザミみたいに強くない。アザミの折れた腕と、不気味な緑の水の波。

「間違いだと思う。でも、二人で答えを変える方法を探せばいいんじゃないか。アキラだって、悪魔の子なんだ。あたしとコンスタンティアがいることは、今は間違いかもしれないけれど、正しくする方法があるはずだ。あたしはそれを見つけたい」

「私も、幸せの固定概念というのがあってね。アイちゃんには、アイちゃんをわかってくれる素敵な男の人と暮らしていければ幸せなんだと思ってたわ。だって私は、あの人とお別れはしたけれど、思い出すだけでとろけそうな思い出ばかりだもの。でも、アイちゃんにとってはそうじゃなくて、私はそれを押し付けた。私の間違いだわ。酷いことをしたわ。許してちょうだい……」

「謝らなきゃいけないのはあたしだ、コンスタンティア。ごめん。酷いことをした」

 お互いに、お互いのことを思って謝る。これが愛なのならば、あたしはやっとはっきりわかった気がする。コンスタンティアのことを想って、優しい言葉を心からかけること。これが愛なら。

 アザミに対してにもあたしはそう思っていたけれど、もうアザミから言葉が返ってくることはない。アザミは、過去にいる。コンスタンティアは現在にいる。

 なにも、接吻して交わること、大切なものを触らせることだけが愛じゃないんだってこと。こうやって二人で、二人を思って正しい生き方を間違いながら考えていく。世間的には、ありえないって言われるかもしれない。あたしの嫌悪するたんぱく質たちは、安っぽい嘘の愛を語って簡単に体を交わらせる。子ができれば、できた瞬間は、二人の愛のかたちが目に見えるようになって喜ぶかもしれないけれど、すぐに邪魔になる。獣でさえ、自分の子供の面倒を見ることができるのに。人間は知的生物なんじゃあないのか。それじゃ、獣以下じゃないか。自分の子に愛を与えられないなんて、獣以下じゃないか。だから、そんな生き物が蔓延しているこの世がいやだ。

 あたしにはコンスタンティアがいるし、コンスタンティアにはあたしがいるから、どれだけ吐き気のする酷い世界になったとしてもこの場所なら生きていけるはずだけれど。

 あたしは人間で、賢くて、強い。あたしは愛を知る。でも、知るだけだ。

「アイちゃん。私ね、一度でいいから、アイちゃんに好きだって、愛してるって言われてみたい」

「どうして?」

「不安なのもあるけど。あなたの、とても可愛らしい声で愛してるって言われてみたいのよ」

 あたしはコンスタンティアの手をとる。いつもの冷たい、氷の温度がする。優しい冷たさに、あたしは体を任せる。

「今のあたしには言えない。あたしは迷っているから。あたしの気持ちがはっきりしたら、大人になったら、大きな声で言うよ」

「そ、う。ふふ。楽しみにしてる。でも、大きな声では恥ずかしいから、耳元に優しくしてちょうだい、アイちゃん……」

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