アイちゃんと猛毒のリップスティック

 いろんな考えが渦巻いて、あたしは冷や汗でセーラー服を濡らした。そうだ。事実は知っていても、あたしは忘れつつあった。あたしに対して優しくとも、コンスタンティアは化物で、悪魔であることを。

「コンスタンティア……」

 すっかり暗くなるまで居ついてしまった体育倉庫。マットの隣で名前を呼ぶと、キラキラと光の粒が現れると、それは、大きな女の形になる。緑色の肌、赤い角。所々は羽毛が生えていて、足の先は馬の蹄のよう。

 コンスタンティアはあたしが好きだけど、あたしが寝ている間どうしているのか知らない。きっと、あたしの隣であたしを見てあたしと同じ息を吸っているのだと思った。

「もしかして、だけど、コンスタンティア、お前は……」

 言うのに勇気がいるんだ。この関係が壊れるかもしれない、でも、真実を聞きたい。それがあたしの罪だから。

「アイちゃん、どうしたの。アキラのこと? あれはよくないわ、これからあまり近づかないようにしないと……」

「コンスタンティア、おまえは、アザミに憑いていたか?」

 はっとして、緑の目を赤くする。狐憑きは狂ったことをしてしまったり、他者を傷つけようとするらしい。アザミの血筋はわからないが、橘の血筋が好かれやすいというだけで、この好かれやすいというのは、コンスタンティアもアキラも言っていた、死の匂いというものなのだろうけど。

「アイちゃん……。ふふ……、言ったほうがいいかしら……」

「言え。そうじゃなきゃ、……わかってるな?」

 コンスタンティアを脅しても、恐怖のひとつも湧かないだろう。予想どおり、コンスタンティアはいつものよつに、優しい笑みでこちらを見つめてくる。

「そうね。図書室で何度も見ていたけれど、あの子、アイちゃんのことずっと見てたの。私はアイちゃんのことが大好きだから、アイちゃんがどんな目で見られているかもわかるのよ。アザミはね、私の立場を奪ってしまいそうだった。だから、ま、聞こえるかどうかわからないけれど、会った時に耳元で呪いの言葉をささやいたわ。それに、アイちゃんの死のにおいも組み合わさったんでしょうね」

「この女、なんてことを!」

 カッとなって振り上げた右の拳でコンスタンティアの頬を殴った。冷たい感触、いつも触れている時とは違う、暖かくない冷たさ。氷の温度は、容赦がない。

「アイちゃん、でもあの子の意志でもあったのよ。死にたいって思っていたわ。あんなことをしたあと死ぬのは、たぶん私のせいだけれど」

「あたしに何度も何度も、好きな人が見つかるといいとか言っていたくせに、やることはこれなのか。嘘吐きめ、おまえは悪魔なんだな。人間の真似事をした、ただの、悪魔だ……!」

「違うわ。アザミは、女の子じゃない。男の子がいいわよ。アイちゃんを愛してくれる、男の子。アイちゃんの子を作れる男の子よ」

「おぞましいことを!」

 あたしの過去に何があったか知ってるくせに。あたしを弱らせて、甘えさせて、依存させるのが目的なのか? そうすることで、この悪魔は何かを得ているのか?

 あたしはコンスタンティアから逃げるように倉庫を出た。

「アイちゃん、待って、違うの。私は……」

 振り返らない。あたしは最初から、最後まで一人だった。それだけだった。何も変わらない。悪魔なんてこの世にいなかった。


 家に帰ると体が崩れ落ちて、玄関で大きな声を出して泣いた。あたしが信じていたのは、あたしを守ってくれたのは、あたしに愛をくれたのは誰だったのか思い出しながら。あたしは愛はわからない。でも、愛されていることを理解することはできた。そのお礼に、何かをすることもできる。あたしに愛はわからないけれど、あたしにとっては、コンスタンティアは牢獄から助けてくれたし、一人のあたしに優しく言葉をかけてなだめてくれる。コンスタンティアが不安定なときには、あたしが気遣って言葉をかけた。

 それは嘘じゃない。あたしの命を救ってくれたのは間違いなくコンスタンティアなのに、たくさんの優しさと愛をくれたのに、コンスタンティアは大人だから、単純な思考を持っていなかっただけだ。

 今更何もできない。アザミは死んだし、コンスタンティアはアザミに呪いをかけた。アザミに謝らねばならないのは、いじめていたクラスメイトでも、教師でもない。

 あたしだった。あたしだった。あたしだった。あたしが悪かった。あたしが居なければ、きっとアザミは強い子だから、そのままこの学校を卒業するとか、いまの状況を変えることができたはずだ。あたしあまりにも弱く、力がない。

 涙が止まらない。あたしが殺したんだ。コンスタンティアはあたしの支配下にあるけれど、自由にさせていたから。あたしの責任だ。人のいのちの責任があたしの背中にのしかかる。重くて、潰れそうで、このまま逃げるように死んでしまいたいくらい。

 これまで見てきた死体はコンスタンティアのものによったり、自然の摂理だったり、本人の選択による自殺、どれかだと思っていた。あたしが殺したんだ。アザミは、あたしがいたから死んだんだ……。

「会って、謝らなきゃ……」

 よろよろと立ち上がった。許してもらえるとは思わない。あたしだっていくつも許せないことがあるし、それを引きずって今まで生きてきた。でも、友人にした最低の仕打ちに、謝らなくてはいられない。あたしはキッチンに立って、ぎらつく包丁を手に取る。

 あたしは悪い人間だから、アザミのいるところに行けるかわからないけれど、でも行く方法はこれしかわからない。いつも、料理をつくるもの。コンスタンティアとの日常。あたしが食べて、コンスタンティアは嬉しそうにあたしを見ている。

 泣いて、震えたまま、包丁の切っ先を自分に向けた。きっと痛いんだろうな。たくさん血が出て、死んでしまう。でも、アザミはもっと痛かったはずだ。悪魔に侵食されるこころ、飛び降りたマンションからの鋭い風。たなびくスカートと、美少女の髪。

 懺悔しながら左胸を一気に刺せば、あたしが行きたいところに行けるだろうか。息を飲む。震える手先。死にたくないよ。あたし、頑張ってここまで耐えて生きてきた。でも、死なないとアザミに会えない。

「アイちゃん!」

 緑の女が現れて、あたしから包丁をひったくる。あたしは唖然として、顔を涙で濡らしながら、しゃくりあげているだけだ。

「アイちゃん、落ち着いて。私がいるわ。なにも、そんなことする必要ないわよ。私がぎゅってしてあげる。そうしたらいつも、落ち着くでしょう?」

 あたしは体を引きずって逃げた。両手を広げる緑の悪魔から逃げた。

「あたしにしてきたこと、全部嘘で、演技だったのか?」

 緑の悪魔のことは見ない。背中でしか話したくない。涙で濡れたフローリングの床を、指で染み込ませる。

「違うわ! 私、アイちゃんのことが好きよ。この気持ちに嘘なんてないわ。アイちゃんのそばにいたいわ。アイちゃんの幸せを願っているの。アイちゃんの幸せは私の幸せよ」

「じゃあ、あたしの幸せを選ぶのはおまえなんだな」

「私はアイちゃんが必ず幸せになれるようにするわ」

「あたしは、おまえの幸せの価値観に付き合わせなくちゃいけないんだな」

 真っ暗な部屋。いつも二人でいた部屋。いまはひとりぼっちだ。

「不安なのよ。アイちゃんは愛や幸せを知らないもの。だから、勘違いして、嘘の幸せに走って行ってしまったら、また絶望するだけなのよ。私はそれを防いだだけだわ。アイちゃんに不幸になってほしくないのよ」

「あたしはいま、不幸で苦しい」

「あ、アイちゃん、アイちゃん。わかってちょうだい。私は憎くてしたんじゃないの。あの子と一緒にいて、アイちゃんもいじめられやしないか不安だった。そうしたら、私はたくさんの人間を殺さなくちゃならなくなるわ。それは避けたかったのよ」

 いままで優しかった言葉で、同じ声なのに、毒みたいだ。猛毒の塗られた口紅をつけて喋られているみたいだ。それだったらそのほうがいい、クラスメイトなんて人間じゃないんだから、いくら死んだって構いもしないし、悲しみもしないさ。そうしたらきっとアキラに殺されるだろうけど、アザミは生きている。アザミはこれから絶対にきらきらした人生を送れるはずだった。綺麗で、賢くて、優しくて可愛らしい子。

 あたしはこれから、この緑の悪魔とどう付き合っていけば良いだろう。一度抱いた不安と恐怖から、逃れられるものなのか。

「……アイちゃん。私、アイちゃんから離れるべきかしら?」

「おまえのそういう言葉を聞いてると、気が狂いそうだよ」

 あはは、なるほどね。こうやって橘は狂っていくのか。フローリングに体を倒した。もう疲れたし、動けない。今日はこのまま眠ろう。まさか暖かいベッドに入るなんて気分になれない。

「アイちゃん。私は、本当にアイちゃんのことが好きなのよ。信じてちょうだい……」

 聞こえないふりをする。悪魔の声は泣きそうだった。そのうちすべての音がなくなって、暗闇は紫色になる。太陽ののぼる場所。そこに二メートルの影はないし、氷の温度もない。なにもない。

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