アイちゃんと目の中に地獄を飼う女

 チャイムと、ぞろぞろと教室を離れる生徒たち。帰ったり、部活に行ったり、遊びに行ったりする。あたしはいつものように、コンスタンティアと、二人で暮らすアパートに帰るだけだ。正門は人が多くてまいるので、いつも裏門から帰ることにしている。グラウンドを抜けた先に、水色のペンキが剥がれかけた古い門。それを目指していると、後ろから声がかけられたのでびくりとして飛び上がった。

「橘」

 黒い髪の、黒い制服を着た、男子生徒のように思う。身長は百七十の中頃くらいで、すらっと手足は長い。コンスタンティアははっとして、あたしを守るように腕を出した。

 あたしは、この男子生徒が男ではないことを知っているし、それがアキラであることも知っている。昨日は暗くて気付かなかった。女子剣道部の主将で、二つ上の先輩。目つきは悪くぎらついている。胸は薄く、声もハスキーで低いものだから、言われなければ誰も女だとは思わないだろう。いつも女子からの黄色い声を受けていることも知っている。

「橘、時間あるか?」

「……何の用?」

 アキラは腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。

「おまえが知るべきであるのに、知らないことを」

 最後まで聞かずに、首を縦に振った。あたしの背負うべき罪の匂いがしていた。

「ついてこい」

 そう言われて来たのは、体育倉庫だった。扉が開けられ、ほこりと、砂が舞い上がって咳き込む。コンスタンティアは相変わらず、アキラのことをずっと睨んでいた。

「ああ、すまないな。慣れないと、そうなるか。いや、ここは隠れたりふけるのに良くてね。ちょうど、具合が悪いがベッドもあるだろ」

 そう言って笑いながら指したのは、ぼろぼろの体育マットが重なったもの。そこに腰を下ろしたアキラは、隣に来るようにマットを叩いて促す。あたしはくしゃみをすると、昨日感じた敵意が嘘だったみたいに、アキラはからからと笑った。

「よし、狐憑きの話をしよう。橘の家系は代々、悪狐に好かれやすいんだ。それで妙なまねをしたり、精神が狂ってしまったりする。おまえの母親も、悪狐に憑かれていたのさ。そして、今のおまえもな」

「……狐? あたし、狐になんか憑かれてない」

 そう、いるのはコンスタンティアだけ。不思議に思うと、アキラは、アキラにとって何もないはずの場所を見た。

「なにも、狐だけとは限らない。昔の人間が狐と言っただけでな、実際はいろんなかたちをしている。日本ではそうだが、外国では悪魔だとか、妖精だとか言われるのさ。今日はよく見えるよ、綺麗なお嬢さんが?」

 ……コンスタンティアが、見える。コンスタンティアの術を破って目視できる人間。コンスタンティアは後ずさりした。

「あなた、おかしいわ……」

「おまえから見れば、そうだろうな。オレの存在が、不快なんだろう」

 憑かれた橘の人間を判断するのは、そういったものが見えるアキラの灰淵家。当たり前のことだ。そうでなければ、少しでもおかしい挙動を見せれば殺されてしまう。なかったことにされてしまう。

「どうしてあなたのような存在が、この世に許されているの?」

「はは。それはオレが聞きたいね。オレだって好きでこの家に生まれて血を流されているわけじゃあ、ないんだから」

 ……アキラは、人間ではないのか。コンスタンティアを見ると、コンスタンティアはあたしの頭を優しくなでる。

「アイちゃん。私、昔、あの人の子を孕んだと言ったわね?」

 はっとした。いや、そうか、でも、そうでなければ。そうならば。アキラの目が赤く光るのを見た。コンスタンティアも、たまに目をルビーのように光らせることがある。

「悪魔の子……」

 あたしがつぶやくと、アキラはにやりとする。

「まあ、直接じゃあない。ご先祖が交わっただけでな、だが、確かにオレにはそういったものの血が流れているさ。なあ、女狐さん」

「ええ。あなたは不浄よ。汚らわしいわ。私は、子供と子宮を王様に返したのよ」

「さて、どうする? 橘から離れれば、橘はおまえの罪をかぶることはない」

 あたしの心臓が高鳴るのを感じている。コンスタンティアがこんな、悪魔の子なんかに負けるわけがない。その赤い血で、柔らかい人の肉なんて切り裂いてしまえる。コンスタンティアは殺さないだろう。これからのこと、あたしのことを考えるはずだ。

 ここでアキラが死ねば、あきらかにあたしがおかしいとがわかる。これまで橘は灰淵に守られて生きてきたという。

 あたしは両親から離れたあと、母方のおじいちゃんにしばらくは面倒を見てもらっていた。あたしの心や、体の傷を見ておじいちゃんは悲しんだ。それから、あたしは一人になりたいと言うと、近くに小さなアパートを借りてくれた。一週間に一度は、顔を見せてくれる。おじいちゃんはきっと、お母さんが狂ってしまったことを後悔しつつも恐怖して、あたしをこの地においたに違いない。深泥池、よどんだ色の、いくつもの屍が沈む、橘と灰淵の地。

 アキラが死ねば、おじいちゃん、その他の橘の血筋の人間が苦しむことを。アキラは見抜いているのかもしれない。

「……私は、アイちゃんから離れない。アイちゃんには私が必要だし、私にもアイちゃんが必要よ。あなたに首を突っ込まれてとやかく言われたくないの。お別れをするなら二人で決めて、話し合うわ」

 コンスタンティアは威嚇をするように歯をむき出しにするが、直接の行為に出ようとはしない。アキラは、馬鹿にしたように笑う。アキラはまるで、全てを投げ出して、いらないみたいに見える。今ここで死んでも構わない、というくらいの、強気。自分を襲うかもしれない鋭い痛みでさえ、気にしないような。

「まあ、そう言うだろうね。居心地がたいそう、いいだろう。オレも完全に悪魔だったのなら、橘に憑いていたかもしれないな。いい香りがするよ、死の匂いが。おまえが歩くたびに、いろんなものが死んでいくのさ。橘、藤寺アザミのことは知っているだろう。あの綺麗な子。マンションの三十階から身投げして死んだ。最初に見たのは、おまえだったそうだな」

「そんな、まさか、アザミが死んだのはあたしのせいだって?」

 アザミの気持ちを知っている。アザミを殺したのはあの悪意とたんぱく質の塊たちで、あたしとアザミとの間は短い時間だったけれど、人間と人間として付き合いをしたのだ。

「直接じゃあ、ないさ。でも、おまえの匂わせる死の香りが、アザミを死に急がせたんだろう」

「そんなはずない!」

「そうだな、おまえが存在することで、落ちそうだったアザミの背中を押しただけさ。落ちたのはアザミだ。おまえが落としたんじゃあない。だが、おまえの存在はな、死の淵にいる人間をいとも簡単に殺してしまうのさ」

 嘘。嘘だ。あたしは池でいくつも見届けたんだ。そのあとは知らないけど、でも、それでも、あたしはただの興味だったけれど、ただの人の好奇心として、死に触れてみたいけれど、死を与えようとは思っていない。息がし辛くなっていく。目の前が黒と白でちかちかして、自分が責められることにいくつもの嫌なことを写真で突きつけられていくみたいに移り変わっていく。死体と血と、あたしの血を。

「おまえに、死ねとは言わないよ。オレはな。だが、コンスタンティア、橘の死の香りをおまえも受けているだろう」

 頭を抱えるあたしを、コンスタンティアは抱きしめる。柔らかくて冷たい胸と、臓器の鼓動と息遣い。あたしが落ち着ける場所。

「否定はしないわ。私はアイちゃんの心も、姿も、そしてその死の香りが好きよ。大好きよ。愛してるわ。アイちゃんが私といると不幸になるって、アイちゃんが言うのなら私は離れるわよ。でも……」

「コンスタンティア……」

 胸の中で名前を呼んだ。離れたくないよ。そばにいてほしい。あたしを守って。あたしが大人になるまでを見届けてよ。あたしは不幸な目にあったんだから、あたしは踏み潰されて泣いて生きてきたんだから、少しは他人のことなんて無視して幸せな気持ちに浸りたいの。

「いずれ、おまえのような弱い悪魔は消え去るだろうさ。正しいものの手によってな。それで橘が狂うのなら、ま、母親のように硬い鉄の部屋で一生を泣き叫んで暮らせばいい」

「嫌な女ね、あなた。心があるのか、心配になるくらいよ」

「あるさ。今は必要ないだけだ。悪魔のおまえなんかより、ずーっと人間のことを知っているし、それにオレは人間だからな。言うことは言った。せいぜい、大人しくしてるんだな。橘の死の香りに免じて、オレがうまくやってやるからよ」

 体育倉庫の扉が開いて、夕日が差し込んでくる。ちらりとコンスタンティアの胸から顔をどけると、今までの馬鹿にしたような、生意気な、そんな印象をもたせたアキラがあたしに優しく微笑んだのが見えた。アキラの本心が見えない。そして、ゆらゆら手を振って歩いていく。コンスタンティアにバレないように。悟られないように、そのスキを狙っていたみたいだった。

「アイちゃん。今日は美味しいものを食べて、映画を見ましょう。それから一緒にお風呂に入って、お散歩して、一緒に寝ましょうね。心を乱されたでしょう? 本当、嫌だわ。私のアイちゃんに、私の大好きなアイちゃんにあんなひどいことを言うなんて……」

「……あたし、少しだけ、一人で考えてみてもいい?」

「え、あ、アイちゃん。それなら、私は離れているわ。ずっとべったりなんて、アイちゃんも疲れちゃうわよね。私が私がって、そればかりだったわ。アイちゃんは、人間だものね。また、私が来てよくなったら呼んでちょうだい。私はいつでも、アイちゃんの味方だから……」

 グラウンドの砂に足跡が残っている。本当の男の物よりは、小さめの靴。小汚いベッドに体をまかせる。コンスタンティアは、光の粉になって消えていってしまった。あたしが、ひとりぼっちになる。二人の赤い瞳が、狙うようにあたしを見つめていた。

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