アイちゃんと他殺願望

 深夜の二時ごろに、家からライターとアロマキャンドルを持ち出し、コンビニでアイスと、コーラを買う。大きな丸い月の下で、チカチカ切れかけた街灯に群がる蛾を笑い飛ばしながら、黄色のクロックスでアスファルトを跳ね回る。

 夜の深泥池では、たまに見れるものがある。自殺、だ。深泥池は、それ自体は何の変哲もない、ただな緑の汚い水が波打っているだけだ。しかしどうやら、自殺をするのにここを選ぶ人間が多い。それを止めてみたり、止めなかったりする。大人ならそこまで追い込まれての判断だろうし止めないけれど、子供なら、わかってくれそうなり止めてみたりする。少し話をカ聞いてお菓子を食べれば、たいていは落ち着いて帰っていく。その日は落ち着いただけで、あらためて死んでいるのかもしれないけれど。

 深泥池の不気味な緑と、異臭は、大量の屍が沈んでいるからかもしれない。水死体をみたことがある。髪の毛がすっかりながれて、水でぱつぱつに膨れ上がった体は、人間はこうも、水の中に居続けるだけで変われるものなのだと感心したのを覚えている。生まれる前は、誰だって水の中へ沈んでいたはずなのに。

 あたしは別に、良いことをしているとは思わない。その人間がどうして死にたいまでの気持ちになって、池に飛び込もうとするかの、単純な好奇心だ。たいていは、あたしが経験したことのほうが辛くて悲しいけれど、その辛さの許容量は人によって違うのだから、そういったことは言わない。でも、両親からの慈愛を十分に受けている人間が死のうとすると、悲しい気持ちになる。この人が死んだら、悲しむ人が二人いるのに。

 愛されて育った人間は、まともだ。愛されなければ、人間は狂ってしまうんだ。


 いつもの木陰でキャンドルに火をつけて、コンスタンティアといると、池にやってくる人間がいる。身長からして、男性だろうか。そろそろと近づくと、その男性はこちらに気づいた。びくっとして、あたしが小さな女の子にもかかわらず、すこし構える。が、すぐにあたしの姿を確認して、体制をもどした。男はスキニーのジーンズにスタジャンといった格好で、十代の後半ごろに見える。黒い髪で、なぜだか、片目を隠すようにしていた。

「なんだ、橘のアイか。なぜ、こんな所に?」

 名前を知られている。この人は誰? 後ずさりして答える。

「そ、う、だ。あたしは橘アイ。おまえは?」

「……そうか、知らないか。オレは灰淵アキラ。アキラでいい」

「どうしてあたしを知ってる?」

「それは、オレたち灰淵家が、橘家のやることをすべて隠してきたからだ。ずっと昔からそういう関係だった。おまえが両親を殺した……、ああ、片方が生きているんだっけ? そこまで騒がれずにしたのはオレたちさ」

「あたしが殺したんじゃない!」

 強く叫ぶが、アキラは引かない。

「ああ、そうさ、橘はそう言う。おまえの母親だってそうだったさ。まあ、いまは見放されてただのぬけがらと化しているようだが……」

 隣にいるコンスタンティアは、あたしの後ろに立って肩に触れる。

「怖いわ、アイちゃん。でも。いざとなったら、あたしが……」

「だめだ、コンスタンティア、そうなったら……」

 その言葉にアキラはにやりとした。コンスタンティアとの会話ににやりとした。

「コンスタンティア? そこに誰かいるのか? いないよな? どうした、気でもふれたか?」

 馬鹿にするように大きな声で笑った。

「いいか、橘。おまえの家は、昔は、悪人をここで処刑していたんだ。この土地を統括するものとしての責任だ。しかし、いつからか快楽のためや、自分のために、他人のために殺すようになった。そうなった、キチガイは灰淵の手で消さなければならない。その池に沈めて、な」

「あたしは殺してなんかないったら……」

「アイちゃん……」

 アキラが隠し持っていたのか、ナイフを取り出した。切っ先をあたしに向けると。とっさにコンスタンティアはナイフを無理やり奪おうとアキラに組みつく。

「な、なんだこれは……。橘、やめろ!」

「コンスタンティア!」

 あたしの声は聞きいられない。コンスタンティアはアキラからナイフをもぎとると、池に投げ捨ててしまう。ぽつり、と立ったアキラ。

「やはり、おまえは……。……これは持ち帰る」

 そう言って、去っていく。コンスタンティアが追おうとするのを、あたしが止めた。

「コンスタンティア。あたしたち、うちの家のこと、あの人の家のことを知らない。やめよう。あと、聞きたいことがある」

 コンスタンティアは震えながら、二メートルもある体を子犬みたいに震わせて、あたしが真実を言うのに怯えているようだった。


「あたしが知らないところで、人を殺していたんだな?」

「そ、う、よ……」

「どうして?」

「抑えられないの。衝動を。アイちゃんを守りたい。アイちゃんのことが好き。でもどうしても、私って、悪魔なんだわ。人のいのちを食らっていなければ落ち着けないの。私はアイちゃんの前では優しくて頼れる大人でありたかったわ……」

 あたしだって、そうだ。人が死んで生かされている。動物が死んで生かされている。コンスタンティアの手によって生かされている。その手が血にまみれていても、コンスタンティアが優しいことに変わりはない。

「あたしはそんなことで、コンスタンティア、おまえのことを見放さない。邪魔じゃない。必要だ」

「こんな、私でも、いいの……」

「また、そんな今更なことを言うのか。殺してもいいなんて、人間のあたしからは言えない。でも、言い方を変えよう。コンスタンティア、おまえといたい。生きているおまえと触れ合っていたいんだ。そのために必要なのことがあるのなら、なんでもするといい。罰はあたしも受ける。許したのはあたしだから。死ぬのなら、一緒に死ねばいい」

 崩れるように座り込むコンスタンティアの背中に、腕を回そうとするが十分にできない。コンスタンティアも、強くはないが、優しくそれを返すように抱く。

「アイちゃん。好きよ。大好き。こんな言葉で表現するのも嫌になるくらいよ。醜いし、私は汚いの。でも、そばに置いてくれてありがとう……」

「それでもいい。あたしはおまえのことが綺麗だと思うけれど、そういう否定をおまえが望んでいないのはわかってる。さっき、あたしの声で殺すのを止めたろ。なら、いいんだ。あたしの声が届く間なら、まだどこまでだって良い方向にいけるはずだから」

 柔らかな髪。じっとりとした池の水のにおい。足をくすぐる雑草たち。虫の声はひとつもしない。池の魚もただ静かにあたしたちを見ているみたいに。

 今、世界はここだけだった。あたしがコンスタンティアに触れる。コンスタンティアがあたしに触れる。コンスタンティアは愛の言葉をいくつも囁いて、あたしはそれを受け止める。いつものことで、何も変わりはしない。アロマキャンドルのうっすらとしたラベンダーの香り。十メートルもないこの空間が、いま、あたしたちの全世界。本当の世界から切り離されて、お互いを見つめあう。少しの沈黙と、許しあう、甘ったるい女の香りがする。

「アイちゃん、アイちゃん、私、接吻がしたいわ」

「キスか?」

「ええ、別にあの人と重ねているわけではないの。唇と唇なら、アイちゃんと本気で触れ合えるかと思ったの。でも、人間にとって接吻が特別なものなのは知ってるし、私はこれまでそういうことは私としてはいけないと言ったわ。でも、それでも、私、私は、アイちゃんに本当に、伝えたいの。アイちゃんのことが、大好きだって表現したいのよ。私って、わがままね。嫌だわ、嫌になるの。私、私のことがどんどん嫌いになっていくの」

「コンスタンティア。それは、ずるい」

「アイちゃん……」

 まだ、抱き合ったまま。世界はそのメートルのまま。

「そうやって弱みを見せて、キスをねだるのはずるいよ。あたしに何度も、おまえがそう言ったように、人間と幸せになるためにとっておけって言うくせに。それは自分勝手で、いけない。だからあたしはキスを許可しない。無理矢理するなら、すればいい。あたしは許可しないだけだ。おまえにはその力があるだろ」

 そう言った瞬間、コンスタンティアの手が離れて、地面に強く押し倒される。ぞわり、と。背中を死が舐める。コンスタンティアはあたしの腕を押し付けて、じっと顔を見る。鼻と鼻とがぶつかり合うような距離まで。

「あたしは、暴れても逃げることはできない」

 冷静だった。そっと、コンスタンティアの唇が近づいてくる。あたしは騒がない。ただこの状況に喜ぶことも落胆することもない。

「……ごめんなさい」

 唇は頬に優しく触れた。いつもするものと、同じもの。それからコンスタンティアはあたしから離れて、池を見た。

「たくさんの死体を、ここに落としたわ」

「言ってくれて良かったよ、コンスタンティア」

 死を望む。背中を押す。悪いことなのかわからない。その前にたくさんの痛みと苦しみを味あわせると、生きることへの欲望が、苦しみから解き放たれたいという欲望が湧いてくる。

 コンスタンティアは悪ではない。あたしはそう信じている。他の誰がどう思おうとも、あたしだけは、コンスタンティアを信じている。これまで見てきた沢山の死体を思い返して。

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