アイちゃんと知らない事の罪

 いくつもの大きくて分厚い手があたしに触れる。肉がついて、ふっくらして、濃い体毛の目立つ汚らしい手。あたしはそれがいけないことだと知らない。あたしはただ、埋まらないこころの溝を、子供なりにどこかで埋めようとしているだけだった。その深い意味を知らなかった。女の子は、簡単に人に体を触らせてはいけないこと。

 白いシーツに全てを投げ出している。いくつかのおぼろげな楽しい記憶、たくさんの悲しい出来事、目を瞑れば怖くない暗闇が待っているから。あたしは知らなかった。あたしは知ることができなかった。ベッドの中で悲鳴をあげていた。あたしが知らないことを、大人は笑う。教えてくれない、それを大人は食い物にするから。あたしが知らないことで、何人かの酷い大人は欲を吐き出すことができる。あたしの屍の上に。積み重なるようにして、あたしの小さな体にのし掛かって背負う。怒鳴りつける。あたしは涙をこらえて、何もまとわずに歩くしかない。この世で、罪を引きずっていることも知らないまま。


 脱衣所に、コンスタンティアが立っている。あたしの体を髪の毛の一歩から、足の小指まで眺める。掛け湯をしてすぐに湯船に浸かると、コンスタンティアが入ってきて、風呂のタイルの上に腰を下ろした。

「もう、使うタオルが増えるだろ」

「いいわよ、アイちゃんが使ったあとので」

 はあ、とため息をついた。そんなんじゃ、拭く意味がない。

「どうして風呂の三十分くらいも、大人しく待てないんだ」

「アイちゃんのことが好きよ。アイちゃんの体はとっても、綺麗だから、今日のアイちゃんを目に焼き付けて覚えておきたいの」

「どこがだよ……」

 綺麗なんかじゃない、背中には大きなケロイドがある。母親がやったものだったかな、この間会いに行ったときは、ぎゃあぎゃあと叫びまわるんで檻の部屋に入れられていた。小さな小窓から、自分の母親が動物園の猿と同じような扱いを受けているのを、ざまあみろなんて笑えればよかったけれど。複雑だった。だって酷いことをしたかもしれないけれど、あたしを産んだのは間違いなくあの人だから。

 見ないようにするなんてできない。あたしが背負う罪。知らなかった罪を、強く認識する。

「アイちゃん、ごめんなさいね、私はアイちゃんがうんと小さなころから、ときどき様子を見ていたわ。だってアイちゃんは、悪魔の好む香りがするから、それにこんな可愛らしい子が、悪い悪魔に捕まって酷い目に合うなんて許せなかったから。でも、人間に干渉することは、あまりよくないことなの……。いろんなことを、早く決断して、止められればよかったわ……」

「知ってるんだろ。あたしの人生に何があったか」

「ええ……」

「じゃあ、綺麗な体なんて言えるはずない」

「綺麗よ。他の人が、アイちゃんがどう思おうとも。私は綺麗だと思う。汚されてしまったことも、背中のケロイドや残ってる傷跡も、全部全部含めてアイちゃんが好きで綺麗よ。今のアイちゃんが好きよ」

 体に刻まれた見える傷跡も、見えない傷跡も、大人からつけられたものだ。大人は嫌い。大きな声を立てて、怒鳴りつけて、暴力を振るう。話してもわかってくれない、許してもらえない。満足するまでいたぶったら、それで終わり。

 大人たちの罪は重い。捕まって、裁判で刑を受ける。あたしの罪は知らないままだ。あたしと、コンスタンティア以外は誰も。裁かれることはなく、ただただ、あたしの記憶の中にある罪の意識とあきらめ、許してほしいと願う声。


 コンスタンティアの好きよ、は、もう聞き飽きたくらい。何回言わなくてももうわかりきっているのに、言いたくて表現したくて仕方がないんだろうと思った。コンスタンティアは、大人だけど、大人じゃない。

「あたしはきっと、呪われる」

 あたしのしてきたこと。実際に手を下したことはない。感情が昂ぶったコンスタンティアが血にまみれるのを、あたしは罪を抱いて見ているだけだ。あたしが血をかぶったことはない。その目だけは、血走っている。

「誰にも、しあわせになる、権利ってあるんだよな」

「もちろんよ。どんな悪人でも、罪を認めれば、この世でなくても、幸せになれるわ。それにしあわせになる権利なんて、ないわよ。なっていいの、誰でも。他人の人生が誰より幸せだって、妬むなんて無駄な罪の積み重ねでしかないわ。その罪は、いつか罰になって自分に降りかかってくるの」

 あたしが憎い人たちが幸せになって、あたしはそれを許すことができる? 笑って、楽しくしているのを、あたしは受け止めて、その人の人生なんだからと関係を断つことはできるのか。

 されたことは全て覚えてる。痛かったこと、悲しかったこと、つらかったこと、いまはわかるけれど、小さなころはわからなかった、酷くて醜くてむごい仕打ち。あたしがその罪から解き放たれて、全てを許せる時がきたら、大人になれるのか。感情を捨てて、醜い大人の一人になっていくのか。

「無理をしないで。ゆっくりでいいの。いまはただ、二人で楽しくしていましょう。許せないことだって悪いことじゃないんだから。許せないなら許せないままでいいの。だってそれが当たり前よ。ごめんなさいって謝られても、お金を積まれても、それだけで終わりにされるなんて許せないものね。でもいつかきっと、記憶が和らぐの。だからその手助けを、私はしたいわ」

 湯船に潜って、それからすぐに出る。少し待って、考えるだけだった。

「この世界におまえとあたしの二人なら、誰も憎むことなんてしなくていいのに」

 そうしたら、大人にならずにコンスタンティアのそばにいる。時間は進まない。ただあたしの体が成長から老いになるだけで。

「少なくとも、この空間はそうよ。他のことなんて、ここでは忘れてしまいましょ」

 ゆらゆらと、たちあがる湯気。水音だけが響いて、はっ、と声を出した。ああ、あたしは一体何をしていたのか。目が覚めたみたいだ。両手を見る。白い手。汚れてはない。あたしの手は、汚れていないし、これからも汚れない。

 あたしがコンスタンティアを許す。コンスタンティアがあたしを許す。不安になってコンスタンティアに手を伸ばすと、コンスタンティアは確かにそこに存在していた。鏡には見えないけれど、あたしの目に見えて、触れられるならそれでいい。

 大人にされた酷いこと、酷いこと、同じようなことをコンスタンティアにされたらどう思うだろう、と考えた。あたしは許すどころか、嬉しい気持ちになると思う。どれだけ痛めつけられたって、あたしはコンスタンティアの想いを知っているから。きっとコンスタンティアはそんなことはしないけど、そうやって愛を表現するのなら、あたしは受け止めて、許したい。そこに悲鳴や罵声はなくて、ただ女二人の息遣いがあるだけなら。もしもの、話だけれど。コンスタンティアがそうしなくてはいてもいてられなくなって、あたしに爪を食い込ませ、腸を引きずり出すのなら、それはもう、ひどくひどく甘い痛みなのだと思う。

 死の淵で感じるのはいろんな快感だった。息ができなくなって、はくはくと死にかけの金魚みたいに、ありもしない水面に手を伸ばす。脳から酸素が消えていって、命にすがる気持ちと、なぜか体が気持ち良くなる。死に触れかけている興奮、と言えばいいだろうか。触れてはいけないものに触れかけて、死が見える自分だけの喜び。

「他の誰かなんて、好きになれるのかなあ……」

「アイちゃん。大丈夫よ。きっとアイちゃんは、他人の罪も背負おうとするのでしょうね。そんなことしなくていいのよ。それは愛ではないわ。罪は自分で受けるものよ。でも、私には、背負わせてもらってもいいかしら」

「え、コンスタンティア、それは……」

「違うわよ。ふふ。私は強いから、アイちゃんが好きだから、きっとアイちゃんの罪だって背負えるし、その罪はふつうの子どもが背負うべきのものではないから。私はアイちゃんを、ふつうの子どもにしてあげたいだけなの」

「ふつうの子どもって、何なんだ……?」

「愛をめいっぱい受けて育つのよ。それだけ。私がこれからそうしたいの。アイちゃんは私に反抗だってしていい。怒っていい、罵倒してもいいの。私はそれでいなくなることはないから」

 知らないことの幸せと、罪。知らなければよかった、知っていれば避けられる。あたしはこれから、長い時間をかけて、失った子ども時代をやり直していくのだ。やわらかな土にもう一度種をまく。今度はきっと、咲いてみたい。育ちづらい土ではあるけれど。踏み潰されずに、太陽の光を浴びてみたい。悪意のある手足や声から、守ってくれるひとがいる。

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