アイちゃんと地方都市の魔女
夏休みも終わって、数日に一度は涼しさを感じられるようになったころ、隣のクラスでとても、いろんな意味で有名人だった、アザミという子が先生に呼び出しを受けて、それから学校に来なくなった。
アザミは大人しく口数の少ない子で、他人と争ったり問題を起こしにいくような子ではない。背は高く、中学生から高校生になったばかりの歳にしては大人びていてスタイルもよく、男子の話題にもよく上がっていたようだった。黒いふちの眼鏡の奥にはきれいな二重まぶたの目、鼻は高く肌は白い。恵まれた容姿からはほのかに性の香りがした。清楚な黒いロングヘアはていねいに手入れがされているらしく、いつもサラサラと風に揺らしているのは、妖精のようだと思ったことがある。あまりにも綺麗なものだから、援助交際をしているというあるわけのない噂を、妬んだ女の子たちが垂れ流していた。その顔は、アザミとは比べものにならないほどに醜かった。
成績もよく先生からの評価も上々と、優等生であるにも関わらず控えめで自分の頭の良さを鼻にかけることもない。
あたしは息苦しい教室から逃げ込むために図書室によく向かって、お互いを認識していた。アザミも、図書室にいた。同じなのだろう、と思ったことがある。あたしとは違う理由だけれど、周りに爪弾きにされて、ひとりぼっちだ。
二度か、それくらい言葉を交わしたことがある。あたしはあまり本に興味はなく、興味があるのはコンスタンティアだ。コンスタンティアを連れて、コンスタンティアの様子を眺めているだけなものだから、アザミは不思議に思ったに違いない。
「ええっと、橘、アイさんよね?」
可愛らしい、アイドルというよりは、影をもった女優のような。あたしはびっくりして、あまりに眩しいものだから目を逸らした。
「あ、うん、そう。何かある?」
「ううん。特に用あるわけでもないんだけれど、よく見るから、本が好きなのかと思ったら、いつも表紙を眺めていくだけだし」
「いや、単に教室より、落ち着くから……」
そうね、とアザミは足元を見る。白い上靴。新品だ。
「わたしもそうなの。わたし、アザミっていうの。藤寺アザミ。橘さんのことはよく知っているわ」
「あたしも、知ってる」
そう言うと、お互いにくすくす笑った。アザミが受けている仕打ちは、あたしに対してのものより酷いことも知っている。
あたしはただ、ここにいないことにされるだけだ。アザミは、あまりにも存在感がありすぎる。
夏休みの前ごろだったか、あいつの鞄を池に投げ込んでやったわ! と、大きな醜い声が響いたのを覚えている。その後学校から抜け出して深泥池でコンスタンティアと居ると、よろよろとした足取りで、緑色の汚い池に浮かんだ鞄、その中身を拾うために手を入れる綺麗な女子生徒を見た。
そんなことをされていることを感じさせない。アザミは、いつまでもどこまでも美人なのだと思う。この国の、この場所に産まれて育ってしまったことが、他人であるあたしが虚しくなるくらいに、むごい。
「また、その、良かったら少し、ここでお話がしたいな。橘さんが、嫌じゃなければだけれど……」
「ああ、それは、構わないよ。ゆっくりだけれど。それで、何か力になれるなら」
アザミはいくつかの文庫本を抱えて、頭を下げた。
「橘さん、橘さん、ありがとう!」
そんなこと、話すだけで感謝する必要ないのに。そうするとチャイムが鳴ったので、アザミは手を振ってそそくさと図書室を出た。
あたしにはコンスタンティアがいるけれど、アザミには、コンスタンティアはいないのだものな。あたしがコンスタンティアにどれだけ救われているのかは、よくわかっている。あたしがアザミのコンスタンティアのようになれるかはわからないけど、人間としての、最低限の良心は持ち合わせているつもりだ。それすらない人間、クラスメイトたちは、あたしは人間と認めていない。悪魔のコンスタンティアでさえ人を想い、愛することができるのだから、あいつらは悪魔と形容するのも腹立たしいほど。ただの、悪意の塊の、たんぱく質だ。
コンスタンティアはその様子を邪魔することなく、本棚の奥からそっと出てきた。
「アイちゃん、これを借りていくわ」
そう渡されたのは小難しそうな哲学書と、植物の、……花言葉の本だった。それを受け取り、貸し出しカードを書く。誰もいない図書室。
「今日は、授業はどうするの?」
「ん。出るよ。そろそろ出なきゃまずいし」
「そう。がんばってね。借りてくれてありがと」
コンスタンティアは図書室から出ようとすると、すん、と、鼻をきかせる。ちょうどアザミが居た所だった。
「死の匂いがするわ。たくさんの死がやってきているわ」
その言葉にどきりとした。アザミに、何かあるのでは。本を鞄に押し込んで、階段を駆け上がった。高い声の悲鳴が聞こえる。遅かった。アザミの声ではなかった。アザミはどうしているのだろう、関わったのは一瞬だったけれども、似た波長を感じたから。どうにかアザミの姿を確認したくて、思い切り足を踏み出した。
教室はがらんとして、誰も居なかった。移動教室か、扉の窓から時間割を確認して、理科室に走ると、近づくたびに死の匂いが、あたしにも感じられる。死の匂い、血の臭い、理科室から飛び出してくる生徒、その真ん中で、血にまみれて、くすくす笑うアザミがいた。まるでさっきの様子とは違う、何かが取り憑いたような。コンスタンティアはあたしの前に立って、守るようにする。
コンスタンティアの後ろから確認できたのは、たくさんの、動物の死骸だった。何なのかははっきりわからない。おおきさは犬か、猫か、それくらいのもの。腸を引き裂かれて、首は切断されたものが、いくつも理科室のテーブルに乗せられている。
「アザミ!」
叫んだ。あたしは叫んだ。アザミははっとして、持っていた刃物をカランと落とした。血走っていた目がみるみるうちに戻っていく。周りの様子を見て、力なく、血だまりの中に崩れる。アザミに駆け寄ろうとすると、アザミの担任が止めた。あたしは強く睨む。おまえが、大人が守ってやらなかったから、美しいアザミは狂うことでしか助けを求められなかったことを瞬時に理解した。
「殺してやる……」
思わず、そう、声に出た。
「アイちゃん! いけないわ!」
コンスタンティアも叫んだ。コンスタンティアの声はあたしの耳にだけ通る。あたしはそれで現実が見える。力を抜いて、アザミに、笑いかけた。そうするとアザミは、弱々しく笑い返してくる。綺麗なアザミ、赤く、臓物にまみれて、歪んでいった、それでも綺麗なアザミ。この世が、大人が、たんぱく質の塊たちへのこの上ない殺意に、コンスタンティアはあたしを抱いて止めようとする。
その他にも、アザミは、いろんなことをしていた。ネズミか何かの臓物を、いじめていたグループの女の子の靴に塗りつけたり、ぺしゃんこに潰れた小鳥や虫の死骸を机に入れたりしていた。アザミは動物を殺さない。アザミは優等生だ。日々受けるいじめのストレスに対して、発散したくて、いけないことをしたい、例えば、動物の死骸を探して集めるような。アザミは絶対に、動物を殺したりしない。そうでなければ、あんな美しい少女に育たないから。でも、歪んだまわりのたんぱく質たちのせいで、美しい少女が周りにあわせようと歪み、歪みすぎることが、ただただ、悲しくて仕方がないんだ。
それからアザミは学校に来なくなった。クラスメイトたちは、アザミのことを魔女だと呼んだし、魔女がどこにいた、会ったら殺されると恐れるようになった。あたしはアザミを探したけれど、アザミには会えない。他のたんぱく質たちはアザミの姿を見ることができるのに、どうして、あたしだけが。アザミのことを思うとやるせなくなって、今どうしているだろうか、大丈夫だろうかと、どうにかして、他のたんぱく質どもからアザミを救ってやりたかった。あたしはアザミの、コンスタンティアになりたかった。あたしが救われたから、今度は誰かを救いたかった。
あたしは夕方の街をとぼとぼと歩いていた。夕飯のこと、明日の小テスト、憂鬱なクラスメイトと頼れない大人たち、そして、アザミ。
コンスタンティアがつぶやく。
「死の匂い……」
べちゃりとした、水の叩きつけられるような音がした。振り向くと、黒髪の、制服を着た少女が地面にへばりつくようにしていた。腕や足はあらぬ方向に曲がり、血がじんわりとアスファルトに滲んでいく。さらさらと、揺れる妖精の髪。駆け寄って、そして空を見上げる。何階あるのだろう、高い高いマンションが夕日でオレンジ色に染まる。あたしは携帯を握る。泣いたり叫んだりはしない。悲しむのは後でいい、アザミのために、そう、まちがいなくアザミのためにすることは決まっている。美しい少女から流れるものは、血の色はでさえも鮮やかで、うっとりするものなのだ。アザミの曲がった手を握る。人の温度がした。コンスタンティアは、その上から手を握った。ひんやりとして、冷たかった。
それから、まだ頼れないといけない大人たちと話をしたあとに、うちへ帰った。ポストを開けると、水色とピンクで水玉の、可愛らしい封筒が入っている。差出人は、藤寺アザミ。宛先は橘アイ。あたしは一瞬思考を止めた。アザミは、死んだ。大人が言っていた。助からない。即死だったから。そのアザミからの、あの世からの手紙。おそるおそるポストから引きずり出した。
アザミの筆跡。かすかに、あの美少女のなごりを感じる。きっと一ヶ月もすれば皆、アザミのことなど忘れるのだろう。アザミにしたことを悪びれることもせず、アザミの家族に謝罪することもなく……。
アザミがなぜ死んだのか、誰にもわかるはずなかった。それが自分に行われていることであるのに、他人に行われているような、そんな目でいつもアザミはものを見ていたと思う。いじめられている時、誰かに助けを乞うように泣いたり、人に希望の目を向けたりしていなかった。いや、あたしにだけは、ただのたんぱく質でなかったあたしには、アザミは笑いかけた。
手紙を受け取って、人としての感情を殺して淡々と生きてきたけれど、自分がもしかしたら触れられたいのち、一緒に長い時間を過ごせるかもしれなかった波長をしていた、そして周りから迫害され、見下していた。同じだった。同じもの同士、もっと早くに寄り添うことができたら。アザミの手紙を握りながら、死んだアザミを思い出した。お葬式には行けるだろうか。現実と、希望。
あたしにはまだ、開けられない。あたしの中のアザミは現在にいるから。アザミが過去になって、あたしが耐えられるようになったら、この中のアザミの苦しみを背負って、この世で生きていくことができると思うから。
黒いカラスが夕方の空を埋める。コンスタンティアはつぶやく。
「アザミの花言葉は、報復。触れないで。ですって」
手には先日借りた花の本がある。あたしは、アザミに触れてもよかっただろうか。触れてみたかった、またお話したいって、言葉を交わしただけで、意識の奥でぴったりと糸が結びついたみたいだったら。
あたしはコンスタンティアになにも言わず、玄関のカギを取り出した。
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