アイちゃんと雨降りの日曜日

 うっすら明るくなったカーテンを、よろよろと羽毛布団から抜け出して開く。地面を打ち付ける激しい水音、篠突くような豪雨は、天が泣いているというよりは、怒っているようにしか思えないほどのもの。すん、と、雨のにおいを嗅いだ。晴れているときよりは、ずいぶんましだ。日光は、特に自分の体に悪いわけではないが、周りの人が晴れたことを喜ぶのが大嫌いで、それでなんだか具合が悪くなる。

 コンスタンティアはいつから起きていたのか、はたまた眠っていないのか、床に腰を下ろして、図書館から借りてきた本にかじりついていた。本を傷つけぬようにと、小さな文庫本に対して、まるで子猫でも触るような手つきだった。コンスタンティアは、家でそうしていることが多いし、あたしがパソコンをつけると、美術品のページが見たいと言う。あの人の影響か、人が表現するもの、文であれ絵であれ彫刻であれ、音楽であれ、なんでも好む。そうして、人間を知ってきたし、人間になろうという努力に違いなかった。あたしは面倒をみてやる立場なんで、他にすることなんて重大なことでもないし、図書館に行きたいと言えば連れてってやるし、近くで美術展があると聞いたら誘ってやる。

 コンスタンティアの姿は、人間には見えない。コンスタンティアが姿を現し、一緒にいることを約束した人間だけが、コンスタンティアが身を隠す術を使っていても目視することができる。

 二人で観にいっているのに、映画や美術展のチケットは一枚でいい。高校生と、悪魔一枚なんて、笑えるんで、窓口で一度言ってみたいものだけれど。


 日曜日はよく、家でドラマを見たり音楽鑑賞をしていたが、今日は重大な約束がひとつ、あたしにはあった。そのことを思うと、コンスタンティアの姿を見て安心していたけれど、やはり、恐ろしくて、服を脱いで下着をかえて、服に着替えようとすると手先が震える。

「アイちゃん?」

 服だけでも好きなものを着ていこうと選んだ赤いブラウスを足元に落とした。姿見に、下着姿のあたしだけがうつる。やせ細った、青白い肌をしている。立ち上がったコンスタンティアは、鏡にはうつらない。

「大丈夫?」

 首を横に振った。大丈夫じゃない。ピンクでふわふわのレースのついた下着は、コンスタンティアが選んでくれたものだ。似合いはしないが、選んでもらったものは、好きでいたい。ちらりと、肩に見えてしまった、ケロイド。

 ブラウスの上にうずくまる。真っ青な顔のあたしを、姿見は容赦なくつきつける。苦しい現実、醜いあたし、強がったしるし。

 コンスタンティアはあたしを抱き寄せる。後ろから、そっと、あたしが誰にもしてもらえなかったことを、あたしはコンスタンティアに求めた。

「アイちゃん。大丈夫よ。私がついているわ。何があったとしても、私がこれからはついているから。ずっとずっとアイちゃんの味方よ。怖いものがあっても、私が守ってあげるわ。だって私は強いもの」

 そう、人間よりも、ずっと強い。この世の人間の、誰よりも強くて、やさしい女。周りの人間には、あたしは一人で生きているように見えるだろう。

 コンスタンティアの冷たい腕を握った。氷とまではいかないが、生き物だとは思えない体温は、蒸し暑い上にひどい雨で窓も開けられないので気持ちがいい。

「ずっとこうしていたいよ……」

「私もよ。ずっとアイちゃんといたいの。でも、アイちゃんは人間だし、まだ小さいから、学ぶためにやらなくてはいけない事がたくさんあるわね。それを肩代わりすることはできないの。だから、辛いことや悲しいことがあったり、嫌なことをしないといけないとき、私がそばにいるわ。大丈夫よ。アイちゃんはいい子だって、私は嫌になるくらい知っているんだから」

 おそるおそる、ブラウスをつまむと、コンスタンティアは少し離れた。

「それを着たいなら、きっと、黒いパンツが似合うわ。アイちゃんは足が長くて綺麗なの。膝の形がとっても綺麗で、私はお気に入りなのよ。だから、短いものでもいいわね」

「そうする。ありがとう。おまえは、センスがいいから」

「私はなかなかおしゃれができないから、代わりに、アイちゃんに可愛かったりかっこよかったり、そうね、いろんな服を着てみてほしいって、思っているの」

 言われた通りに、クロゼットから黒のショートパンツを取り出した。合わせてみると、確かに、自分でいつも選ぶ組み合わせよりは自分が生かされているという気分になる。自分に似合う服を、着るということ。自分が確立されているということ。ずきりと胸にきて、今までもやついていた自分の姿がはっきりして、奥の方にある本当の気持ちに触れたような感じがした。

 幼い頃から、気持ちを押し込めている。両親と暮らしていたころは、家の中を飛び交う罵声とか、金切声におびえて、ベッドにうずくまっていた。たまに、これは、まだ理解ができないのだが、仲良くあたしを置いて出かけていくときがあった。穏やかな気持ちになれたのを覚えている。夜中にゲームをする父親の背中とテレビの画面を、ばれないように、数時間黙って見ていたものだから、やってみたくて、コントローラを握ってみる。

 今日と同じような雨の日曜日だって、あたしの父親は、ゲームをしていた。そのときに、あたしにもやらせてとお願いしたことはない。後ろで見ているだけで、遊ぶのは、両親がいないときだけだった。

 母親に対しては、何も思わなかった。父親がいないときは、眠っていた。ただ、なんとなく生きていけるだろうというくらいの食事をあたしに与え、買い物のついでに、最低限必要なものだけを買い与える。テレビを見ていて、欲しいおもちゃがあったことがあった。ケーキをつくるおもちゃ。一度だけ、母親におねだりしてみたことがある。母親は、ファッション雑誌を見て、『ケーキなんて、買えばいいでしょ』と言った。ケーキなんて、買ってくれたことないくせに。

 嫌いとか、好きとか、まっすぐな感情じゃない。学校でまわりから聞く家族の話、本やドラマで得られる、『ふつうの家庭』の情報に、むかむかして、どうしてあたしが、あたしだけがこんなに苦しい家に縛り付けられていなくてはならないのかと。

 刃物が飛ぶ日もあった。雨風はしのげる場所だった。でも、大人からの暴力や、暴言、肺を蹂躙するたばこの煙からは逃れられない。よわい子供は、どこに助けを求めればいいのかもわからなくて、ただ、いつ命が奪われるかわからない場所で眠るしかなかった。紛争地帯の子供よりずいぶん幸せなんて、言わないでほしい。あたしの世界はここしかない上に、地獄だったのだから。

「コンスタンティア、あたしが、おまえと出会わなかったら、どうなっていたろう。死んでいたかもしれない。あたしはこのうちで、あと数年だって生きる我慢もできなかったかもしれない。あたしはおまえと出会って、はじめて、人間になれたのだと思う」

 何かを主張できる自由。二本の足で立って、歩き回る自由。家という牢獄から抜け出して、子供のようにスキップしたのを覚えている。家の中は、血で赤かった。

 コンスタンティアは優しい。いつまでも、どこまでも。あたしの後ろにいて、ドラマで見た母親や、姉とはまた違うけれども、あたしの心を安定させて、安心させる。

「悩んでいたの。今は違うわ、正しいことをしたって思ってる。これから、長い時間を生きていなくてはいけないアイちゃんには、あまりにも過酷すぎたもの。だから私は解放をしたわ。アイちゃんに幸せになってほしかったし、お母様たちは、アイちゃんを幸せにしようなんて思っていなかったもの。アイちゃんだって、家族のことを欠片だって愛してなかった」

「そうだった。間違いない。あたしの中で、ただ恐怖として存在していたんだ」

「ただ、私は、アイちゃんを人間でなくしていくお母様たちが憎くて仕方がなかったのよ。アイちゃんが生まれたときは嬉しかったでしょうね。私もそうだったし、たくさんのことをね、アイちゃんに言われて考えたわ。子供は、ものじゃないんだって。生まれたら、終わりじゃなくて、この先何十年も存在していくし、その責任をとらなければならない。お母様たちはアイちゃんへ責任をはたさなかった」

 立って、歩けて、話せるよろこび。人として当たり前の権利。たくさんの心と、体に残った傷。消えはしないが、癒すことはできる。人間は忘れることができる。楽しかったことも、そして、難しいけれど、嫌だったことも、いつかは忘れて乗り越える。それが、あたしには、少し早く、たくさんのことがおきすぎただけだ。あたしにはコンスタンティアがいる。それでいい。コンスタンティアが、あたしの手を取って引き上げてくれる。コンスタンティアが悩んだときは、あたしは、隣で話を聞いて、触れる。引き上げるまでの力はないけれど、コンスタンティアは強いから、自分で上ってこられる。

「お母様に会うのは、久しぶりで、緊張するわね」

 無邪気に笑う。あたしも、同じように笑顔を返してみせる。

「元気でいると、いいけれど」

 深泥池精神病院へは、バスで二十分ほど。その間は、イヤホンで、お気に入りの古い洋楽を二人で聴いていこう。

 君に恋しそうなんだ。一度のキスで恋に落ちるんだ。一度だけでいいからさせてよ、一度だけ。キスさせて、キスしてよ。ああ、なんて、まっすぐで、馬鹿らしいんだろうって、二人で口を大きく開けて笑いたいから。

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