アイちゃんとたのしいディナー

 カツン、カツンと、銀色の食器がぶつかる。蛍光灯に反射してぎらつく小さな刃物を向けるのは、肉の塊だ。茶色く焼けているが、赤い肉と血の面影を残している。刃物を入れると、じわりと肉汁があふれて、白い皿を汚していった。

 夜の七時を知らせる時計の鳩の声。生まれる前からある古いもので、もう誰も、それを気にすることはない。知らせが正しいのかどうかも。あたしは右手で携帯電話を握れば時間以上のことを知ることができるから。

 食卓はしんとして、ぶうんという、冷蔵庫の機械音だけが響いている。四人家族がちょうど食事を囲む、木製のテーブルと椅子に、一人分だけの食事が広がっていた。ハンバーグとポテトサラダに生野菜、お味噌汁とお茶碗に半分ほどの白米。日本人の食事だった。

 それを口に入れるたびに、向かいの椅子に座っている女は、うれしそうにする。特に、女がこの食事を用意したわけではない。あたしが食べて飲み込むという動作を見ることにただ喜びを感じているだけのようだった。

「おいしそうね、アイちゃん」

 口を動かしながら、頷いた。あまりたくさん食べる方ではない。ただ、限界まで追い詰めて脳が食べ物を欲しがったときに食事をとるとずいぶん美味しいことを幼い頃に知ってしまったので、今も癖として残っている。

「私も、昔、人間の食べ物を食べたことがあるの。最初に食べたのはクッキーだったわ。食べているのを見ていたら、おまえの口に合うかどうかわからないが、って、くれたのよ。歯に触れると固くて、でも、ハーブの香りが口の中に一瞬で広がって、そのあと柔らかい甘みを感じたわ。今まで私の食べるものといったら、死骸か、死肉か、そんなものだったから。生きるため以外に食べることって知らなかった」

「食べるったって、その腹じゃあ……」

 あたしが女の腹にあいた大きな穴について指摘すると、そうね、と、少し暗い顔になった。

「昔はこんな穴、なかったのよ。あの人のことって、あまり話していなかったわね。聞いてくれる?」

「突っ込んだのは、あたしだから。聞かせたいなら、聞いている」

「優しいのね、アイちゃん」

 たんたんと食事をとるための、バックミュージックにすぎない。それで女が何かを、安心や安定を得られるのなら、あたしが居るだけでいいのなら、一緒に過ごすひととして、最低限の責任としてそうしているだけだ。女は目をつむる。思い出の引き出しを漁って、ひっくり返しているのだろう。

「私は、今はこんなおぞましい姿だけれど、昔はとても綺麗だったわ。自分で言うのは、照れちゃうけど、本当にそうだったのよ。あの人に出会ったのはその頃だったの。あの人はとても魅力的で、そして、人間らしかったわ。美しいものをつくるの。大きくて骨ばった手で、嘘みたいに柔らかくて美しいものをつくるの。私は隣で真似をするように氷をたくさん削ってみたけれど、うまくいかないわ。それを見て、子供みたいに笑ってみせるのよ。そして、私の手をとって、いびつだけど綺麗なものをつくるの。それが私に似合うって、そう言って。そう思ったわ。私は見た目こそ、その時は綺麗だったけれど、食べるものは死肉だったのだから!」

 あの人とは、芸術家なのだろうと悟った。女が氷を操るのがうまいのは、きっと、あの人の隣で何度も氷の塊を作り出したからだ。地球の温度で、どうしてもすぐに溶けて消えてしまう氷。

 食事中に死骸の話をされても、想像しても、気分は悪くならない。むしろ、そうか、やはりと納得する気持ちの方が大きい。形容として人間である、怪物であると言うのを女は好むが、女の心がどれだけ人間に近しいものであろうとも、過去からは逃れられない。女は、怪物で、あたしは人間だ。

「私はそれからたくさんのことを知ったわ。一番最初にびっくりしたことは、接吻よ。口と口とをあわせるの。私の口は、血と肉で塗れているわ。素敵なことだって理解できたけれど、接吻をするのに随分勇気がいったの。でも、そばにいて、あの人の痩けた頬を見ていたら愛おしい気持ちになって、そっと口づけをしたわ。それから、私はあの人の綺麗な恋人になったの。毎日そばにいて、隣でにおいを嗅いだり、問いに答えて、時々触れるのよ」

 女は机に爪を当てて、何かを描くような仕草をしている。照れ隠しだろう。女にとってあの人の思い出は大切なもので、今のあたしとの関係性とは、また違っている。あたしは女に対してどうすればよいのか、冷静に耳を傾けているだけだ。なにかできたとして、過去に干渉して殺されることがあれば、それはあたしの悪い心が働いた結果にすぎないのだから。

「子供ができたのか?」

 尋ねて欲しいのだと思った。自分から、男女のまじわりについて話すことに抵抗があるだろうと思った。女は、はっとして目を見開くと、頬を赤く染める。

「そう。膨らんだ私のお腹を見て、あの人は喜んだわ。とてもね。でも、化物と人間の子なんて、どんなものが産まれるのか、無事に産めたとして、私達以外に愛してもらえるか、って。そうしていると、王様が、私を呼び立てて、子供と、それからもう子供ができないようにお腹をすっかり抜き取ってしまったの。そして、人間の男と触れられないようにと、全身から血を流していなければならない罰を受けたわ。でも、それで悲しかったけれど、間違ったのは私だったから。今はそう思えるけど、あの人の所に帰って、まだ愛してもらえると思って、名前を呼んだの……」

 そうか。今は血を垂れ流してはいないが、女の頭や腕、足から伸びる赤い角のようなものは血だったのだ。あれに触れると冷たくて、妙に鉄のにおいがする。


 女は涙を浮かべ、無理やり笑うようにする。食器を置いて、あたしの小さな身体から伸びる短い手では女の頭に届かないが、椅子から乗り出すと、頬に触れることができた。冷たい、氷の涙が親指に触れた。

「子供はね、二人の愛の証でしょう。だから、それを失った上に怪物にされたものだから、あの人は最初は大きな叫び声をあげたけれど、少しずつ慣れていこうとしたの。でも、もうだめだった。あの人は私の心だって愛してくれていたけれど、触るたびにぬらぬらとした、ひどいにおいのする液体が体につくのよ。そんなので、以前のように愛しあえないって。仕方ないの。間違いだったのだから。ひどい人じゃあ、ないのよ、あの人は。普通で、素晴らしい人。ただ、人間と、怪物とではそもそも無理があっただけ」

「……あたしから言えることは、子供は、愛の証だけで終わるものではないということ。人であるということ。だから、おまえとあの人の子供、の価値観が、愛の証でしかないのなら、それは不幸にしかならない。さらなる不幸にしかならない」

 止まらない涙を拭ってやると、手先がかじかむような感じがした。氷の涙は、人のものではない。長い緑の髪へ手を入れて、手櫛をする。今でも、十分すぎるほど美しい姿をしていると思うのに。女は、声を震わせる。

「だからね、私は最後に、名前をちょうだいって言ったのよ。別れる前に。あの人が呼ぶ名前がなかったの。私たちには概念がなかったわ。それに二人だけだったから、呼ぶ必要がなかったもの。そうしたら、あの人は、愛してくれたときの笑顔を作ってくれて、血塗れの手を握って、これからは、コンスタンティアと名乗りなさいと言ったわ。コンスタンティア、って、変わらないって意味だってことも教えてくれた。だから私は、納得して、あの人とさよならをしたの」

「あたしも、そう呼んだほうがいいか?」

 今だって、状況ならば、あの人と女とは変わらない。女は、アイちゃんと呼び、あたしはおまえとか、おい、とか、そう呼びかける。

 涙を拭っていたあたしの手をそっと、女は離した。もう大丈夫よ、と小声で言った。

「そうね。アイちゃんがつけてくれてもいいし、コンスタンティア、と、そう呼んでくれていいわ」

「そう呼ぶことで、おまえが、苦しくはならないか?」

「いいえ。気に入っているのよ。私は変わったけど、変わらない部分もあるんだわって、思ったの。根っこの部分はどうしても変われないわ」

「……気に入っているなら、それを、あたしは受け入れたい」

 手を引っ込めた。重なり合わない、二人のひととしての付き合い方。頼りたい時、頼られたい時、お互いに変わっていけばいい。あたしも救われている。ただ、ずっとそのままじゃ一緒に倒れて、死んでいくだけだ。二人でいるのだから、やれることはたくさんある。

「コンスタンティア。今日からおまえは、コンスタンティアだ」

 コンスタンティアは、にっと、歯を見せて笑う。これは、あたしの気持ちの押し付けかもしれない。あたしが、今、コンスタンティアと名付けた。

「ええ。アイちゃん、ありがとう。私はコンスタンティアよ」

「……食べるか?」

「え?」

 食べかけのハンバーグ。コンスタンティアは大きな自分の胸を、大きな手で押し付けるようにする。

「アイちゃん、嬉しいわ。でも、せっかくの食べ物を、私は消化できないのよ。飲み込んでも、お腹の穴に落ちてきちゃって、汚らしいの」

「味覚はあるのか?」

「え、ええ……」

 銀色のフォークで肉を少しだけ、コンスタンティアの口に近づけると、おそるおそる、口に入れた。ゆっくり、ゆっくり、咀嚼する。さっきよりたくさんの氷の結晶が、コンスタンティアの目から溢れてくる。

「おいしいわ。おいしい。すごく、おいしいわ……。でも、悲しいの……」

「気にするななんて言わない。あたしが背負う」

「アイちゃん、アイちゃん、ごめんね。私のこと、すごく、思ってくれるのに。私が人間だったら、アイちゃんはこんなことしてくれないだろうって、思ってしまうのよ」

「そうだと思う。あたしは、コンスタンティア、いまのおまえのことが、気に入っているんだから」

 あたしは、好きだなんて言わない。感情が、そうではないからだ。もっと違う何かであるが、はっきりとはわからない。近しい言葉を口にすることは、嘘ではないと思う。でも、できないのは、あたしがまだ、子どもだからだ。愛の証として、役割を終えたひとりぽっちの子どもだからだ、何も教われない哀れな子どもだからだ。

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